6-15.こんなのもう二度と勝てない
「な、何それ!?」
食事室に入ってきたアルベルトが押してきたワゴンを見て、レギーナ以下全員が驚いた。
ワゴンに載っていたのはいつも通りの人数分の食膳ではなく、一抱えもありそうな大きな金属製の寸胴鍋だったのだ。
「ま……まさか」
「その中身、全部カリーって言うっちゃなかろうね!?」
「え、そうだけど?」
「な、なんてこと!」
「食べ放題…!」
「ていうか、もうすでにいい匂いするんだけど!」
半日にわたって煮込み続けたアルベルトの全身にはカリーの匂いが染みついていて、寸胴鍋がまだ蓋をされたままなのにもうスパイシーな香りが漂ってきている。ぐう〜、とそこかしこから腹の虫の合唱が聞こえてくるようだ。
「鍋ならもうひとつあるよ」
アルベルトが振り返った入口から、今度はヒーラードが同じ寸胴鍋を載せたワゴンを押して入ってくるではないか。
「こっちが辛口、ヒーラードさんの方が甘口ね」
「二種類も作ったの!?」
「クレアは甘口がいい…!」
さらにフーマンが、大きな大きな炊飯鍋を載せたワゴンを押して入ってきて、それに続いてアルターフとニカ、ミナーが皿やスプーンなどカトラリーを載せたワゴンを押してきて。だが、誰も注ぎ分けて席に配膳しようとはしない。
「ご飯もルーも、みんな自分で好きなだけ注いで食べていいからね」
「ホントに食べ放題なのね!?」
というわけで、レギーナ以下各々は皿とスプーンを自分で取って飯を盛り、寸胴鍋の前に並んだ。辛口の鍋にはアルベルト、甘口の鍋にはヒーラードがいて、ふたり同時に鍋の蓋を開ける。
その瞬間、ブワッとスパイスの香りが拡がって。さらに立ち上った湯気の下から、鍋を満たす黄金色のルーの海が姿を現した。
誰も彼もが無言で、ゴクリと喉を鳴らした。先頭に立っているレギーナが、無言でアルベルトに皿を差し出した。
「あっ、こっちは辛口だって言ってたわね」
「いや、レギーナさんはこっちでいいよ。こっちはキャンプの時に作った林檎入りのやつだから」
「そうなの?じゃああっちは何を入れたの?」
「甘口のは蜂蜜を多めに入れたんだ。甘さとコクが出て、女性や子供が好む味になるんだよね」
女子供の味と言われて、レギーナは少し逡巡して結局辛口を選んだ。自分では分量がよく分からないので、アルベルトに甘えて注いでもらった。それを後ろで聞いていたミカエラは、何も言わずに甘口のほうを注いだ。そうしておけば後でレギーナが必ず食べたがるはずだから。
よく見れば鍋いっぱいに溢れんばかりに入っている辛口に比べて、甘口の方は寸胴鍋の半分ほどしか入っていない。全体では男性が多いことを鑑みて、どちらの方が人気になりそうかというところまで、アルベルトが計算しているのが分かる。
「おとうさん、恐ろしい子…!」
「クレアちゃんは本当に、どこでそんな言葉覚えてくるのかなあ?」
「アルさんアルさん、気にしたら負けばい?」
クレアの語彙の多くは、普段から趣味で読んでる各種の恋愛小説から得たものなので、アルベルトだけでなくレギーナもミカエラもヴィオレも知らないうちに謎の語彙が増えていたりする。
結局、女性陣で辛口を選択したのはレギーナとヴィオレだけ、男性陣は全員が辛口を選択した。騎士たちは飯もルーも大盛りで、女性陣は各々が食べたい分量を皿に盛った。
白く輝く白飯はリ・カルンで一般的な長粒種の飯。そこに一口大にカットされた各種の野菜や肉などの具材がゴロゴロと入った、照り輝く黄金色のルーが映える。最初に出された時には食欲をそそられない色味だと思ったものだが、いまや見ただけでもう美味しそうにしか見えない。
