十一
寒さが厳しくなってきた頃。
森では朽ちた葉が地面を覆い、しっとりとした露を含んで冷たく濡れている。
雪ももう時期だろう。
まだ日が高い昼頃。
今日はまだ暖かい。
緋陰は森のある一端にいた。
「雛」
声がして、振り向くと三十路程の妖艶な容姿をした青年がいた。
白髪は真珠のように柔らかな光沢があり、日の光を浴びて輝いている。
瞳孔は縦に細く開き、垂れ目な目尻を更に下げて微笑んでいた。
「珍しいね。こんな昼間に出てくるなんて」
玫瑰は苦笑した。
「私はそろそろ冬眠に入る。藜もね」
少し寂しげに玫瑰は小柄な緋陰を抱きしめた。
「勝手に寝ればいーじゃん。わざわざ挨拶なんて」
緋陰は何だか落ち着かない。
頬が熱くなり、俯く。
「役目を忘れるんじゃないよ?」
「わかってるよ。お休み玫瑰」
「どうか健やかに。私の雛」
「誰がお前のだよ」
そんな憎まれ口もしばらくは言えなくなる。
普段どんなに反抗していても、育ての親である事に変わりは無いのだ。
「相変わらずだね。じゃあまた春に逢おう」
「うん」
玫瑰は森の奥へ去っていった。
これからあの樟の元へ行き眠りにつくのだろう。
「ざくろ…どうしてるかな」
緋陰は森の外へと足を向ける。
結界の手前で足を止め、高く跳躍して近くの木に登る。
すると、おかしなものが結界の方へ向かって来るのが見えた。
「へっ?待てお前!」
木の葉だらけの塊を見て緋陰は喉の奥から叫んでいた。
今日はやけに騒々しい日だ。
巻物を抱え、部屋を出るとまた何時ぞやのようにばたばたと巫女たちが走り回っている。
それもあかせやまきだけでは無い。
巫女たち総動員で走り回っていた。
操は一人の巫女を呼び止めると、また凛が居なくなったというのだ。
青褪めた顔をした巫女は申し訳なさそうに言った。
「昼餉をお召し上がりになり眠ってしまったので、書を読もうと書庫へ行き戻ってきたら、もぬけの殻になっていたとかで」
「そうですか、もう行って結構です」
巫女は頭を下げるとまたばたばたと走って行った。
「凛…一体どこへ?」
これだけ境内を探しても見つからないのだ。
結界の外に出た可能性も考えられる。
「まさか」
操のぬばたまの髪が風に揺れる。
微かに漂う微弱な妖気。
その先には鎮守の森。
「凛」
操は我が身を顧みることも忘れて森へ駆け出した。
結界を超えると更に生々しい妖気が森中を満たしていた。
全身の血の気が引いていく。
毛一本残らず総毛立つのを感じた。
全神経を研ぎ澄ます。
ここは妖怪たちの聖域なのだ。
「凛」
呼び掛けるが、反応はない。
森は思うより深く、あまり離れると危険だと頭の片隅で思った。
その瞬間、がさりと物音がした。
「っ!?」
音がした方へ振り向く。
心臓が早鐘を打つ。
冷たい、凍りつくような妖気が刺さる。
近づいて来る。
そこで初めて丸腰である事に気がついた。
逃げなければ。
一歩後ずさる。
「誰だ?」
聞き覚えのある少年の声だ。
「緋陰さん?」
思わず呼び掛けるが、直ぐにはっと口に手を当てて閉ざした。
違う。
これは緋陰の気配ではない。
桁の違う妖気が放たれて体が痺れたように動かない。
「貴方は何者ですか」
震えそうになる己に叱咤して、懸命に平静を装う。
姿を現したのは緋陰の姿をした何者かだった。
「ほう、わかるのか」
微かに感心したような様子で少年は操を見据える。
「お前が天狗を緋陰と名付けた物好きな人間か」
少年の姿は歪み、一歩操へ近づくとその背丈はすらりと伸び、金のざんばらの髪は黒い短髪へ変わる。
装束も身軽な淡い水色の衣に変わる。
身長は操より高い。
二十歳前後の見た目をした青年だ。
「人間、此処は我々の縄張りだ。何故禁を侵し入ってきた」
厄介な妖だ。
「ちょっと探し物をしていたのです。他意はございません」
「信じられると思うか」
「信じるも信じないも貴方の勝手ですが、時期に巫女たちが私を探して結界を越える準備を始めるやも知れません」
にこりと微笑んでそんな事をさらりと言う自分の口が信じられなかった。
「お前…」
「全ては私次第という事ですよ」
自分の身に何かあれば神社が動く。
それだけの影響力があるのだと暗に示す。
「この俺を脅すのか」
「いいえ。取り引きをしたいのです」
「取り引きだと?」
この妖は言葉を操るだけではなく、思慮深い。
「私を見逃して下さい。そうすれば巫女たちが結界を越えないように取り計らいましょう」
不敵に笑う操。
「妖相手に取り引きとは。馬鹿なのか、肝の座った人間なのか」
青年はぼそりと呟いて踵を返した。
「見逃していただけるんですか?」
「好きに解釈するがいい」
興が削がれた様子で青年は森の奥へと消えた。
彼の姿が消えて操はようやく大きく息を吐き出してへたり込んだ。
生きた心地がしなかった。