僧侶ハレルヤ、元勇者ハロルド
天は荒れ狂い、地は割れ響く。
竜は舞い、剣がこれを刺す。
魔法の氷が降り注ぎ、魔法の炎が溶かし尽くし。
勇者一行と魔王の戦いは苛烈を極めた。
しかし今、趨勢は決した。
膝をつく魔王を勇者ハロルドは見下ろしていた。
「我々の勝ちだ」
噛みしめるように言う。自らに確かめるように。剣先を魔王の喉元に突きつけ、続けた。
「魔王軍の侵攻をやめよ。これで終わりにしよう」
魔王は頷きもせず項垂れている。何か答える気力もないらしい。
「どうしたハロルド」
毅然とした騎士テレンスが横から声をかけた。不審に思ったのだ。当然魔王にとどめを刺すかと思われた仲間がここにきて動きを止めたのが。
が、ハロルドは動かない。
彼自身よくわからない。何を躊躇うのか。ただ心の中にあったのはもう終わりにしていいのではという気分であった。それは先の戦いの疲労感からか、それとももっと前からの、相手は魔族だからと自分に言い聞かせせき止めてきた殺生の罪悪感がついに溢れ出したか。
「何をぐずぐずしているのだハロルド。とどめを」
「いいんじゃないか」
思わず心のままにハロルドは返し、一行を唖然とさせた。そのまま幾許かの沈黙が訪れた、が最年少の魔女マーシャが堰を切った。
「冗談じゃあない、ハロルド。どうしてしまったの? 私の姉は、ジョゼフの息子さんも、魔王軍に殺された。こいつはそれだけのことをしてきたのよ」
だから魔王を殺さねば、というマーシャの言うことはもっともだとハロルドも思っていた。しかし手はなお動かざる。代わりに隻眼の盗賊ジョゼフが咳を飲み込むようにしてから口を開いた。
「俺達のリーダーはハロルドだ。俺はハロルドに従おう」
「いや、ハロルドはどうかしている!」
騎士テレンスは叫んだ。己の正義を疑わぬようで。仇敵を前に眼を滾らせながら、彼は剣で剣をどかし、
「ハロルドがやらないなら私がやる」
と魔王の首を切り落とさんとしたまさにその時、最後の力を振り絞ってくくっと魔王は嘲笑いかけた。
「我を殺したくらいで終わりと思うなよ、第二第三の我を生むのみ」
「何を言うか!」
その口を塞がんとテレンスは剣を振り下ろした。
これで良かったのか。
ハロルドは血飛沫を見て思った。これで世界は救われた、人間は魔族に怯えて暮らさずに済む。そう考えることもできたはずだ。しかしハロルドにはそう楽観視することが出来なかった。魔王の今際の言葉が呪いのように降りかかる。
いや、世界が救われたとして、それでも納得いかないものがあるのだ。ハロルドは気付いた。そしてわからなくなった。何を求め、戦ってきたのかを。
勇者の凱旋はそれはそれは盛大なものだった。
国中からお祝いが城下町エデンを駆け巡り、四人の英雄は地位のある人間達の間でたらい回しにされ、もみくちゃにされた。
そうしてすっかり城に閉じ込められたかと思いきや、勇者は一人街外れを歩いていた。どうにも居所が悪いと抜け出してきたのだ。
とにかく一人静かなところに行きたい。苦楽を共にした仲間とさえ、今は一緒にいたくないとハロルドは考えた。ある老貴族曰く、そういう気質こそが冒険者に必要であり、ハロルドを勇者たらしめるのだという。
ともかく人気のない方へ方へ、ハロルドは向かった。何を逃げているのだと自身に問う。しかし答えの出ぬまま堂々巡りであった。
しばらくすると景色がすっかり緑に移り変わる。近隣の森だ。ハロルドは郷愁さえ覚えた。戻ってきたか、駆け出し勇者の頃ここでレベルの低い魔族を狩って修練を積んだものだと。
あの頃と比べ強くなったが、しかし本当に変わったと言えるのだろうか、何も成長できていないのでは、と物思いに耽る。魔王を倒すという勇者の役目を終えた今こそ、何か変わらなければという焦りが幾許かあった。緑は深まっていく。と共にハロルドの足取りは早くなる。
