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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鬼嫁

鬼嫁、いやがらせに遭う

作者: 東風

 朝は戦場だ。

 比喩ではないつもりだが、夫は「そんな大げさな」というだろう。

 でも、私にとっては紛うことなき戦場である。


 「あれ? 俺の鞄、誰かいじったか? あれ?」

 「パパ! パパの鞄、かわいくないから、こっち持ってって!」

 「いや、ちょっと待って! 花柄巾着とか、仕事に持ってけないから! 俺の鞄どこ?!」

 「教えな~い」

 「こらっ! パパの鞄、早く出して! パパが仕事に行けないでしょ! それよりもあんたはさっさとご飯食べ……って、あ、あぁぁぁぁっ!」

 「ぶ、ば、ぶー! だーっしゅたっ!」

 慌てふためく夫を見て、ニヤニヤ笑いながら花柄巾着を差し出す娘をとっちめようと歩き出したところで、ベビーチェア上の息子が笑顔全開で離乳食を床にぶちまけた。

 蒼白になる私、気の毒そうに見つめながら「俺、時間ないから行くな」と花柄巾着を手にする夫、私の雰囲気が変わったことを敏感に感じ取り、何事もなかったかのように朝食を食べ始める娘、体中が緑のペーストで覆われて笑顔全開の息子。


