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「まあ、こんな装丁、見たことないわ」
リャナザンド子爵夫人は、庭の花々をまとめた絵図集の表紙を撫でて、目を輝かせた。
あれからほんの半月後、メレディアは、ジェラルドの生家にいた。
夫人の趣味が、貴族らしからぬ庭いじりだと教えてくれたのは彼だ。心中感謝をしつつ、メレディアはその、桃色で統一され金箔の型押しで縁取りをつけた美しい本の値段をさりげなく告げる。
が、どうやら耳には入ってない。彼女は、その本を左手にしっかり抱えたまま、台に広げられた他の商品を物色し始めている。
「サラのもっているそれも、綺麗な模様ねぇ」
「ええお母さま、このクリーム、とってもいい香り。でも少し強すぎるかしら?」
「サラ様、それは魔術を使用しておりますの。お手をお借りしてもよろしゅうございますか?」
「なぁに、なにをするの?」
興味津々で覗き込んでくる他の姉妹に見守られながら、長姉のサラは手を差し出してくる。
メレディアは、あらかじめ魔術で温めていたタオルでその手を包み、しっとり温かくなったところで、さきほどまでサラが検分していたクリームを手に取り、塗り伸ばした。薬草と果物の柔らかな香りが立ち上り、それを刷り込むように、手のひらから指先までを揉み解す。香りは鼻腔から脳を刺激し、神経を鎮める効果があった。
そうして、サラの右手がすべすべになる頃には、あんなに強く香ってた匂いは消えてしまう。
「ああ、気持ちいい。それに、これなら香水の邪魔もしないし、寝るときにずっと香って気になってしまうこともないわね」
「はい、時間がくれば消えるよう、調整されているのです」
「なんだか手が軽くなったわ」
サラは、明かりに透かすように自分の手を眺め、嬉しそうに笑った。
「本日はお持ちしてありませんが、全身用もございます。侍女に手技を覚えさせれば、自宅で体のこわばりをほぐせますわ。例えば、コルセットで締め上げられて悲鳴を上げる背中なんかを」
「想像しただけでうっとりしちゃう。庭仕事をするお母さまの腰も、本ばかり読んでいるエステルの肩も、これで安泰よ!」
「わ、わた、私は別に……」
一応、という感じに顔をみせていた末娘のエステル嬢は、両手をふってそれを否定した。しかし、メレディアは、彼女の目が台の隅の小さな入れ物にくぎ付けなのをさっきから気づいている。
「妹御様は、綺麗な目元をされていらっしゃいますわ。羨ましい……」
「えっ。そそそそんな、ことは……」
「いいえ、ええ、そう、もし良ければこれをつけてみせていただけませんか?」
そっと、彼女の目がちらちらと刺していた品を取り上げ、そのつややかに仕上げられた碧石の、小さな小さなふたを開けて見せた。中に詰まっているのは、珊瑚色の粉だ。圧縮されて固く詰まっている。メレディアはそれを、小さな筆を使って、おどおどしているエステルの目じりにそっと刷いた。
「あら、まあ、とっても似合うわエステル」
「ほんとね。子供だ子供だと思っていたけれど、大人らしい顔になっていたのね」
色っぽさというよりは、若々しい健康美を引き立てる化粧になった。
「ねぇ、これはなに?」
エステルのために夫人がその品を買い上げた後も、彼女らの質問は続いた。
「失礼いたします」
メレディアを案内した従僕が、控えめにドアをノックする。
「ジェラルド様のご帰宅にございます。こちらへ挨拶を、とのことですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
夫人はそれを聞き、さりげなく、レースの施された下着を袋へ押し込むと、鷹揚に頷いて見せた。従僕が引き下がるのと同時に、メレディアの鼓動が強くなっていく。
ジェラルドが帰るまでには、切り上げて撤収しようと考えていた。けれど、熱心に商品を見繕っている彼女らにはとうていそうは言えず、結局こんな時間になってしまった。
「ひどいな」
第一声、彼は部屋を見回し、そう言った。同じようにしてみて、確かに、と思ってしまう。柔らかな色彩とは言え、青や赤や緑の様々な商品があちこちに散らばっている。
「お客様の前で言うべきことはそれなの、ジェラルド?」
やんわりと咎める夫人に肩をすくめてみせると、彼は見下ろす位置でメレディアに頷いて見せた。ぴくりとも笑わぬ顔に、慌てて立ち上がる。
「お邪魔しておりますわ、ジェラルド様。この度はご家族をご紹介いただきまして、心より感謝申し上げます」
「構わん。前々から、母上達にねだられていたのだ。お土産は?と。どこへ行っても仕事だと言ってもな」
「私たちは、家族の選んだ何かが欲しかっただけよ。けれど、ある意味ではとってもすばらしいものを選んだのね!」
親し気にメレディアの手に触れながら、夫人は朗らかに笑う。
「気に入ってもらえてなにより。だがもう夜も遅い。若い女性をそう引き留めては迷惑だろう」
「あら……もうそんなに?」
思わず振り向いた窓の外は、すっかり夕日も沈みかけている。
「外まで送ろう」
馬車を手配し、侍女と共に残った商品をまとめあげたメレディアに、ジェラルドが申し出る。
「とんでもない。お仕事の後でお疲れでしょう」
「たいして疲れる様な仕事でもない」
社交界の付き合いに忙しい父親や長男の代わりに、タウンハウスを取り仕切っているのはジェラルドだと聞いた。自分の仕事を鼻で笑い、皮肉気に唇の端を曲げる。
今の自分が好きではない。そんな雰囲気を読み取り、メレディアはそっと目をそらした。
侍女が荷物をせっせと馬車に運び込む間、しばし、外で佇む。
沈黙をかき消すように、強い風が吹いた。まもなくくる春を呼ぶような、ぬるい、しかし激しい一陣の風だ。
思わず顔を伏せたが、巻き上げられて降りかかるはずの砂も草木も、当たって来ない。ごう、とした音が鳴りやみ見れば、メレディアを守るように囲い込んでいるジェラルドの顔が、すぐ近くに会った。
「あ、ありがとうございます」
その距離に高鳴る心臓をなだめながら礼を言う。だがジェイルは、何も言わず、そして動きもしない。息遣いさえとどきそうなところにある唇は、引き結ばれたままだ。不機嫌とも思えるようなまなざしと共に、メレディアの視線を奪う。
「ジェラルド様……」
息苦しさからあえぐように名を呼ぶ。それにこたえるように、彼の唇が薄く開いた時、
「お嬢様! 準備ができましてございます!」
侍女のドティが、声を張り上げた。
お嬢様、その人はシャルロッテ様のお婿さんになる方ですよ!
聞こえぬ声が聞こえるようで、メレディアの心がちくりと痛む。その痛みが、とある事実を突きつける。
見てはいけない。聞いてもいけない。心の声に耳を傾けるのはよそう。
この人に惹かれる自分の心の言い分を、いますぐ捨ててしまおう。
そうでなければ――これが物語なら、その結末に幸福が訪れることはないのだから。