最初に口をつけるべくスプーンを手に取ったレギーナの喉がゴクリと動く。
「じゃ……じゃあ、頂くわね」
「どうぞ、召し上がれ」
アルベルトに一言断りを入れてから、レギーナは白飯とルーを同時に掬って、そろそろと口に運んだ。
突如、雷にでも打たれたかのように彼女の目が大きく見開かれ、バッと頭が上がり、彼女の全身が椅子の上で文字通り跳ねた。
口に含んだ瞬間に、香辛料の爽やかな辛味と香りが鼻腔と口腔を突き抜ける。そこへ白飯の控えめな香味と甘みがかすかに混ざり、歯で噛むとその存在感を増す。そしてそこへおもむろに乗ってくるのはえも言われぬ深いコク。
複雑で濃厚で折り重なった、出どころの分からないそのコクは、今まで食べたカリーでは感じなかった新しい味だ。それに加えてよく火の通った具材は肉も野菜も柔らかく、噛めばホロリと崩れて舌の上で溶けてゆくかのようで。
さてはこれが煮込んだ効果なのか。そう推測しつつふた口目を口に運べば、辛味と香りと甘みとコクが加算、いや乗算されるかのよう。
実はカリーは、煮込めば煮込むほど美味くなる料理である。鍋を火にかけて、焦げつかないよう気を付けつつ丁寧にかき混ぜ続けていくと、中に投入した野菜も肉も次第にほぐれ、煮溶けて、まるで消えたかのようにルーの中に吸収されてしまうのだ。
具材が吸収されてしまえば、補充のために新たに具材を投入せねばならない。だがそれもまた、煮込み続けていれば煮溶けてしまう。それが濃厚なコクとなって味に旨味が増すのだ。
アルベルトは朝の早いうちからヒーラードはじめ厨房で働く者たちの手を借りて、寸胴鍋に大量の水と野菜を入れてからまず煮始めた。沸騰したところで火を中火以下に落とし、少しずつルーの粉を加えてゆく。
実はこのルーはかつてのアルベルトにカリーの作り方を教えてくれたヒンド人料理人の使っていた、各種のスパイス粉末を配合した特製のものである。これさえ入れておけば味の調節が必要ないので、誰でも簡単に美味いカリーが作れるのだ。
煮始めたルーは、煮込み時間が延びるに従って水分が蒸発し、具材が煮溶けて味が濃厚になってゆく。そこへ水を足し、具材を足してさらに煮込めば煮込むほど、どんどん旨味が凝縮されてゆく。
そうして半日もの間じっくりと煮込まれ続けたルーは、それはもう今まで誰も食べたことがないほど濃厚で、旨味がたっぷり含まれた化け物に進化していたのである。もはや作っているアルベルトですら想像できないほどに。
「なんて……なんて美味しいの……っ!」
思わずそう叫びたいが、口いっぱいに頬張ったのでレギーナは言葉が出ない。というか彼女の舌は味の多重奏を感じ取るのに必死で、歯は咀嚼が止まらず、そして喉は一瞬でも早く滋味を飲み込もうと待ち構えていて。どれもこれもが、発音のために働くことを拒否していた。
「旨かあーーーーー!!」
「なに、これ……こんなの初めてよ……っ!」
全身全霊で味わっているレギーナの隣でミカエラが一声吠えて、その横でヴィオレが震えている。クレアはすでに一心不乱に食べ進めていた。
「ふむう、匂いは相当に美味そうだ。さすがは我が主」
虎人族らしく鼻が効く銀麗はまず香りを堪能しつつ、もうもうと湯気の上がる皿を吹き冷ますばかりでまだ口を付けようとはしない。猫舌なので食べられないのだ。だが早く食べたいと尻尾が激しく主張しているのが一目瞭然。
「むう……確かに言うだけはありますね……」
その向かいの席ではライが唸っている。どうせ大したことないなどと言ってしまった手前、手放しに褒めるのは癪だから我慢しているものの、彼もこれほど美味い料理を食べるのは初めてで、内心では驚いている。