 以前よりは比較的協力的になった夫と娘がいたとしても、主婦にとっての朝は戦場だ。

 今日も、床を掃除するよりも先に息子をお湯が張った盥に突っ込みつつ、私は必死に緑と白の斑点に成り果てたベビーウェアをもみ洗いするのであった。


 炎の魔女。

 業火の使者。

 煉獄に突き落とすもの。


 様々な恥ずかしい名前で呼ばれる私は、国一番の魔術師である。

 いや、であった(・・・・)、だ。


 結婚して暫くは同じ魔術師の夫と共働きだったが、妊娠して、産休を取得した。

 夫はその間にも順調に出世。

 娘を保育園に入れるようになって職場に戻ったものの、暫くしてまた私が妊娠。

 私が妊娠、出産、育児をこなしている間に、夫は出世街道をまっしぐら。

 私の能力を捨てがたいと考えた国から、魔術師団に復帰するように依頼があったけど、かつて私の部下だった夫は、私が戻ったら私の上司になる。

 今の生活にそれほど不満があるわけではないのだけど、職場に戻ることにとてもモヤモヤが残っていた。


 はいはいが始まった息子は私の背中でおとなしくするのをよしとしない。

 泣きわめき床に下ろすようにひたすら主張する。

 それでも、一夜にして汚れきった床に下ろすわけにはいかず、軟体動物のようにおんぶひもから抜け出そうともがく息子を尻目に、私はひたすら床掃除にいそしんでいた。


 玄関で呼び鈴が鳴る。


 いや、正確に言うと、「鳴ったような気がする」だ。

 息子の泣きわめく声で、確信は持てない。

 先日も、在宅なのに不在通知を入れられてしまった。

 配達の人は、家の中から赤ん坊の暴力じみた鳴き声が聞こえるのに誰も出てこないから、さぞや不審に思ったことだろう。

 そのうち、育児放棄と思われて通報されるのではないか、とドキドキしている。

 ついつい、気のせいかも知れなくても「鳴ったかも知れない」と思えば、玄関に様子を見に行く癖がついていた。

 今日も「はいはい!」と大きな声で返事をしながら、玄関に行くと、扉の向こうで影が動いた。

 あ、やっぱり配達の人だったんだ。

 私はほっとして、「お待たせしました! ごめんなさい」とドアを大きく開けた。

 背中で脱出を試みる息子をなだめながら、作った笑顔で外に出たものの、何故か誰もいない。

 間に合わず、配達の人が去ってしまったのだろうか、と近所の玄関に視線を走らせたが、どこにも気配がない。

 「うぎゃ~!」

 おんぶひもから脱出できないと悟ったのか、我慢の限界か、息子がとうとう大音量を響かせた。

 「ごめん、ごめん。もう少し待ってね~」

 お尻をトントン叩きながら家の中に戻ろうとして、ふと下ろした視線の先に、箱があった。

 名前も住所も書かれていない箱。

 配達の人が持ってきたのか、と思ったが、誰宛かもわからない。

 それでも、自分の家の玄関前に置いてあったのだから、先ほどの人影はこれを置いていったのだろうと考え、私は腰をかがめて箱を手に取った。

 ガサッ。

 不穏な気配が箱の中から感じる。

 「ひぃっ!」

 喉の奥で引きつった悲鳴が出て、箱が手から落ちた。

 ゆっくりと地面に落ちた箱から蓋がずれ、中から黒光りする虫達がカサコソとあちこちに散っていく。

 「いやぁぁ~!」

 私は抜けそうな腰を叱咤して立ち上がると、玄関の扉を後ろ手に閉ざす。

 自分は虫の直前にいることになってしまったが、それでも、家の中にこいつら(・・・・)の侵入を許すよりは百倍マシだ。

 私は息子を潰しそうになりながらも、虫が散っていくまで震えて立っているしかなかった。


 以来、芋虫の詰め合わせセット、発酵した生ゴミセット、といったものが日替わりで届いたり、玄関先にたっぷりとインクがぶちまけられていたり、ささやかな庭の花が全部摘まれていたり、と気のせいでは絶対にない、明確な嫌がらせが行われるようになった。

