6-23.兄弟子と妹弟子(2)
「あー、言っておくけど貴女の技量の問題ではないからねレギーナどの」
朧華のせっかくのフォローも、今のレギーナの耳には空虚に響く。敗けたこと自体もショックだったが、そのショックを受けていること自体が彼女の心を大きく揺さぶったのだ。
だってそれは、無意識とはいえ彼を格下だと侮っていたからこそであり、そのことに今初めて彼女は思い至ったのである。そんな自分自身に、そうと気付いてしまったからには嫌悪感しかない。
「少年は要するに、気の流れを見ていたんだよ。そうだよな、少年?」
「ええと、まあ、はい。見るつもりで見たんじゃないんだけど、自然に視えちゃうというか」
「気の……流れ?」
「これはもう気功の修行をしたかどうかにかかってくるから、実は対峙した時点でもうレギーナどのには不利だったんだよね」
朧華の言う気功の修行は、まず自らの肉体の力の流れを把握することに始まる。動作の全ては気をどう流すかに関わるため、逆に言えば気を流せばそれに沿って身体が動くのだ。
そうして自己の気を把握したならば、次は他者、つまり他人や物品など、自己以外の気の流れを把握するのだ。そうすれば動きが見える、つまり実際の動作よりも前にそれがどう動くかがあらかじめ見えるのだ。
かつて朧華に気の修行をつけられた経験のあるアルベルトは、だからレギーナの気の流れも視えていた。それで彼女の動作が動く前に察知できたし、次に彼女がどう動くのかという先読みができたからこそ互角以上に試合えたのだった。
「少年、ちょっと全力出してもいいから型を見せてあげなさい。——レギーナどのは、彼の動作の力の流れを意識して見て欲しい」
そう言われて、レギーナはアルベルトに目を向ける。彼は言われるままに模造片手剣を中段に構え、半身になり腰を落とした。
「……?」
アルベルトが模造剣を振り上げ、同時に前に出した右足を浮かせて踏み込み、剣を袈裟斬りに振り下ろす。手首に力が入ったと思った瞬間、その彼の手首が返って、振り下ろされた剣が逆袈裟の軌道を描く。
次は腰を捻って突きおろし、と思った瞬間に、彼がその通りの動作をしてみせた。
「…………あ、」
「見えたみたいだねえ」
朧華の楽しげな声が耳に届く。だがレギーナはそれに反応せず、彼の動作から目を離さない。
次はこう、その次は。レギーナが思い浮かべた通りに、彼は動く。口に出したわけでもないのに。
「天眼はものの仮象をありのままに見る力。だから天眼で見れば、ものがどう動くのか見えるんだよ。そして動作とは気の流れに沿って起こること。だから動作が見えれば、気の流れも見えてくる。逆もまた然りだね」
朧華の言うことが、今のレギーナにはしっかりと理解できる。だって彼の全身の気の流れが今、彼女にも視えているのだから。
「よく視てごらん。1ヶ所だけ、違和感があるだろう?」
「…………気が、動いていない?」
それはアルベルトの腹部、いわゆる水月と呼ばれる胴体の中心部。そこにわだかまって動かない気がひとつ、視えた。それは心なしか、少しずつ大きくなっているようにも感じる。
アルベルトが剣を引き、空いている左手を剣の柄頭に添えた。その瞬間、全身の気がひとつの流れにまとまった。
アルベルトが大きく踏み込み、下段から模造片手剣を横薙ぎに薙ぎ払う。全身の気の流れがその切っ先に向けて一気に押し流す。彼の水月に溜まっていた気の塊を。
アルベルトの動作はあくまでも剣の型であり、切っ先の向こうに相手がいるわけではない。だがレギーナの目には、胴を両断されて吹っ飛ぶ闇鬼人族の姿が浮かび上がった。
アナトリア皇国の、皇城地下のダンジョン第四層で彼が倒した闇鬼人族。あの時彼の剣は闇鬼人族の腹の皮すら切り裂けなかったが、あの時にこの斬撃を放てていれば、おそらく今レギーナが幻視した通りになっていただろう。
彼があの時に、なぜこの斬撃を放たなかったのかは、彼の姿を見れば一目瞭然だ。見るからに疲労困憊、ただの型なのに全身汗だくですでに立っているのがやっとの有様だった。
「…………私は、何も視えていなかったのですね」
「レギーナどのにはこれから、気の修行もつけてあげよう。天眼と慧眼の修行の一環にもなるからね」
「はい、よろしくお願い致します」