すると突如開けた場所に出た。ハロルドは思わず足を止める。目を見張る。
こんなところに小屋があろうとは。それも随分と粗末で今にも崩れそうに思えた。されどどこか手入れがされているようでもあった。横の井戸に置かれた桶は乾ききっていない。
勇者という職業柄勝手に人の家に入ることもままあるハロルドだったが、この時は何となく憚られた。それに今は人に会いたくない気分である。そういう事情故小屋を眺めながらも裏手に回ってみた。妙に空間が広いことを気に掛けたのだ。
さすればどういうことだろう、不可思議な情景がハロルドの前に現れた。なんてことはない、木を十字に組んで地面に突き立てた、墓である。しかしその数が異様であった。夥しく所狭しと並べられている。墓の群れである。ハロルドは思わずぎょっとしてしまった。
ここは墓守の家だったのか。にしてもこれだけの者がいつ墓に入ったのだろう。何かしら戦乱でもないと説明が付きそうにない、ハロルドは腕を組み、それこそ墓守に聞いてみればよいだろうと思いついた矢先だった。
背後に何者かが立っていた。
流石に勇者、気配にさっと気づき飛びのきながら翻る。すれば目が合う。深々ととんがり帽子を被った男、あるいは女か、わかることがあるとすれば耳が帽子のようにとがって長いということだった。
「魔族か」
勇者は問うた。初対面の相手を魔族扱いは失礼かとも思ったが、人間はかくも耳が長くないと知っている。そいつは帽子の縁を両手で触りながら、
「だとしたら殺すのか?」
と言い返した。声は男だった。若々しく聞こえるが掠れてもいた。しかし震えているようではなく、堂々とした言い方だった。
彼らのように、と続けて指を差す。ハロルドに向かって、ではなく後ろの墓を示して。
「この墓は何だ」
ハロルドは一瞬振り返り、改めて最初の問いを投げかけた。長耳の男は率直に答える。
「行きずりの魔族の死体を埋めた」
「お前がか。何故に」
「わからない」
「わからないなんてことがあるのか」
「わからないが、そのままにしておくのもどうかと思ったのだ。私の半分は魔族だ、というのが関係しているのかもしれぬ。しかし半分は人間だし、人間が死んでいても同じく埋めたやもしれぬ」
帽子の陰から目を光らせ、男は言った。ハロルドも思わず思ったままに口にした。
「お前のような奴がいるのか……」
人間と魔族のハーフというだけで驚きなのだ。敵対する両種族が愛し合うなど、勇者には想像つかぬ。その上野ざらしの魔族の死体を埋めるなどと、考えたこともないことであった。
そしてはっとしてハロルドはよろめいた。此奴が埋めた魔族とは、俺が殺した者のことではないか。そう思いつけば、目の前の相手が魔王以上に大きく見えた。目を丸くして言う。
「何故……お前のような奴がいる」
「私にもわからぬ。生きていることに理由はない。ただ私は墓を作ってきて、これからもそうするのだろう……ごほっごほっ」
とんがり帽子の墓守は突然せき込み倒れかけた。自然とハロルドは彼の体を支えた。その行為に理由はなく、ふとハロルドはわかったような気がした。これがそういうことなのかと。
「時間の残す限りは……しかし私はもう長くない」
長耳の男は血を吐いた。ハロルドは彼の背中をさすってやりながら小屋へと連れ込み、ベッドに横たえさせた。
「なぁ誰とも知らぬ者よ」
帽子が外れて素顔を見せた男は、激しく咳き込みながら頼み込んだ。
「願わくば継いでくれまいか」
「墓を建てることをか」
「誰にも見向きされぬ亡骸を見ると、誰かが供養してやらねばという気持ちにさせるのだ……誰かが供養してやらないと……」
「お前のような奴には初めて会った。まるで想像もつかなかった。俺には出来ない。お前のような生き方が」