 それらはすべて午前中の早い時間に行われ、夫も娘も何ら気づいていない。

 そう、標的は明らかに()だ。

 人の気配がする度に玄関に突進するけど、未だに犯人は捕まらない。

 最初は鳴らされていただろう呼び鈴も、最近は鳴らされることもなく、いたずらだけが繰り返される。


 「悪意だわ」

 さびた釘が植木鉢の中に仕込まれているのを見て、私はようやく直接対決を決意した。


 悪意の主を目の前にすることにためらいがないわけではない。

 遠く噂に聞く分にはスルーできることでも、直接投げかけられる悪意には一向に慣れることができないでいた。

 それでも、近所を歩いているだけで、悪意をぶつけられることもある。


 数ヶ月前の魔獣の出現で、私達が住んでいる王都は大きな被害を被った。

 その際、魔術師である私も夫もある程度の活躍をし、その功績を認められて、早いうちに自宅の再建にこぎ着けることができた。

 でも、そんなのは特例で、ご近所は軒並み大きな爪痕を残したままになっている。

 半壊した家、路端に転がっている瓦礫、遺体が見つかっただろうところに供えられた花束。

 近所の人たちの三分の一は引っ越していってしまったし、残っている人達も被害の色はまだまだ濃い。

 「力を出し惜しみしやがって。さっさと戦っていてくれれば良かったのに。

 自分さえ良ければそれでいいのかよ」

 私の姿を見つける度に、大声で悪口を言う人もいる。

 悔しい気持ちと腹立たしい気持ちがない交ぜになって、声がした方を振り返るけど、誰もが視線を外すのみ。視線を合わせてくれない。

 たまっていくモヤモヤに鬱々としていたところ、投下された爆弾が嫌がらせ(これ)だった。


 「いいわ。受けて立ってやろうじゃないの!」

 私は久々に杖を取り出し、ふつふつと煮えたぎる感情を爆発させたのだった。



 その日、私は夫と娘を送り出すと、息子の大好きなにんじんペーストとパン粥を与え、気まぐれな彼の機嫌をとった。

 そして、テンション高く遊び振り回し、さっさと体力を尽きさせる。

 嫌がらせと、息子の眠気のどちらが先に来るかは賭けだったが、もしこの賭に負けても、嫌がらせが続く限り挑戦すればいいだけの話だ。

 あっさりと割り切った私は、どこか心も軽く、あくびをした息子をおんぶひもで背中にくくり、玄関の前で杖を手に待機する。

 私には一つの確信があった。


 どれほど急いで玄関にたどり着いても、痕跡を残さない犯人。

 可能性はいくつかあった。

 一つ目は、隣家のひと。

 二つ目は、地理に明るく死角を知っているひと。

 三つ目は、地域ぐるみ。

 私は地道な近所への聞き込みを行い、この三つは可能性から除外した。

 隣家は同時期に引っ越してきた老齢の夫婦で、私たちのことは遠くにいる娘夫婦の代わりとでも言うようにかわいがってくれる。

 隣家が外れている以上、地域ぐるみではないし、幾ら死角を知っていたって走って逃げるにも限度がある。

 そして、唯一の目撃証言。

 隣家の老婦人が一度だけ、「見慣れないローブ姿の女性」を我が家の前で見た、と言っていた。

 「奥さんのお友達だと思ったのよ。シャイな人なのね、って」と。

 勿論、本件とは何の関係もない通りすがりの女性かも知れないけど、その女性が()を持っていたことから、疑惑は確信に変わった。

 つまり、この嫌がらせは魔術師(・・・)が犯人なのだ。


 魔術師にもいろいろなタイプがいる。

 私のように物理的な攻撃が得意な魔術師、夫のような広範囲に索敵が可能な魔術師、そして離れた地域に転移できる魔術師。


 「ほーら、お散歩行くよ~」

 息子をベビーカーに乗せ、箱をイヤイヤながらベビーカーの下にある篭に入れた。

 本日の嫌がらせは、腐乱したネズミの死体。

 うぅん。見たくはなかった。

 箱だって極力触りたくないけど、こればっかりは仕方ない。


 「あら、お散歩? いい日和ですものね」

 隣の老婦人に「えぇ、行ってきます」とにこやかに応えつつ、足は止めない。

 箱に入っているものを、早くどうにかしたかった。

 こんなもの、いつまでも持っていたいと思うわけがない。


 二ブロック先まで歩くと、さすがに親しく付き合っているような家はなく、見たことがある(・・・・・・・)程度の人々が住んでいる。

 ゆっくりと歩を進め、私は一軒の真新しい赤い屋根の家の前に来た。

 家の中はひっそりと静まりかえり、外から見る限り動きは見えない。


 このあたりは、先日の魔獣出現の際、多くの家が全壊して犠牲者も多く出た。

 持ち主を失った家も多く、今目の前にある家も、そうしたうちの一つだったはずだ。

 「だーだった」

 「そうね~。せめて中に入れてくれるといいわね~」

 外の空気に触れてご機嫌な息子に応え、私は杖をしっかり握ると、気持ちをしっかり持ってノックした。

 「こんにちは。いらっしゃいますよね? 出てきていただけます?」

 よそ行きの半オクターブ高い声をかけるも、家の中はしんと静まりかえっている。

