6-25.有るはずのない記憶
レギーナはもはや、鍛錬どころではなくなってしまった。
彼女は繰り返しフラッシュバックを起こすようになり、最初に発生した鍛錬場には近寄ることすらできなくなった。さらには朧華と銀麗が言い争うのを見るだけでも、抜き身の剣や攻撃魔術を目にしただけでも、引きつけを起こすほどになってしまったのだ。
そして残酷なことに、発作を起こしていない時の彼女は発作中の出来事や自身の醜態をしっかり記憶していて、無様に変わり果てた自己のメンタルを思い返してはまた病む始末。
そんな日が数日に及び、日を追うごとにどんどん蝕まれ崩壊してゆく己の精神に、彼女が耐え切れていないのが傍から見ていてもよく分かる。だというのに、効果的な解決方法がアルベルトにもミカエラたちにも皆目分からない。
いっそのこと、彼女が勇者であることを諦めきれたのなら楽になれるのかも知れなかったが、彼女はまるで何かの呪縛に囚われたかのようにその自我だけは捨てられなかった。だからこそ彼女は今、精神的な死に瀕している。
このままでは勇者として復活するどころか、廃人にさえなりかねない。
「どげんしょう……どうしたらいいとやろか……」
「このままでは……だけど、」
「代われるものなら、吾が代わってやりたいが」
「こればっかりは、レギーナどの本人が克服するしかないだろうね……」
対症療法としての[平静]はもう何度試したか分からない。もしや蛇王戦での瘴気が抜けていないのではないかと[破邪]も試したが、思うように効果が出なかった。法術の[請願]を下ろそうにも、除去すべき原因が特定できていなければおそらく発動さえしないだろう。
「……何とかならないものかしらね……」
「ひめが壊れちゃうよ…」
「もう無理ですよ!ひめさまはぼくが連れて帰りますから!」
レギーナに抱きついて涙目で怒るライの言葉に、ミカエラたちも言い返すことができない。そんなライに泣いて抱き縋りつつ「イヤ……勇者は辞めたくない……!」と嗚咽するレギーナの姿がまた悲痛を極めるのだ。
「はー。なんやえらい雰囲気真っ暗やないか。葬式でもしよるんかと思たわ」
ナーンがふらりと帰ってきたのは、そんなタイミングでのことであった。
「ナーンさん……」
「なんやなんやアル坊、そないな今にも死にそォな顔しなや。⸺でも死んどるんは姫さんの方か」
「そうなんだよね……」
アルベルトはナーンに、事の経緯を話して聞かせた。彼はこう見えても黄加護らしく知恵者で、どこで積んだのか経験も色々と豊富なので、困りごとの相談をするにはある意味でうってつけの人材だったりする。
とはいえ、死の恐怖に囚われて怯懦に堕ちてしまった勇者の心を救う方法など、知っているとは思えないが。
「あ~まあ相手はあの蛇王やねんからなぁ」
主寝室の外まで連れて行かれて小声で相談を受けたナーンが、扉の隙間からベッドの上でライと抱き合う弱々しい勇者の姿をチラリと見やる。
レギーナは今の情けない自分が許せないのか、あるいはアルベルトにだけはそんな姿を見られたくないのか、こうなってからずっと彼を遠ざけている。そんな状態なので、子供の頃からずっと傍にいてくれていたライの存在に、彼女は若干依存しつつもあった。それはそれで再起を遠のかせそうで、そこもまたミカエラたちの懸念になっている。
「どうしたらいいと思う?」
「せやなあ、試したこと無いねんけどもやな」
「……けども?」
「要は、そんだけ蛇王がおっとろしかった、っちゅう事やねんな」
そんな事は分かりきっている。何しろ自分を殺した相手だ、恐ろしくない訳がない。
「せやけどやな、恐怖心のトラウマなんちゅうのは『一番怖い』よりも『最初の怖さ』の方が案外強いらしいで?いや知らんけど」
そう言われて、アルベルトは自分に置き換えて考えてみた。