「ならば立ち去るといいさ。不幸な出会いだったのだろう」
「そんなことはない、そんなことはないのだが」
ハロルドは名前も知らぬ長耳の男の手を掴んだ。しかし男はうっと呻いたかと思えばそれっきり物を言わなくなった。死んだのではない。心音は鳴りやまぬからして気を失っただけだろう。とはいえ、やはりこの男の命はそう長くはないように見えた。
この男に比べて、なんて己は小さいのだろう、とハロルドは思った。魔族の命を奪うことしかしてこなかった自分が急に恥ずかしく粗末に思えた。奪われた命を思って祈ることなど、一切考えつかなかった自分が。
そしてこの時、森へ向かう途中に考えていたことを思い出したのだ。今まさにこの時、変わるべきではないのか。勇者とは違う、この墓守のように生きてみるべきではないか。
だがすぐに考えがまとまるというものでもなかった。今後の身の振り方を考えながら、ハロルドは一旦街に戻ることにした。
それから何日か経って森の小屋に戻ってきたハロルドは動かなくなった墓守を見つけた。この偉人を埋葬することが新たな彼の始まりであった。
さらに時は流れ、幾年。道端に死体を見つけるなり拾い上げては土に埋めるものがいた。人間、非人間問わず。人々は彼を不気味がってこう呼んだ。
僧侶、ハレルヤ。かつての勇者の成れの果てであった。
路頭の亡骸を埋葬し供養するはぐれ僧侶の存在は概ね国中に知れ渡っていた。
そんなある時、エデンの教会に王の勅命が下った。曰く、僧侶ハレルヤを城に連れて来いと。
しかしはぐれ僧侶である。教会はおろか、誰も知らぬ。彼がどこをほっつき歩いているかなど。それに彼を破門にしたのは他ならぬ教会である。ワインを飲みふんぞり返っているだけの教会など、本当に救いを求めている人間を救えぬではないかと糾弾し出ていったのはハレルヤだ。感情的には彼を探してやりたくもない。
とはいえ王にも逆らえぬ。結局教会は人を使って気まぐれ僧侶を探させた。それから一週間が経ち、郊外からエデンに戻ってきたばかりのハレルヤを拘束した。
穏やかではないな。ハレルヤは不審に思ったがひとまず城に行くことにした。呼び寄せた王とは生憎知らぬ仲でもない。
物々しい城内を潜り抜けて一際広い間に出たハレルヤを前に、王はこの僧侶を連行した兵士共を全て下がらせた。一対一の面談である。
「久しいな、ハロルド」
「随分久しく聞く名だ。相変わらずのようだな、テレンス王」
「ふっ、気安く言ってくれるな」
そう言って白髪交じりの髪を掻き上げる仕草はまさしく元清廉潔白な騎士テレンスであった。髭を蓄え乞食のような風体に身をやっしたハロルドと比べかつて以上に着飾っている。
「君の活躍は聞き及んでいる。公衆衛生の為によく役立っている」
「それだけか」
「これ以上の栄誉を望むか」
「そういう意味ではない」
テレンスはすっかり高みの視点しか持ちえぬようになったのだ、とハレルヤは悟った。よって己の活動意図を伝える気を失した。
だがこれだけは言っておかねばならぬ、ということがハレルヤにはあった。
「飢饉は酷い有様だ。その上税を上げられては死人が出ても仕方ないではないか」
あからさまな非難に王は眉を顰め、
「来るべき魔族の侵攻に備えて兵は増強せねばならん。下々にはそうした視点が欠けているのだハロルド。国は安全を保障せねばならない。その為にこそ、決して贅沢などにではなく、金を使わねばならない。わかるだろう。それに富める者は富めるべくして富み、貧しき者も然りではないか。人にはそれぞれ天命があるのだ」
早口で文句を並べ立てた。成程一理ある。しかし人心に欠けているとも内心憤りを感じるハレルヤだった。
「しかし安全を保障するというなら下々に食わせてやることも」
「ハロルド、私はかような討論をしに君を呼んだのではない。君も承知のはずだ」
