第一章 訪問者
「…ただいま」
家の玄関のドアを開け独り言のように呟くと、淳はそのまま自室のある二階へと続く階段を駆け上がろうとした。
「おーい、こっちこっち」
そのとき、突然家の自分を呼ぶ声に足を止める。
淳は肩をすくめると、手にもった通学用のカバンを一先ず階段に置き、声がしたリビングへ向かった。
彼の名前は結城淳。
都内の私立大学に通う学生で、現在はこの家で一人で暮らしていた。
就活を控えたこの時期にも関わらず、両親が離婚裁判中という頭痛の種でしかない夫婦喧嘩の延長に付き合わされていたためだ。
「辰巳叔父さん、来るときは連絡して下さいよ?ビックリしたなぁ」
リビングの硝子ドアを開けるなり、ソファーに座る人物に文句を言う。
「すまんすまん、どうしても急な用事があってな」
辰巳叔父さんと言われた男は、眼鏡を掛け無精髭を生やした中年だった。
「…お久しぶりです。急な用事って何ですか?」
ぞんざいな挨拶をすると、淳は着込んだコートを脱いで彼の横に座る。
「明日のうちの試験の事。それより珈琲が飲みたいなぁ?淳君」
「…はいはい、気付かなくてすみませんね」
テーブルの上にある電気ポットの電源を確かめ、インスタントコーヒーを入れる準備をする。
「明日な、俺が送迎することになった。朝8時に来るから寝坊するなよ」
「もしかしてウチの大学の生徒を全員拾ってから?」
「ああ、まぁ5人だからそう早めに出る必要は無いけどな。お前、準備は?」
辰巳は胸ポケットから取り出した煙草を口にくわえる。
「してませんよ。VRの中だし準備なんか…」
その動作を見て灰皿を渡すと、辰巳は軽く頭を下げてライターで火を点けた。
「……お前な、せっかく内部情報教えてやったのに。ゲームやってるか?」
「サードワールドですか?最近忙しくて…それに5年前のプロトタイプなわけですし…」
辰巳はがくんと首を垂れると、横に振って続ける。
「本気で受かる意思あるのか?今年は受験者数4桁はいったらしいぞ?」
目の前に座る、煙草を吹かしながら憔悴しきった顔をしているこの人は、ゲーム業界最大手の企業に在籍し、開発部門の主任を勤めている。
その辰巳が5年前に趣味で開発したサードワールドというPC用オンラインRPGに、淳は高校生の頃見事にハマってしまい、将来の道の第一進路にしていた。
「もちろんですよ。ゲーム経験者は僕と佐藤だけですし、伊達に何百時間も費やしてないですからね」
「佐藤…ああ、あの天才君か。俺はお前が心配だよ」
「今日もアイツと後で相談するつもりです。きっと、辰巳叔父さんから情報引き出したか?って電話来そうですし…珈琲どうぞ」
熱湯を注いだカップから、珈琲の独特な香ばしいかおりが部屋を漂い始めた。
「あの子は本当貪欲だからなぁ、誰かさんと違って」
「だから嫌いなんですよ…効率重視の考えが」
「そう無下にするな。幼なじみだろう?」
辰巳は目を閉じて珈琲の香を楽しむと、そう言った。しかし淳はどうしても素直に受け取れず、眉をひそめてしまう。
「……さて、そろそろ休憩時間も終わりだな。じゃあ仕事に戻るわ」
腕時計を確かめた後で、彼は立ち上がって告げた。
「珈琲飲んでないじゃないですか、それに夕食は?」
「仕事の関係で食欲無いんだ。接続型VRも副作用は大きいな」
「……あんまり無理しないで下さいよ。辰巳叔父さんに引導を渡すのは僕なんですからね?」
「はっはっは。ともかく明日は頑張れっ!」
大きな口で笑うと、辰巳は淳の肩を軽く叩いた。
そして、じゃあなとだけ残して静かに帰っていった。