自分自身、蛇王に殺されかかった身であり、その時受けた恐怖は今思い返しても二度と味わいたくはない。だがあの時はユーリやネフェル、マリアやナーンなど頼もしい仲間たちが一緒に居てくれたし、何より自分を庇って若い生命を散らしたアナスタシアのショックの方が強すぎたため、今となっては錯乱するほどでもない。
それ以外で思い浮かぶのは、ラグの山中でセルペンス一味に取り押さえられて殺されそうになった件だが、あの時は諦めの方が強くて正直あまり怖くはなかった。
記憶にある中で最初の『怖さ』の記憶は、なんと言っても、瘴気に呑まれた故郷ゴリシュカから母や護衛たちとともに脱出したあの時だ。何が起こっているのか何も聞かされず、周囲の緊迫した様子にわけも分からず、混乱と動揺の中で見知った護衛たちが次々と死んでゆく、その恐怖といったら無かった。
そう、大人になってから味わった数々の恐怖のどれよりも、子供時代のそれが何よりも怖かったことを彼は思い出した。
「……分かった、ありがとうナーンさん」
「おっなんや、なんかエエ手ェ思いついたんかアル坊」
「試すだけ試してみるよ」
アルベルトは主寝室の扉を開け放ち、中へ駆け込んだ。そしてそのまま真っ直ぐに、ベッドで上体を起こしてライと抱き合うレギーナの元へ向かう。
「やっ……アル、いや、見ないで……!」
「オマエー!ひめさまが嫌がってるだろ!出てけよ!」
「レギーナさん!」
嫌がり、ライの小さな肩に顔を埋めて隠そうとするレギーナと、彼女を守ろうと威嚇してくるライに構うことなく、アルベルトは大股で歩み寄り、彼女の肩を掴んで自分の方を向かせた。
「は……はい……!」
彼の、滅多に見せない真剣で強い眼差しに射抜かれて、思わずレギーナも姿勢を正す。
そんなアルベルトの勢いに何か察したのだろう、ミカエラがライを羽交い締めにして後ろから口を塞ぎ、レギーナから引き剥がした。
「いいかい、よく聞いて。君の記憶にある、一番古くて一番怖かった記憶は、なに?」
「えっ待ってアルさん、いきなしなんば聞きよっとね?」
「いいから!」
「一番、古くて……怖かった、記憶……?」
レギーナの輝きを含んだ黄色い瞳が、弱々しく揺れる。アルベルトのくすんだ灰褐色の瞳から逃れようと視線をしばらく彷徨わせて、やがて下を向いた瞬間に彼女の全身がビクリと震え、その目が大きく見開かれたまま固まった。
脳裏におぼろげに蘇る、遠い遠い遙か昔の記憶。それはすぐに形と色を得て、たちまちくっきりと明瞭になってゆく。
まず最初に見えたのは、地面。土の粒のひとつひとつまで見えるということは、きっとこれは地面に倒れているのだろう。次いで見えたのは、その地面に無造作に散らばる亜麻色の長い髪。自分の髪だと、すぐに理解った。
それとともに見えたのは、その地面に流れる夥しい、血の海。
『なんでぇ、もう終わりか。ガッカリだ』
低く刺々しい男の声。それだけで全身をズタズタにされるような、そんな荒々しさと禍々しさを持つその声音に、魔力を根こそぎ吸い取られるような、そんな錯覚さえある。
両手足の感覚は、もう無い。それでも何とか抗おうと、自分の剣を探した。
『え…………』
剣はすぐそばに転がっていた。柄を握りしめたままの自分の右腕とともに。
そうか、斬られ——
『もういいだろ。サッサと楽になりな』
投げつけられた声に思わず顔を上げた。腰掛けていた大岩から立ち上がったその男、禍々しい瘴気を全身に纏って、睥睨してくる血の色の瞳孔と目が合った。
ゾッとした。
その瞳孔の周りの眼球は、全てを呑み込むような黯黒の色で。
——殺される。
男が魔剣を振り上げた。そこまでで、彼女の視界は暗転した——。
「ね……ねえ、ミカエラ?」
固まったまま動かなくなったレギーナが、震える声をポツリと漏らした。
「なァん、姫ちゃん」
「私……、魔剣聖と戦ったこと、あったわよね」
「………………は?」
そんな経験などあるわけがない。もし戦っていれば、今ごろこの世にはいないはずである。なにしろ魔剣聖は、蛇王を例外とすればこの世で唯一、勇者と遭遇してなお討たれずに残っている魔王なのだから。