では本題を話すがよい、とハレルヤは諦めて問答を打ち切った。テレンスは腕組みしながら値踏みするような視線を向けた。
「さて、先ほども言った通り気がかりは魔族の侵攻だ。ここは先手を打ちたい。よって討伐隊を編成し国外へ派遣するのだが……それの先遣隊に加わってほしい。勇者ハロルド、君に」
「勇者とは遥か昔、今は意気地のない老いぼれに何が出来よう」
即座に否定的な元仲間の有様にむっとするテレンスであったが、気を取り直し宥めるように続ける。
「なぁにいるだけで違う。あの勇者が音頭を取ろうものなら士気が桁違いに上がるものだろう。なぁハロルド、貴様はいつも我々を勇気づけてきたではないか。魔王を倒す道なりは困難であったが勇者あってこそだったろう。先程言った通り、人には天命がある」
「だが断る、と言えばどうなる?」
「そのような選択肢があると思っているのか」
テレンスは激高した。彼は絶対的な王であるということに、王たる己に正義があるということに何ら疑いを持たなかった。そして歯向かう者を一人たりとも容赦しなかった。
城の薄暗い地下牢にハレルヤは放り込まれた。むせるような悪臭と荒ぶる囚人の息に包まれる。さりとてハレルヤは動じなかった。自分の家のように座り込む。
ふむ、どうしたものか。考え込む矢先、ようと奥の暗闇から声を掛けられた。
「何をしでかしてぶち込まれたんだ」
「何もしなかったからここにいる」
「ほう?」
相部屋の先輩はギラっと目を光らせた。近づいてみれば髭もじゃの、恰幅の良い男でいかにも牢屋の主だと言わんばかりに威圧感を放っている。しかしハレルヤは物怖じせず、顔を一層近づける。
「おい、お前。随分反抗的な奴だ。何もしなかったわけじゃねぇ、お前のような奴を王は好かん」
「だろうな」
「だが俺は嫌いじゃねぇな。グレッグだ。見ての通りな」
「ハレルヤと人は呼ぶ。してお主は何をしでかしてぶち込まれたんだ?」
「おいおいお前は天下の大盗賊も知らねぇのか」
「盗賊の知り合いなら一人いるが、すまない、興味がわかんのだ」
「面白い奴だ」
恐れ知らずの僧侶の豪胆さをグレッグは気にいった。こういう手合いはそうそう見かけないからだ。ましてや牢屋に長く棲んでいれば彼のような者との出会いは貴重な娯楽であった。
「じゃあ何か、俺が脱獄王とも知らねぇな」
グレッグは得意げに鼻を鳴らした。そうなのか、とハレルヤは問う。
「おう、こんなところなどすぐ出ていける。お前も脱獄させてやろうか?」
「なぜ自分が出ていかない」
「足を悪くすると、出不精になる。人間楽な方に楽な方に流れていくものさ。飯も出るしな」
「そういうものか」
「だが気がかりなことも一つある。お前を出してやる交換条件って奴だぜ。国境の向こうのヴァルハラって街にサリヤって妹が一人いる。あいつの様子を見てきてくれねぇか」
「ヴァルハラなら知っているが」
「なら話は早いな。俺の背中の壁に掘った穴がある。そこから旧い地下道へ出れる。後はエデンを出て国境を越えるだけだ」
気安く言ってくれるとハレルヤは思った。しかしこの提案は渡りに船である。乗らない理由もなかった。
「よし請け負おう」
奇しくもヴァルハラは盗賊ジェゼフの故郷であった。魔王を倒して以来会っていない。そんなかつての仲間を訪ねてみるのもよいかと思われた。
そして、国境を越えたなら必ず魔族が出る。生きていようと、死んでいようと。ハレルヤにとっては彼らへの贖罪の旅を始める機会であった。
エデンから北東に40キロいったところに国境線となる大きな川が流れていた。そして此岸と彼岸とを結ぶ橋は厳重に封鎖されているのであった。
しかして僧侶ハレルヤは橋を通らず川越えをせねばならなかった。彼は思い出す。勇者ハロルドとして旅立った頃は橋など掛かっておらず、テレンスと共に渡し船に乗ったのを。しかしこの橋が出来てからは船頭も廃業したらしい。よって残された手段は一つ。泳いで渡るだ。