「そして少年も!一から修行のやり直しだな!その程度で疲れ切るなんて情けないと思わないか?」
「あんまりだ!見せろって言うから普段はやるなって言われてた全力出したのに!」
声を荒げて抗議するという、普段の彼がそうそう見せない姿に、我知らず笑みを浮かべていたレギーナであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あの……アル、あのね」
侍女アルターフが昼食の準備ができたと告げに来て、レギーナたちは一旦鍛錬場から引き上げることにした。昼食の前にまずは汗を流そうということになり、部屋に着替えを取りに戻ろうとしたアルベルトをレギーナが呼び止めた。
呼び止めた割に、彼女はモゴモゴと口ごもるばかりで何故かハッキリしない。
「どうしたの、レギーナさん。何か気になることでもあった?」
「そ、そういう訳じゃないんだけど……その、あなたにお詫びをしなくちゃ、って思って」
お詫びと言われて、なんのことか分からずに首を傾げるアルベルト。ただ、廊下で立ち話していい話ではないと思ったので、彼は一階の談話室に彼女を誘った。
ちなみにレギーナの湯浴みを補助するために侍女ニカがついて来ているので、談話室でふたりきりになる心配はない。いやまあレギーナ的にはふたりきりの状況は望むところではあるが。
「それで、お詫び?俺は特に何もされてないと思うんだけど」
「そういう訳にはいきません。だって私、あなたのこと格下と侮っていたのだもの」
そう言われても実際に格下だ。名声も技量も冒険者ランクでもそうだし、アルベルトが旧ゲルツ伯爵家の跡継ぎ、つまりイレデンタである事実を踏まえても、祖国の王女であるレギーナのほうが間違いなく格上である。
「だって事実でしょ?俺はただの一人前だし、ゲルツ伯爵家の子とは言っても貴族としての教育も心構えも何もないし。勇者で王女のレギーナさんに勝ってるとこなんてひとつもないよ」
「そんな事ないわ!あなたはユーリ様のお仲間で、朧華様の一番弟子で、冒険者としても勇者パーティの一員としても先輩なのだもの」
当たり前のことを当たり前に指摘しただけなのに、勢い込んで否定されてしまった。まあ確かにユーリの仲間だったことは間違いないのだが、ユーリが勇者になった時にはすでに離れていたのだから、それを理由に尊重されるのはなんかちょっと違う気がするアルベルトである。
あと多分、一番弟子ではないはず。さすがにそんな大それた思い上がりをするほど自惚れてはいない。
そんな彼の困惑をよそに、レギーナは俯いて目を伏せる。
「それなのに私、無意識にあなたをずっと格下に見ていたの。模擬試合に敗けたことがショックで、ショックを受けたことで初めてあなたを侮っていたって自覚したの。⸺本当に、申し訳ありません」
「敬語なんて使わないで、レギーナさん。全部事実なんだし、俺は何も気にしてないから」
「いいえ。あなたはいつもそうやって穏やかに許してくれるから、だから私もそれに甘えていた面があったのね。でもそれではダメだと気付いたの。思えばユーリ様のお仲間は全員敬称でお呼びするのに、あなただけ呼び捨てだったのもおかしいし」
「いやそれは、雇い主と案内人の関係だから」
「それに、将来の旦那様と心に決めた方だもの。妻が夫を敬わないのもおかしいでしょう?」
いやそれはまだ受け入れてないけど。
とか思ったが、さすがに口に出すのを憚る程度の分別はアルベルトにもある。受け止める努力はするつもりだから。
「だから、改めて謝罪をさせて頂きたいの。このような粗忽者ですが、どうかこれからも見捨てずにおそばに置いて頂けませんか、アル様」
「あ、あるさま!?」
「そうお呼びしては……いけませんか?」
「えっいや、だって」
「人生と冒険者の先輩で、先代勇者様のお仲間で、将来の旦那様。そして今回、同じ師匠に技を学ぶ兄弟子様と分かったのですもの。どうかそう呼ばせて下さいませ、アル様。そしてわたくしのことはレギーナと」
「けけけ敬語はやめて!そして呼び捨ても無理ですから!」
世界的にダントツ人気の勇者様を気安く呼び捨てになんてしてたら、西方世界に戻ったら絶対暗殺されちゃう!むしろ陛下に処されちゃうから!