 留守なのかな……と思うところだろうが、そんなはずがない。

 夫の呪文を込めたネックレスは、家の中に目的の人物がいることを指し示していた。


 「居留守使われても困るんですけど? 人にはあんなものを毎日欠かさず送ってきておいて、いざ自分が訪問されると居留守を使うって、卑怯じゃありません?」

 どこかそれほど遠くない場所で、息をのむ気配を感じる。

 私はほくそ笑みながら、ドアノブをぎゅっと回した。

 ゆっくりと玄関の扉が開く。

 一歩中に入り、私は異様な匂いに眉をしかめる。


 日の入らない、殺風景な玄関。

 傘立てに刺さった二本の傘。

 ぱっと見、どこにでもあるありふれた光景なのに、違和感が激しい。

 それをもたらしているのは、この匂いの元なのだろう。


 「お邪魔します」

 きっぱりと言い切り、中に入って玄関の扉を閉じる。

 誰かの息を殺す気配。

 細い廊下が三方に向かっている

 私は逡巡し、匂いが強くなる左側の廊下を歩き出した。


 探索系魔法が得意な夫にかけてもらった術は、この箱の持ち主の捜査。

 ネックレスは淡い緑色の光を徐々に強めていく。

 それとともに異臭も強くなる。

 あぁ、やっぱり、と私は独りごちた。

 相手(・・)は、異臭の元にいるのだ。

 だとすると……。

 軽い頭痛を覚え、額を押さえる。

 私は元来、焼き払うとか、なぎ払うとか、禍根を根こそぎ断つことが得意だ。

 その存在ごと。

 今回は、そうはいかないらしい。


 それほど広くない部屋で、薄く開いた扉の前に立つ。

 強くなる異臭とペンダントの明かり。

 そして、「あ、ぐぅ、べっ」と言った妙に耳になじんだ(・・・・・・)音。

 私は意を決して、扉を勢いよく開いた。

 「今日という今日は! ……はぁ?!」

 私は言葉を失った。



 それほど広くない部屋は、それでも南向きなのだろう、うららかな日差しが柔らかく差し込み、ほどよく暖かい。

 大きくあつらえられた窓は、バケツが転がる中庭に面している。

 そこまではどこにでもある、気持ちの良い部屋に見えた。

 そこまでは。

 それ以降は、何というか…………。

 散乱した食べ物のくずは、カビが生えているものや、発酵しているものまであって、この部屋にたどり着いた曰く付きの異臭の大部分となっていた。何回かあった汚物の贈り物は、調達に困らなかったのだろうとわかる。

 汚れた服もあちこちに転がっている。そこには、食べこぼしの染みや、オシッコの痕跡が、恐らく長期間にわたってくっついているのであろうと思われ、洗っても落ちないという確信が持てた。

 さらに、床に落ちているそれらの間を、よくわからない、いや、わかりたくない(・・・・・・・)虫達が縦横無尽に動き回っているようだった。

 心なしかハエが多い……と思って視線を窓際に移すと、そこには盥にいつ入れたのか不明な水と思われる物質が満ちている。表面がざわざわと動いているように見えるのは、多分気のせいだ。

 そして、……あぁ、そして。

 数段高くなった柵付きのベッドの中には、裸の赤ん坊が二人。

 うちの子よりも二、三ヶ月下と思われる、首がすわるかすわらないか、という月例の赤ん坊。

 むき出しのお尻にはかぶれや汗疹があり、首回りや手首の周りには湿疹も見て取れた。

 二人とももぞもぞと動いてはいるものの、明らかに栄養が足りていない状況で、とても動きが鈍い。


 家に入ってからの異臭の中には、僅かに甘いお乳のにおいが混ざっていた。

 また、近所の人の目撃証言からも、察していた。

 ローブに頭も体も隠しているのに、目撃者は、「女性だ」と認識していた。そして、不審人物とはかけらも思っていなかった。

 多分、赤ん坊を連れて我が家まで来ていたのだ。


 「何…………やってんのよ、あんたは!」

 私は怒鳴った。

 背後で息をのむ気配がする。

 私は振り返って、ドアの影に身を潜めていたローブ姿の人物の肩をつかんで、激しく揺さぶった。

 「バカなの? 何やってんのよ!」

 フードが落ちて、涙目のやつれた女が姿を現す。

 それは、学生時代から競い合ってきた友人の、変わり果てた姿だった。


 彼女とは、魔術を学ぶ学校に入って以来の友人だった。

 尋常じゃない魔力量を誇り、「歩く破壊兵器」と呼ばれた私と、芸術的なまでの緻密なコントロールで空間転移を可能とする「転移の細密画家」な彼女は、学年トップを賭けていつも丁々発止とやりあう、いわばけんか友達だった。

 それでも、けんかの結果が後を引くことはなく、お互いに正々堂々とやりあって、気持ちよく笑い合っていたはずだ。

 こんな陰湿な嫌がらせや虐待を行う子ではなかった。


 私が目を怒らせて睨み付けると、彼女も真っ向からにらみ返してきた。

 溢れる涙を拭いもせず、挑むように怒鳴り返してくる。

 「何って……見てわからないの! 嫌がらせよ! 私の人生めちゃくちゃにしたあんたや、この子達に、嫌がらせしてるのよ!