老いた身には随分堪えるものだ、とハレルヤは川を渡りきってから嘆いた。とはいえ鍛え上げられた体をそう失ってはいなかった。
それから東の山脈へと足を進める。着々と。流石は元勇者、甚だ頑強である。彼は昔の感覚を取り戻しつつあった。研ぎ澄まされていく。
して、過敏になった感覚器が警報を鳴らした。ハレルヤは身構える。するととうとう魔族の群れと出くわした。
人型をしているが背は子供ほどしかなく、肌は緑色をして鋭い牙を光らせていた。それが五体、しかし一体は負傷しているらしくもう一体に庇われていた。よって三体がハレルヤの前に躍り出たのである。
「人間か」
とだけ言って襲い掛かる。だがハレルヤは軽やかにかわし、そのまま逆に突進した。負傷者の下まで。
「卑怯者め!」
罵倒が背後から聞こえるがハレルヤは気にしない。負傷している魔族はただならぬ気配に竦んだ。その時、こともあろうにハレルヤは体力を回復する呪文を唱え始めた。すればみるみる魔族の傷が癒えていくではないか。
何をしたのだと魔族達はハレルヤを取り囲んで臨戦態勢を取った。しかしハレルヤは動じず、
「治療をしている」
「何故だ、人間が魔族を」
「魔族か人間かは区別しない。私は僧侶だ」
と言う人間の凄味に魔族達はあっけにとられた。ただ傷を治してもらった魔族だけは素直に礼を言う気になった。
「ありがとう、貴様のような人間は初めてだ」
「そうでもない」
ハレルヤは自分の師ともいうべき墓守の顔を思い浮かべ、言った。
敵意がないことを悟った魔族達はハレルヤを見逃し、その場を去っていった。このようなことはこれから幾度となくあるのだった。
険しい山道を登りきり、さすらいの僧侶は山村ヴァルハラへとたどり着いた。
「ここはヴァルハラだ、旅人とは珍しい。歓迎する」
入り口で見張りをしている若い男が声を掛ける。ハレルヤの汚らしい身なりは特に気にしていない風だった。そこでハレルヤは訊いた。
「サリヤという娘を訪ねてきたのだが、知らないか」
「サリヤの知り合いかい? あの子なら今日は墓参りじゃあないかな」
「墓参り?」
「ああ、墓地はここを真っ直ぐいってアソコの屋敷を右に曲がって……」
墓ときたか。僧侶であるハレルヤには妙な宿縁を感じずにはいられなかった。
宿に泊まりもせず青年の言う通り道なりを進んだ。その日は風が強かった。揺られながらもハレルヤが目的地に辿り着いたなら、髪をなびかせて墓前に花を添える女性の姿を見つけられた。
「何か御用ですか?」
娘の方から旅人に語りかけた。ハレルヤは答える。
「グレッグという男の使いで来た」
「兄から? それはまた大変なことでしょう」
サリヤは右手で髪を押さえながら振り向いてハレルヤを見た。一方彼は墓石に刻まれた文字を見た。そしてあまりの偶然に眩暈さえ覚えた。
「ジョゼフ・オットーとは盗人のジョゼフのことか?」
「そんな! ジョゼフおじさまは兄のごとき悪党ではありません! 私の命を救ってくれた恩人なんです」
ハレルヤの問いにサリヤは怒った。
「すまない。君を怒らせるつもりはなかった。私の旧友に同じ名前の者がいたものだから。すまないが、君の恩人の家を教えてくれないか。別人ならそれで納得するのだ」
「わかりました。いいでしょう」
不躾な頼みをサリヤは聞き入れ、ハレルヤを案内した。しかし見れば見るほど、彼の記憶にあるヴァルハラの光景と重なっていく。ジョゼフの家に着けば、やはりあのジョゼフのことだと確信に至った。
「そうか、ジョゼフは死んだか」
家の中に足を踏み入れていの一番に呟いた。皮肉屋で、最年長の癖に子供っぽい駄々をこねることもあったジョゼフとの思い出がぶわっと蘇る。今でもひょっこり現れるような気がして、ハレルヤは周りを見渡した。しかし人の手入れが滞った風景が否応がなく事実を突きつける。