そして現状、魔剣聖と戦って生き残っているのは元勇者ロイとその仲間たちだけだ。
「そんなん、あるわけなかろうもん」
「じゃあ、どうして」
だというのに、レギーナは揺れの収まった瞳で、ミカエラを見据えてハッキリと断言したのだ。
「私に、魔剣聖に殺された記憶があるのよ?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時は少し遡り、レギーナが謎の記憶を思い出した日の、その前夜。真夜中のことである。
どこにあるとも知れぬ、黯黒に閉ざされた石造りの小部屋。窓も室内の照明もなく、おそらくは出入口しかない、誰もその存在を知らぬ、部屋。
そこに蝋燭を灯した小さな燭台ひとつを持って入ってきたのは、漆黒のローブに全身を隠した細身の人物だ。正体も、性別も定かでないその人物は、誰にも知られぬよう細心の注意を払いつつ、久々にこの部屋まで足を運んだ。
そうして室内に入り込み、入口を魔術で隠して、室内に唯一存在する卓に持ってきた燭台を置く。それから、そこに安置してある人の頭ほどもある大きな水晶の球に手をかざし、小声で何事か詠唱して起動させた。
『待っておったぞ。首尾はどうじゃ』
すぐに応答があり、待ちかねたようにしわがれた声が水晶球から聞こえてきた。
「なかなか効果が確認できませんで、時間がかかり申し訳ありません、指導者様」
対する漆黒ローブの人物が発したのは、若い女の声だった。
『よい。して、報告に来たということは、発動したのであろう?』
「はい。とうとう勇者めは怯懦に囚われましてございます」
水晶の向こうから、愉悦の気配が伝わってきた。
『クックック。そうか、勇者めはついに蛇神様の術中に堕ちたか』
「なかなかに重症でございます。あの様子では、そう遠からず廃人と化すものかと」
『さすがは蛇神様の秘術よな。数千年前もそうして愚民どもを支配しておられたのじゃから、まあ当然のことじゃがな』
しわがれ声が乾いた嗤いに変わる。だが水晶球に映る漆黒ローブの人物の口元は、それに反して固く引き結ばれたまま。
「ですが……」
『なんじゃ』
「仮に勇者めが廃人と化したところで、すぐに次が送り込まれてくるだけなのでは……」
『誰が来たところで、蛇神様の秘術からは逃れられまい。それに我が教団が蛇神様の手足となる限り、勇者ごときが蛇神様に及ぶはずがないではないか』
「それは、無論でございますが」
「其方がおる限り、勇者どもの動きも彼奴らの小細工も、全て我が教団と蛇神様には筒抜けとなるのじゃから、万にひとつも間違いなど起こりはせぬわ」
「……わたくしが愚かでございました。まこと、指導者様の仰せの通りにございます」
『じゃが……最近、どうも我が教団の周辺を嗅ぎ回る鼠がおるようじゃな』
「な……!一体どこの邪教徒ですか!」
『狼狽えるでないわ。以前のような失態なぞ二度と起こり得ぬでな』
「それはそう、ですが……。そう言えば、気になることが」
『……ほう?申してみよ』
「勇者どもが、怯懦に堕ちる前に仲間に引き込んだ西方人がおりまして。——その、前回の勇者の一味のひとり、それも探索者でございます」
『な……っ!?それはまことか!』
「はっ、はい。ナーンとかいう名前の細身の男でございます」
『…………そうか、まあよい。彼奴めがまたしても我が教団の邪魔だてをするというのであれば、今度こそ以前の屈辱を晴らしてくれようぞ』
一瞬だけ驚きに上ずったしわがれ声が、再び愉悦に歪む。
『其方は引き続き、情報収集に努めて彼奴らの動向を適宜報告するように。対策はこちらで調えるとしよう』
「はっ。我らが指導者様のお命じのままに」
『「全ては蛇神様の御為に!」』
水晶球が急に輝きを失くし、そのまま沈黙する。
漆黒フードの人物は燭台を手に取ると、小さな炎を吹き消した。
そうして、部屋は再び真闇に呑まれた。
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