 あんたはいいわよね! 出世頭の魔術師団長を旦那に持って、子育てだって余裕でしょうよ!

 それに何? 魔獣まで退治して国王のお声をもらったりして!

 何アピール? できる嫁で、できる母で、できる魔術師?

 ちょっと育児に余裕ができたから、魔獣倒してみましたって?

 笑わせるんじゃないわよ!

 私がどんだけ…………どんだけ……頑張ってると思ってるのよ……」

 言葉は途中で消え、うずくまり、嗚咽を漏らす。

 震える背中に手を置き、私は改めて室内を見回した。


 確かに、部屋の中は汚物でまみれている。

 しかし、部屋は日当たりの良い場所にあり、小さなベッドの上に汚物は一切見当たらない。

 双子の赤ん坊の体にある湿疹も、体質か体の内部に起因するものが原因だろう。

 ぐずぐずと泣き続ける彼女の体を強引に起こし、目を合わせる。

 「何よ! 警備隊にでも突き出せば? 好きにしたらいいじゃない!」

 そう怒鳴る彼女の目の下には隈が濃く、頬はやつれ、髪もパサパサだった。

 いつもおしゃれだった彼女の手は、あかぎれでいっぱい。

 「私はね、……怒ってるのよ!」

 「だから、殺すなり、突き出すなり、好きにすればいいじゃない!」

 「違う!」

 私は悔しさでいっぱいになり、震えた。

 「あんたの旦那はどこに行ったのよ!」

 「へ? どこって……仕事に……」

 「こんなになったあんたや赤ん坊を放ってか!」

 「眠れなかったら仕事にならないからって、王宮に泊まり込んでいて……」

 「ちっ。じゃぁ、あんたの家族は? 旦那の実家は?」

 「私の実家は遠いし、旦那の実家は……子供の世話ぐらいできて当たり前って。そんな甘えたこと言ってるから……仕事に復帰できないんだって…………」

 「はぁ?」

 私は呆れて言葉を失った。

 代わりに、ぎゅっと彼女を抱え込む。

 背中の息子と、ベッドの上の赤子がぐずりだしたけど、無視した。

 「あ……泣いちゃう、私の赤ちゃん達、泣いちゃう……」

 「あんたも泣け!」

 「え?」

 赤ん坊に手を伸ばす彼女を押しとどめて、私は彼女を懐に入れ続けた。

 「あんただって、泣いていいんだよ! こんなつらいこと、たった一人に押しつけられて、怒っていいんだよ!

 初めての子育てで、右も左もわからないのに、何ができるってのさ!

 赤ん坊は泣いて当たり前なんだ!

 そんなんで仕事ができなくなるんなら、嫁だって何もできなくなるって、あんたの旦那はなんでわからないのさ!

 あんたは頑張ってる! 誰が認めなくても、私が認める! あんたは頑張ってる!」


 精一杯の救難信号が、私への嫌がらせだったんだ。

 三人の赤ん坊達が泣き出す。

 でも、それに輪をかけて大きな声で、彼女が泣き出す。

 獣のように吠えて。

 涙を流して。


 そして私は、泣き疲れて眠り込んだ彼女を隣の部屋のソファに寝かせ、赤ん坊達にミルクを与え、部屋の掃除を開始したのであった。



 「帰れないって……大丈夫なのか?」

 魔法で手紙を飛ばすと、仕事帰りに夫が寄ってくれた。

 「ごめん。この家の惨状を放っておくには忍びなくて。

 彼女、双子の夜泣きと、皮膚炎のせいで、ずっと眠っていなかったみたいなの」

 「そりゃ、大変だな。

 お姉ちゃんは俺が見ておくから大丈夫。

 何か足りないものある? うちから持ってくる?」

 夫の協力的な態度に、胸が痛くなる。

 うちだって、悪意はなかったけど、実家も義実家も協力はしてくれなかった。

 それでも、うちは一人ずつの育児だったし、夫が少しずつでも育児に参加してくれるようになったから、ここまで来た。お隣の老夫婦も、わからないことや困ったことがあるたびに助けてくれた。

