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「この子が遺産?」
ミレディは、ひそめた声にも訝しさを滲ませる。
夫であるゴーシュ・シェルラインが連れて来たのは、五歳の小さな女の子。
外腹の子かと激昂しかけたが、そうではないことがすぐに知れた。夫の背後から、姑が現れたからだ。
この口うるさい母親の前で、自分の不貞を告白しようとするほど、夫は馬鹿ではない。
夜も更け、七歳になる娘のローラはもう寝ていた。
腹の中にはもう一人いるが、こちらも蹴りを繰り出すこともなく静かにしている。これも女ならばまた姑の嫌味がくどくど繰り返されるのだろう。
継ぐようなものなど何もないこの家の跡取りを、姑ばかりが熱望している。
とはいえ、シェルライン家が商家として大成しているのは確かだった。継ぐべき歴史はなくとも、遺産はもしかしたら残るのかもしれない。だがそれはあくまで夫のものだ。これまでさほどのかかわりも援助もなかった義実家が、さも当家の財産でございと乗り込んでこられることに、不遇時代を支えた妻としては苦々しいものがあった。
とどのつまり、ミレディは夫の母が好きではなかった。
そこにきて、その姑が見も知らぬ少女を連れてきて、遺産であるとのたまう。どこか誇らしげでさえあり、どう考えても厄介ごととしか思えないミレディは、内に苛立ちを募らせるばかりだ。
「もう少し説明してくださいな、あなた」
夫を差し置いてべらべらと話し出す姑をはっきりと遮り、無表情で立っているばかりの夫を促す。明らかにむっとした姑を見ないふりで、ただ夫の顔を見つめた。
ゴーシュは肯き、そして自分の母に、女の子を連れて台所へ行ってくれるよう頼んだ。温かい飲み物でも、と言ったが、おそらく以後の会話を聞かせたくないのだろう。
そういう話を、するのだ。
二人でソファに並んで座る。
「私の父が、かつてとある貴族のご令嬢を助けた。四年前のことだ。
乱暴を受けているところに躍り出て賊を蹴散らし、しかし通報はしなかったと。むしろ、衛兵に見つからぬよう送り届けたそうだ」
女の子が出ていくと、ゴーシュはおもむろに口を開いた。
「乱暴って……」
「そういうことだ……」
ミレディは思わず痛ましい顔になった。
理不尽なことだが、公にしないほうが良い被害と言うのはある。
「そのご令嬢はその後、急病を称して地方の別荘に移り、そして……子を産んだ。しかし、気が折れたのであろう、それ以来、気鬱に悩み、床を上げられぬままはかなくなってしまわれたが、その事実に子の祖父母は呪いを見た、と」
「なんですって?」
「娘が亡くなったことで、その子はかの家を不幸に陥れるために生まれて来たのだ、と、そう信じ込んでしまった」
馬鹿馬鹿しさと怒りにくらくらしたが、しかしどこか頭の隅で、下賤の賊に汚された娘を悼み、そこから生まれた赤子を受け入れられない心情もかすかに理解は出来た。
「五年面倒を見たが、結局、子は養子に出されることになり、しかし、ひそかに生まれた子は籍こそあるもののほとんど周知はされていない。事情も事情だ、大手を振って養子先を探すのもはばかられる。ゆえに」
「彼女を助けたあなたのお父様に白羽の矢が立った、ということね」
夫は肯いた。
つまりもう、その貴族はこの子供に関わる気はないのだ。だからこんな、商売は成功してはいるものの名もない市井の夫婦に子を売ろうとしている。
夫は金のことは言わなかった。だが、姑のあのらんらんと光った目、そして遺産という言葉からそうと知れる。
ぞっとした。
夫の父、つまりそれは姑の夫を指し、その当人はすでに去年、鬼籍に入っている。
姑は、自分の夫が成した遺産であると、あの少女をそう現したのだろう。はっきりとは言わないが、おそらくそういう意味に違いない、とミレディは見当をつけた。
「遺産。遺産と言ったわね。つまり、お金をもらったの?」
庶民の出同士、あけすけな言葉づかいで聞く。だが意外なことに、夫は首を振った。
「いや。しかし、おそらく近々爵位を賜るだろう」
「なんですって?」
思わず声が大きくなる。当然、一代限りの男爵の地位であろうが、それでも爵位は爵位だ。おいそれと与えられるものではない。
理由はなんとでもつく。昨今のシェルライン商会は国外にも商いの手を広げ、外貨の獲得と、それに伴う寄付活動が勢いを増している。
寄付活動はもちろん税金の削減が目的だが、名目としては善行が成り立つ。そうした功績を認めて爵位が与えられるというのは、在りうる話だ。
ゴーシュはかの貴族の家名を口にしようとはしなかったが、それだけで、かなり高名な家なのだと知れる。知られないほうが良いことと同じくらい、知らないほうが良いこともある。
なるほど、姑のあの誇らしげな顔にも合点がいった。苛立ちは募るが、しかし、少女に罪はない。憐れみを覚えた。
「お話は終わったかしら?」
とってつけたような上品な言葉遣いのくせに、ノックもしない不作法さでドアを開けた姑にも。
身の丈に合わないことはするべきではない。そのことがよく分かった。
ミレディはかがんで、ぼんやりと立っている少女と目を合わせた。
「お名前は?」
五歳にしては騒ぐことも泣くこともなく、母を恋しがる様子もない。哀れなことだ、とまた思う。
一通りの躾は受けているのだろう、可愛らしくたどたどしいものではあるが、きちんとした淑女の礼をとる。
「お初にお目にかかります、メレディアと申します」
家名を名乗らぬ挨拶に、境遇が知れる。ミレディは思わず、少女の背を抱き寄せた。シェルライン家の子供が、女ばかり三人になった瞬間であった。
ミレディが、遺産という言葉の意味をきちんと知るのは、それから十数年の後だ。その言葉は、姑から発せられたものではなく、先の家からの話を聞きかじったことで彼女の口から出て来たものだった。
この子は遺産である。
その意味が、ようやく解ろうとしていた。