だがここで褒めるわけにはいかないと、彼は努めて何食わぬ顔でスプーンを口に運ぶ。
「でもこれ、辛い……!」
「ああ、そういう時は冷やした斑牛乳をどうぞ」
思わずそうこぼしたライのそばにいつの間にかアルベルトが来ていて、硝子製のピッチャーからグラスに白い液体を注いで置いてくれた。
ライは思わずグラスを手に取り、ゴクゴクと半分ほど一気に飲み干した。それによって辛さが抑えられ、ようやくひと息つくことができたわけだが。
「ぼくは、あなたにお礼なんて言いませんからねっ!」
「……?どういたしまして」
「お礼なんて言わないって言ってるのに……!」
アルベルトの目には、ライは何かと突っかかる反抗期の子供のようにしか見えていなかったりする。やや不思議そうな顔をして返事を返すと、彼はライのグラスにミルクを注ぎ足して、それから侍女たちをはじめ辛いと声の上がった席の方にミルクのピッチャーを持って歩き去ってしまった。
「なんと……っ!」
「美味しい……!」
「こないだ行ったあの店より旨くないか?」
「いや、王都でもこれほどの味の店となるとそうは無いぞ!」
侍女たちも騎士たちも夢中になって食べ進め、あっという間に皿の中身を減らしてゆく。ヒンドスタンの料理を、ことにカリーを食べたことのある者もそれなりに多いはずだが、誰の口からも聞こえてくるのは咀嚼音と飲み下す音、それにため息ばかり。
やがて大食い自慢の騎士たちを先頭に、二杯目を注ぐ者が現れ始める。レギーナもミカエラも同様に二杯目の列に並んだ。レギーナは今度は甘口、そしてミカエラは辛口である。
「まだ全然残ってるじゃない!」
だというのに寸胴鍋の中身は、減ってこそいるもののまだまだたっぷり残っていた。これは全員が二杯目を注いでもまだ余るのではないだろうか。
「残ったら、明日また食べればいいよ」
「明日も食べられるの!?」
にこやかな声に振り返ると、アルベルトもまた二杯目の飯を盛った皿を持ってレギーナの後ろに立っていた。
「ここの厨房って、大型の冷蔵箱が据え付けてあってね。この寸胴鍋ごと保存しておけるんだよね」
その彼の笑顔を見て、レギーナは一瞬呆けたあと、ヘナヘナと腰が抜けたように座り込んでしまった。
「いやでもこれ、自分で作っといて何だけど本当に美味しいよね……っとと。レギーナさん、大丈夫かい?」
慌てて支えようとして片手に皿を持ったままではままならず、アルベルトは咄嗟にレギーナの皿をキャッチするしかできない。
「あなた一体、私たちをどうしようっていうの!?」
座り込んで両手を床につけて、うつむき加減のレギーナが涙を流しつつ叫ぶ。うつむいているから泣いていることまで気付かれはしなかったが、その姿はまるで、敵に降伏する敗者のようで。
その姿を見て、騎士たちを中心にざわりとどよめきが広がる。
(なっ、勇者様が頭を垂れている……だと……!?)
(彼は確か、勇者様の専属馭者兼料理人だったはずでは?)
(いやだがしかし、これほど旨い料理を作れるのなら頭も下がるというものだろう)
騎士たちは知らない。ここまでの旅路で勇者とその仲間たちが彼に胃袋を掴まれ、なす術なく敗北を繰り返してきていることを。
(ちょ、私も拝んできていいですか)
(気持ちは分かるけど、やめなさいミナー)
(だってニカさんだってさっきからずっと『アルベルト様ありがとう』って)
(あなた達いい加減になさい。感謝は当然すべきですが、崇拝するのは違いますからね)
(でも、じゃあ勇者様は……!)