「おじさまは病気だったのか?」
「いえ……今からちょうど三年前、見つけた人によれば心臓をナイフで一突きだったそうです……遺書には息子のところに行く、とだけ」
「そうか」
ジョゼフは変われなかったのだ、とハレルヤは思った。魔族の襲撃で幼い息子を喪ってから彼の時間は止まっていたのだろう。かつてもう生きてはおれんと自刃しようとした彼を共に魔王への復讐を果たそうと説得したのは他ならぬハロルドであった。いざ魔王を倒してしまって、他の生き方を見つけられなかった戦友を思い、ハレルヤは静かに涙した。
その頃にはサリヤもこのみすぼらしい旅人が尊敬すべき英雄ジョゼフの友人であることを悟っていた。それから彼女はジョゼフの机を触って言った。
「ジョゼフおじさまは他にもいくつか手紙を残していたんです。これはマーシャという方に宛てたものなのですが」
封をした手紙をハレルヤに見せる。マーシャとは、また随分懐かしい名を聞いたものだとハレルヤは感慨に耽った。
「成程。その手紙、私が届けようか」
「よろしいので?」
「マーシャのことなら知っている。ここは私に任せてほしい」
それならばとサリヤは手紙を手渡した。
その晩ハレルヤはジョゼフの家に一人泊まって考えていた。グレッグには悪いがエデンに帰るのは先に延ばそう、これも運命の導きだろうと。風の噂で大魔女マーシャはここから南西の港町ニルヴァーナにいると聞いたことがあった。勿論知っている街だ。まるで魔王を倒す旅をなぞるかのように思えた。
だが今回は違う。友の弔いの旅になる。
朝になってハレルヤはもう一度ジョゼフの墓に寄ってから、ヴァルハラを後にした。
交易で栄えるニルヴァーナの街は人の熱気で溢れかえっていた。
明るい太陽に照らされてらんらんと輝く大理石の街並みを、不釣り合いにボロボロの布をまとった旅人が歩いていた。僧侶ハレルヤである。
彼は酒場など出入りの激しい場所に顔を出してはマーシャの名を聞くこととなった。何と彼女はこの地の守り神にように崇拝され、街の中央にある大神殿に祀られているとのことであった。ハレルヤは迷いなく、神殿に赴くことにした。
「止まれ浮浪者よ」
神殿を守る布面積の少ない女兵士に呼び止められた。されど動じないのがこの破戒僧だ。
「エデンから来た僧侶だ。マーシャと会いたい」
「マーシャ様だ、異教の者め。ここで成敗してくれる」
威勢のいい女兵士達はあっという間にハレルヤを取り囲む、つもりであった。しかし相手は元勇者である。易々と潜り抜けられ、気が付けば神殿への侵入を許していた。
「おい貴様、待たぬか!」
女兵士達は騒ぎ立てるがそれもすぐに止んだ。心の中に彼女らの主の声を聞いたのである。その浮浪者を通せ、との。
ハレルヤはお構いなしにずかずかと先へ進む。すると荘厳な大広間に出た。目の前に祭壇への階段が飛び出し、これを登っていくと彼女はいた。
「久しぶりねハロルド」
かつてと何ら変わりない、若々しい美貌を携えたマーシャだった。魔法で歳を取らないのであろう。
どうしてまた、とマーシャが問うとハレルヤはジョゼフの手紙を取り出した。それを受け取って魔女は読む。元気にしているか、ちゃんと飯を食っているか、などと素朴な文体で書き連ねてあった。ジョゼフらしい、と彼女は感想を述べた。
「これだけの為に?」
「ジョゼフは死んだ。彼の魂の為に」
「そう、ジョゼフが」
マーシャは顔色一つ変えなかった。それはもはや彼女が人を超越し現人神となりつつある証左であった。ハレルヤは些か眉を歪めた。
「では私は帰る」
「待ちなさいハロルド。いえ僧侶ハレルヤと名乗っていたわね。あなたに折り入って頼みたいことがあるの」