その後、すったもんだの押し問答の末にアルベルトは渋るレギーナを説き伏せて、今まで通りの関係を続けるということで何とか押し通した。彼女のほうも、さすがにちょっと性急に過ぎたと理解を示してくれてひと安心といったところ。
「確かに、この間まで名前すら呼んでもいなかったのに、そんな私がしおらしく慕うなんておこがましいわ……」
「それももう忘れて!全然平気ですから!」
(四の五の言ってないで、さっさと付き合っちゃえばいいのに……)
そんなふたりを虚無の目で見ているニカがいることに、ふたりとも全く気付いていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「…………で?なし姫ちゃんからの好感度が爆上がりしとっとよ?」
「いやぁ〜ははは……」
昼食の席で早速ミカエラにツッコまれて、笑うしかないアルベルトである。
ちなみに今、アルベルトは上座のレギーナの隣に座らされて、そして左腕を彼女に抱きつかれている。
「そんなの当たり前じゃない。人生と冒険者の先輩で、ユーリ様のお仲間の一員で、しかも朧華さまに師事する兄弟子なのだから。今まで私のほうが上位者だと勘違いしていたけれどアル様のほうが何枚も上だったのだし、私が敬うのが当然だってようやく気付いたの」
「だから敬語はやめて下さいお願いします……」
「なーんか、姫ちゃんがヘンな方向に拗らせとうばい……」
「一応言っておくけれど、レギーナどのが試合で遅れを取ったのは単純に天眼の理解度の差だけだからね?貴女の能力や素質を考えれば、すぐに逆転できる程度の差でしかないよ?」
「えっ姫ちゃん、アルさんに敗けたん!?」
「いや俺が勝ったっていうか」
「今思えば敗けて当然だったのよね。だってアル様は朧華さまの一番弟子なのだもの」
「だからそれは違うって!」
「少年の言うとおりだよレギーナどの。我が弟子と認めたのは彼が最初ではないし、一番弟子と認めた者は今華国で英傑として活動してるからね」
「そ、それでも、あなたは先輩で、兄弟子で、将来のだんなさ」
「貴女は祖国エトルリアの王女殿下で、俺は臣下に過ぎないゲルツ伯爵家の子なんですよ!」
「そ、そうだけどあなたはイレデンタで」
「俺が本物のアルベルトからロケットと名前を奪っただけだったらどうするの?」
「「「…………えっ」」」
これはアルベルトの苦し紛れの嘘ではあったが、さすがにレギーナもミカエラもクレアもこれには固まってしまった。
彼は自分がゴリシュカのゲルツ伯爵家本邸で生まれ育った記憶も、母や護衛たちに守られながらゴリシュカを逃げ出した記憶も、次々と数を減らす護衛たちの命と引き換えにスラヴィアの都市シルミウムまで逃げ延びた記憶もしっかり持っている。
だが、それを証明する手段を持たない。[鑑定]の術式によってゲルツ伯爵家の血縁だと実証されるまでは、証拠と言えるものは奪ったり盗んだりできる家紋入りのロケットペンダントだけしかないのだ。
そして[鑑定]を試みるためには、ゲルツ伯爵家の人間の遺物が必要だ。具体的には生きた血縁者のほか血液や遺髪など、確かにゲルツ伯爵家の人間のものだと確認されている、血筋を確かめられるものが必要で、そしてそれはエトルリアに戻らなければ手に入らない。
「あー、[鑑定]せんならんって言いたいわけやね、アルさんは」
「そうだよ。だから兄弟子だって慕ってくれるのは嬉しいけど、それ以外は確定してないんだから俺の扱いも今まで通りでお願いします。じゃないと王女様扱いするからね?」
「やめて!分かったから、それだけはお願い!」
こうして、アルベルトとレギーナの関係は今まで通りということで決着した。胃袋を掴まれていることまで含めて、レギーナの対アルベルト戦績は全敗のままである。
果たして彼女が彼に勝てるようになるのは、いつの日になる事やら。
「多分これ、もう一生勝てんっちゃないかな」
ミカエラさん、言わないであげて。
いつもお読み頂きありがとうございます。
次回更新は11月3日の予定です。
【補足】
アルベルトがこれまで、数打ち物の年季の入った片手剣一本で普段の薬草採取からユーリとの冒険までこなせていたのは、彼が気功を応用して刃の強度と切れ味を増していたからです。“気”は自分の触れている物にも流すことができるため、そういうことも可能なわけです。
アルベルトはソロになってからの約18年で特に贅沢もしてないので結構な額の蓄えができているんですが、生活水準だけでなく装備に金をかけることも知らない男なので、それで今まで使い古した片手剣をずっと使っていました。さすがに折れたりすれば買い直したでしょうけど、気功で強化しているせいでなかなか折れない、っていう(爆)。
五章13話で景季がその片手剣を見て「今にも付喪になりそう」と言っていたのは、通常は長くとも数年で買い換えるべき量産品をそれだけ長く使っていたことを示しています。ちなみに“付喪”とは長く使い込まれた器物に魂が宿ることで、景季の出身地である極島にはそうやって魔物と化した妖の伝承がたくさんあります。