(わたくしたちが勇者様のなされることに物申すなど、不敬ですよ?)
(…………はぁい)
侍女たちは間近で見てきて、レギーナたちとアルベルトの関係性も知っている。その気安さもあって微妙に敬意を失いかけているミナーを、ニカとアルターフがたしなめていたりする。
だがそれでも、気高く美しく誇り高い敬愛すべき勇者様が、冴えないおっさんの目の前で崩れ落ち跪いたのはそれなりにショックではあった。
(こんなの……勝てるわけ無いわよっっ!!)
そして、蛇王に敗れた時よりも深い敗北感に打ちひしがれるレギーナ。彼にはもう二度と勝てる気がしなかった。
だが不思議と、それでもいいかと思っている自分がいて、心のどこかでそれを納得し受け入れているのも彼女は自覚していたのだった。
いつもお読み頂きありがとうございます。
次回更新は8日です。
【宇宙で一番美味しいカレーの話】
作者が今までに食べた中でもっとも旨かったカレーは、福岡のとある一般県道沿いのドライブイン(長距離のトラックドライバーなどの休憩地を目的に、駐車場と食事処、トイレやシャワー設備などを揃えている施設)の片隅でひっそりと営業していた、小さなカレー屋さんでした。
戦争帰りというお爺ちゃんがひとりでやってるその店はメニューはカレーのみ、他にはソフトドリンクと夏場にはソフトクリームを売ってるだけの小さな店でした。カレーはポークとビーフの二種類だけ、他に揚げ物が数種類あって、それがカレーのトッピングにもなるという、ごくシンプルなメニュー構成で。
聞けば所属していた軍の料理長に習ったレシピだそうで、戦後に戻ってきてからしばらく作ってなかったそうなんだけど、食べたくなって作り始め、お爺ちゃんの家ではカレーと言えばこれなのだそう。その「家のカレー」で、暇つぶしとボケ防止のためにお店を出しているだけなんだそうな。
何が凄いかって、そのカレー、お爺ちゃんが作り始めてから一度も火を止めてないのだそう。
専門店が厨房で使ってるようなひと抱えもある大きな寸胴鍋に水もルーも具材も並々と入れて、24時間ひたすら煮込む。そうすると肉も野菜も煮溶けて無くなるから注ぎ足して、食べれば減るから水もルーも注ぎ足して。それを何日も、何年も続けて。
そうするとどうなるか。具材の溶け込んだルーはどんどんエキスが凝縮されて、超濃厚な唯一無二の味になるんですよ……!しかもそのお爺ちゃん、その話を聞いた時点でもう四十数年煮込み続けてるって言うじゃないですか!
24時間常に、家でも店でも必ず誰かが寸胴鍋に付いていて寝ずの火の番をしていて(店はたまにお爺ちゃんではなくて息子の嫁というおばちゃんが手伝いに来てた)、焦げ付かないよう常にかき混ぜてるそうな。火から下ろすのは、ほぼほぼ家から店までの移動時間だけっていう徹底ぶり。
そんなのを四十年以上も続けてて、そんなもの旨くないわけないじゃないですか!杜野の家から車で軽く1時間以上かかる場所だったけど、知ってからは足繁く通いましたね!
まあ、そんなお店もちょっと行かないうちに潰れちゃって(多分だけどお爺ちゃんが亡くなったんだと思う)、それからもう二十年以上が経つんですけどね。未だにあの店の味を超える店には出会ったことがないです。まあ出会うわけもないんだけど。
唯一、その店の味の面影があるなあって思えたのは、佐世保にある名店『蜂の家』さんでした。お客さんに出すまでに23時間煮込むんだって。
というわけでカレーは煮込めば煮込むほど美味しくなるんで、アルベルトの本気のカレー、じゃないカリーに完全敗北したレギーナさんたちは何も悪くないのです(笑)。むしろ勝てるはずがないっていうね!(爆笑)