マーシャが呼び止める。
「私達は魔族との和睦を考えている」
「和睦?」
「そう。私一人でニルヴァーナの民を守り切れるわけではない。魔法は万能ではないの。だから彼らとの争いを避けたいと考える。その為に使者を遣わしたいのだけれど」
「それを私にというわけか」
階段を降りようとしていたハレルヤだが観念して振り返った。マーシャの眼差しは先程ジョゼフの手紙を読んだ時よりか、幾許か感情が乗っていた。切羽詰まっていた、とも言える。
「魔王城から生きて帰ったものはほとんどいない」
「だからこそ私に頼むというのだな」
「ええ」
さてどうしたものか、とハレルヤは考え込む素振りを見せるが、答えは概ね決まっていた。やがて彼は首を縦に振った。
「私に出来るものならな」
これも運命なのだ。かつてテレンス、ジョゼフ、マーシャと共にニルヴァーナから魔王城へと旅立ったのと同じように。運命がハレルヤの足を進ませた。
魔王城のあるホウライ島へは船で上陸した。そこからはまたハレルヤの一人旅であった。
レベルの高い魔族がうごめきひしめく魔境である。もっともハレルヤも彼らに負けはしない。とはいえ戦闘をすることなく避ける。戦う理由は彼にはないからだ。魔族もまた、ただならぬ彼を避けている節があった。
というのもすでに噂は広まっていた。傷ついた魔族を治療し、死んだ魔族の墓を立てて供養する人間の僧侶がいると。
そういうわけで魔王城までの道のりで本格的な戦闘は勃発しなかったのである。しかし問題はここからと言えた。
魔王城の門をハレルヤは堂々と叩く。すると使者を迎え入れるように門が開いた。罠だろう、と経験上彼は推察した。しかし乗り込まずにはいられなかった。
道中多くの魔族が彼を睨み、襲い掛かった。がその全てを切り抜けた。一体も傷つけることなく。殴られても殴り返さず。さりとて倒れず。次第に魔族達にも動揺が広がる。彼奴は只者ではないと。
とうとう辿り着いた。ハレルヤは玉座に座る魔王と対峙する。そいつは、かつての魔王と瓜二つであった。
「貴様が僧侶ハレルヤだな」
「いかにも」
「話には聞いている。世話になった者もいるようだ。しかし我には必要なし。何しに来たか最期に言うといい」
「平和の使者として来た」
ハレルヤはマーシャから預かった親書を投げ渡す。新魔王は六本ある腕で器用に掴み、これにさっと目を通した。
「話にならんな。世界の半分でもくれなくては困る」
「ではそう伝えよう。次の使者を待て」
「待てというのか。この我に」
魔王は脅すように鋭い目線を送った。しかし全く動じないのがハレルヤの性分である。そういう不敵な態度に魔王はくくっと嘲笑った。
「何を勝ち誇ったような顔をしている。お前は生きて出られると思っているのか」
「思わない」
「ならどういうわけか」
「お前に討たれる為の旅だったのかもしれないと思うのだ。かつて魔王を倒した、私に出来る彼への供養とは、そうであるかもしれぬ」
「貴様が勇者ハロルドと申すのか、あの、父の仇の!」
魔王は翼を大きく広げ辺りを灼熱へと変えた。揺らめく炎に囲まれ、赤く染まる風景を背に、だがはぐれ僧侶はなお毅然として立っていた。
「私の命で終わりにしてはもらえぬか」
「何を言うか、貴様の命だけで贖えるものではない!」
魔王は怒りの形相を向ける。が、以前として冷静なハレルヤを前に、次第に炎は消え伏せていった。
「そうだ、お前ひとりの命で治まる問題ではない。そう人間共に伝えるがいい」
「その旨、受け取った」
ハレルヤは翻した。そのまま王の間から去り、後に煙を残すのみであった。
さてその後人間と魔族が和解したかというと、未だ遠い道のりと言わざるを得なかった。しかし後には戻らぬ道のりでもある。そしてある僧侶の供養の旅の行く末を知る者は、誰もいなかった。