 彼女にないもの、私にあったもの。

 彼女は、何も得られない私自身でもあった。

 それを運と言ってしまうには、あまりにも切ない。

 「お願いしたいことがあるんだけど」

 「何?」

 私は夫に二つばかりお願いして、聞こえ始めた泣き声に慌てて家の中にとって返したのであった。



 翌日、昼も近くになって、ようやく待ち人が来た。

 「すみません! 一体、何が?」

 困惑しきりという感じで家に入ってきたのは、彼女の夫。

 私の夫の部下とわかったので、早めに帰宅させるようお願いしたのだ。

 家の中はすっかり片付いていて、この男の暫く立ち入らなかった部屋の面影はほとんどない。

 それでも、こんこんと疲れた顔で眠り続ける妻の顔と、弱っている赤ん坊二人を見て、それなりに感じるところはあったのだろう。

 数日休みたいと言い出したので、私は伝言しておく、と快く頷いてあげた。



 続いて、そろそろ私も背中の息子と一緒に帰ろうか、というところで、王宮からの特使が現れた。

 「業火の魔女殿! 現場への復帰を白紙にしたい、とはどのような理由でしょうか? 陛下が大変驚いておいでです!」

 私の家ではないことは相手も承知で、何故このようなところに私がいるのか、と特使は不審げにあたりをキョロキョロしている。

 私は夫が持ってきてくれた荷物を手に、にっこりと笑い返した。

 「本当に申し訳ないんですけど、のっぴきならない事情ができまして」

 「して、その事情とは? お教えいただければ、我らで解決できるやも知れません」

 魔獣の動きが活発になっている状況で、破壊力抜群の私は貴重な戦力なのだろう。

 特使殿は前のめり気味でそう言ってきた。

 私は自然と浮かぼうとする笑みをなんとか押しとどめて、困惑のていで答える。

 「本当に残念なんですけど。……やんごとなき方々でも、どうしようもございませんわ。

 私の復帰につきましては白紙、と思っていただけます?

 早ければ十年、いえもっとかしら?

 なるべく急ぎますけれど。

 ……本当に残念」

 「お困りごとは何だと申すのですか?

 陛下より、陛下の御名において、あなたのお望みをかなえるように、と言いつかっております。

 それ以上隠されますと、返って不敬ですぞ」

 苛立たしそうに特使が言う。

 「何でもよろしいんですの?」

 「えぇ! どうぞ!」

 私は今度こそ、笑いそうになり体を震わせたけど、タイミング良く息子が暴れ出したので、私は息子をあやすふりをして、体を揺すった。



 二ヶ月後、私は新しくできた保育所で、久々に友人と顔を合わせた。

 彼女のふっくらとした頬に薄いひっかき傷がある。

 犯人は、彼女の胸元にいる赤ん坊だろうか。

 赤ん坊の爪は薄くて切れ味抜群なのだ。


 手ぶらな私は、嫌がる息子を先生に渡し、さっさと息子の視界から姿を消すべく、急ぎ足だった。

 「元気?」

 通り過ぎざまに彼女に問うと、彼女は苦笑した。

 「いまは、片方ずつ預けてるの。まだ、元気にはほど遠いわ」

 それでも、彼女の苦笑には闇はなく、体調は悪くなさそうだ。

 「旦那はどうしてるの?」

 「今日は午前休とって、もう一人を見てくれているの。

 私はこの後、三日ぶりに独り寝よ」

 今度は鮮やかに微笑む。

 午前休とな?

