六
神社のお話に戻ります
あの日の邂逅以来、操はよく物思いに耽る。
どんよりとした曇り空を見上げながらため息をついた。
あの妖を、あれから見ていない。
けれども、彼のことが気になる。
玫瑰神楽と呼ばれる存在のことも。
村を襲う妖と何か関連があるのだろうか。
「操様!またぼーっとして!」
あかせの大声に、漸く目の前に少女がいることに気づがついた。
「はっ、あかせ、いつからそこに」
「ずーっと呼んでましたよ。もうっ」
気の強そうな顔立ちなのに頬を膨らませて怒る姿が愛らしい。
そんな他愛もない事を思ってほくそ笑む。
「大巫女様がお呼びです」
その言葉に操は笑みを消した。
すぐにあかせとともに簀を渡って大巫女の部屋へ向かう。
「お呼びでしょうか」
部屋に入ると年老いた大巫女が湯を沸かして座っていた。
部屋は質素で、清潔感があり、きちんと整理が行き届いている。
大巫女は振り向き、細い目を操に向けて笑いかける。
「操殿、お掛けなさい。ありがとう、あかせは戻りなさい」
「…はい」
あかせは頭を下げて戸を閉めた。
小さな足音が遠ざかっていく。
「どうぞ」
そう言って大巫女は湯飲みを渡した。
白湯に柚子と生姜が浮いている。
「ありがとうございます」
一口啜る。
柚子の芳しい香りと、生姜の辛味が美味い。
体がほっと温まる。
「操殿」
大巫女は齢60は過ぎかなり高齢だ。
髪は既に白く、1つに結っている。
それでも覇気と瑞々しさのある声をしている。
「貴方に蔵の鍵を預けることにしました」
始めはその意味がわからなかった。
「蔵の書物を全て読みなさい。一冊、一項、一文、一句逃さず全て頭に入れるのです」
「何故」
「貴方が次期の大巫女になるのです」
操は我が耳を疑った。
その蔵は開かずの蔵とされ、代々大巫女を継ぐ者だけが入る事を許可されると言われる。
蔵の鍵を預けるとは、この神社の歴史、ありとあらゆる知識を全て継承するということだ。
「何故です」
「神の思し召しだからです」
神の?まさか。
「私は…相応しくありません」
「何故そう思うのですか」
「私には霊力がありません。分不相応な立場を得たところで、一体何が出来ましょうか」
視ることしか能のない自分に務まろうか。
人を守ることの出来ぬこの身に何が出来ようか。
「初めから何でも出来る者はおりません。貴方はまだお若い」
「されど」
「それに、これは我らが祀る八尺瓊神の御意志であり、覆す事はできませぬ」
納得のいかない操に大巫女は優しい口調で言った。
「私は貴方にならこのお役目、全う出来ると思うております」
何も言えなかった。
大巫女からここまで言われては断る術はない。
「謹んで、お受け致します」
操は頭を下げた。
大巫女は一つ頷いた。
「それでは蔵の鍵を渡しましょう」
大巫女は操の肩に手を置いた。
はっと顔を上げた時には、既に霊力が体に流れ込んできていた。
鍵は、実体を持たぬ物なのか。
操は目を見開いて大巫女を見つめた。
「これでよい」
大巫女は肩に置いた手を外した。
「私は老い先の長くない身。一つ肩の荷が下りてほっとしました」
そう言って微笑む姿はまるで少女のようだ。
大巫女は温くなった柚子と生姜の湯を一口啜った。
「貴方はこれから神職でありながら、大巫女を継ぐ者として巫女宮と呼ばれます」
大巫女になる者は名を封じられる。
名は最も強い守であり、呪でもあるからだ。
巫女宮と呼ばせるのはその為の準備だ。
「そう言えば、物忌みの巫女から聞きましたよ。森の妖に会ったと」
その言葉にはっと大巫女を見た。
「あの者は一体」
「あれらは妖を統治する者らです。神が人を導き、天皇が人を統治するように。あれらは知恵と力を持って妖を纏めている」
「妖を殺めることも?」
「あれらは血酔いの妖を狩るのです」
「血酔い?」
「人の血はあれらにとっては美酒。美酒に酔い正気を失った妖は、更なる美酒を求めて人々を襲う」
確かに緋陰は狩りをしていると言っていた。
「この森の妖は人を襲う事は無いのですか?」
「ない。そのように彼らとの契約があります」
「契約?」
「古い契約です。されど、その契約が破られる時彼らは我らの敵となるでしょう」
操は目蓋を閉じて緋陰の姿を浮かべる。
「もう一つ貴方に伝えねばならぬ事があります」
「はい」
「貴方の兄上であられる藤原正次殿の姫を、この神社で預かる事になりました」
「はい?」
どう言うことなのか。
藤原正次は藤原一門の家系の中でも長兄として一目置かれる存在であり、操の兄でもある。
幼い操を八尺瓊神社へと導いたのも正次である。
そんな兄が今度は我が子を預けるとは。
「訳あってのことです」
「姫は…凛はまだ齢一つになったばかり。そんな幼い子を母の元から離すのですか」
「巫女宮」
強い口調で大巫女が遮った。
「気持ちはわかりますが、感情的になってはなりませぬ」
その言葉に操はぐっと押し黙った。
既に決まった事だということだ。
覆る事は無い。
「姫がこちらに来られるのは7日後です。貴方にも子守をしてもらいますよ?」
面白おかしそうに大巫女は笑った。
操は口の端を引きつらせた。
生まれてこの方、子守などした事がない。
人の気を察していながら飄々と湯を飲む大巫女が恨めしかった。