 うちの旦那はそんなものとってくれなかったな、と思う。

 制度が最近できたのか、それともあったけど教えてくれなかったのか

 帰宅後の家族会議に一つ議題ができた、と、心の中にメモをした。

 「ねぇ?」

 考え込む私に、彼女はためらいがちに声をかけてきた。

 その弱々しさに、慌てて彼女の方を見る。

 「どうして助けてくれたの?」


 あれから一ヶ月間、私は彼女の家に通い詰めた。

 彼女の旦那がいるときもあったから、そういうときは顔を見せずに帰った。

 旦那がいないときには、息子を床に放置して、掃除に努めた。

 家の中がきれいになってくると、赤ん坊達の皮膚炎も軽度なものへと変わった。

 おかげで夜泣きが減ったようだ、と知れたのは、彼女の目の下の隈が薄くなってきたからだ。

 最初の頃は、魂が抜けたようにぼーっとしていた彼女の目に徐々に生気が戻ってくる。

 それを見届けて、一ヶ月の節目に、私は訪問をぱったりとやめた。

 散歩がてら庭をのぞき込むのはやめなかったけど、庭から見える部屋の中は、明るくてちょっと散らかっているけど、そこそこきれいなままだった。


 「私は、私を助けたの。あなたを助けたんじゃないわ」

 不思議そうにする彼女に、私はいたずらっぽく笑った。

 「うちのお姉ちゃんにも魔力があってね、多分、そう遠くない未来、魔術師になると思うのよ。

 そのときに、お姉ちゃんが望む生活ができればいいな、って。

 でも、お姉ちゃんに子供ができて、それを私が見なきゃいけなかったら、本末転倒でしょう?

 だから、あなたのことを利用したの」

 私は、親友を思いやる魔女(・・・・・・・・・)として、国王陛下に子育て支援の実施を訴えた。

 ついでに、魔獣の脅威に怯える国に、魔術師の半分を占める女性が家庭に入ってしまうことの損失を訴えた。

 事実、この友人の転移は、髪の毛一本の誤差もないと言われるほど。彼女の協力があれば、今の魔術師達の力ももっと効果的に発揮できるだろう。

 力説し、必要に応じて大臣達の前でプレゼンテーションを行い、彼女たち(・・)の現場復帰が実現するまでは、出仕できない、と主張した。

 おかげで、保育所が増え、いま、国は保育士の育成にも力を入れている。

 男女問わず育休の取得もしやすくなった。

 国王を始め、国の重鎮がここまで急いで解決してくれるとは思わなかったけど、正直、本当に助かっている。

 つかまり立ちを始めた息子の世話は本当に大変で、先日も、せっかく買ってあったキャベツをすべてちぎり、庭にばらまかれたのだった。

 保育所に預けられるなら、それに越したことはない。

 「あなたを利用させてもらったの。これで、貸し借りはなしね」

 にぃっと笑ってみせると、友人は一瞬、泣きそうに顔をゆがめたけど、すぐにそっぽを向いた。

 「そ、そういうことにしてあげてもいいわ! 仕方ないから!」

 あぁ、学生の頃の威勢が戻ってきている。

 私はほっとして、鳴り響いた鐘の音に飛び上がった。

 「やばい、遅刻するわ! またね!」

 走り出した背中に、友人の「またね」が聞こえてくる。

 あぁ、本当に良かった。

 「えぇ、またね」

 私は何の憂いもなく、王宮に向かったのであった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 視点がとっても面白かったです [一言] これからも作品読みたいです
[良い点] ちゃんと改善する方向に行ってくれてよかったです。 [一言] ファンタジーでこの設定はとてもいいと思いました。育児ノイローゼを甘く見てはいけない……。鬼嫁じゃなくて天使嫁でしたね。
[一言] 素敵な小説を読ませていただき、ありがとうございます 現実世界でも、ファンタジー世界でも女性しかできない事は、子を産み育てる事 男なんざ、孕ませるだけでその後は知らんふりなんてざらにいます…
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