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メレディアが離縁を求めたあの日、事態は一度、先延ばしにされた。
全てが落ち着いてからにしなさい、という父ゴーシュの助言、というかとりなし、というか、誤魔化しがあり、メレディアも同意したためだ。
それから二週間、メレディアは実家で過ごし、ジェラルドとは一度も会ってない。
家の中はなんとなく沈み、空元気は出してみるけれど、両親も妹も、痛ましそうに半笑いで黙るだけだ。
使用人たちも例外ではない。
自分が原因だろう。
どうしたものか、と悩んでしまう。
「お嬢さん、いらっしゃいましたよ」
一人、全く変わらず接してくれていたファシオが、鼻を鳴らしながら部屋に入ってそう言った。
「どなた?」
「お嬢さんのお待ちかねのかたに決まってます」
「あら、私は誰を待ってたのかしら」
首をかしげると、彼は、深いため息をついた。
「頼みますからお嬢さん、俺たち下のもンが全面的に賛成できる結婚をしてください。
貴族の事情なんて、俺たちには知ったこっちゃないンです。
この家を出たら守ってやれないし、この家にいたって守れないことはあるンスよ?」
おそろしく率直に心配されて、メレディアは動揺する。
上下関係や身分差にうといこの家で、使用人たちはちゃんとわきまえた行動をしていた。
それもこれも、ファシオがまとめてくれているからだ。
歳も変わらないのに、人間が出来ている。
ちょっと粗暴なところ、短気なところはあるけれど、それらはみんな、家人を守るために感情がはしるからだ。
「……ファシオみたいな人と結婚すれば幸せかしら」
思わずそう呟くと、彼は盛大に顔をしかめた。
「そんな嫌がらないでよ!」
「あーあ、まったく、ままならンもんですね!
実家から逃げてきたことを今ほど後悔したことはありませんよ、俺は!」
へえ、家出してきたのか。
実家はどこなのだろう。
漏れ出たファシオの過去をほじくり返そうとしたが、彼は、大きな音でドアを閉めて出て行ってしまった。
そして、そのドアを静かに開けて入って来たのは、ジェラルドだった。
「失礼いたします」
メイドがお茶を出し、退室する。
一応まだ夫婦だから、二人で部屋にこもることはおかしなことじゃない。
それでも、久しぶりに見たジェラルドの生々しい存在に、メレディアはそわそわする。
好きな人と結婚できた人生だ。
儲けものだった。
もう間もなく、縁の切れる人だけれど。
「メレディア」
「あ、はい」
「要件は二つある。まず……シャルロッテのことだ」
盛大に面食らう。
シャルロッテ様?
なぜ今?
「婚前、シャルロッテが君に聞かせた話があるだろう」
少しばかり考えて、はっとする。
同時に、胸がぎゅっと掴まれたように痛んだ。
ここで出る話ならばあれしかない。
ジェラルドとクラリスの関係の話。
その話をするのか、今。
離縁に際して、理由をつけるつもりだろうか。
「あれは、シャルロッテの思い込みだ」
「……はい。……はい?」
そしてメレディアは、夫の実家の秘密を知ることになった。
王家の命を受け、密かに動くのが使命であり、だから、家を継ぐための長男以外は社交を控え、どこの家門にも取り込まれないよう、令嬢たちとはできるだけ接触しない。
ジェラルドは、成長したクラリスの顔を知らなかった、と言う。
「そんな馬鹿な」
「嘘じゃない」
「いえいえ、おかしいでしょう、幼馴染なのに」
「幼い頃を知っていることを幼馴染というならそうだが、実質、私と彼女は、5歳から4,5年ばかりの付き合いでしかない。
それまで彼女は、養子に出されたボンド家の分家にいた。
5歳の時に、さらに別の侯爵家に養子に入り、そこで私やシャルロッテと知り合ったんだ」
確かに、分家にもらわれたと言っていたが、本家である実祖父母の家が伯爵家、その分家程度の爵位では、グランティエール家には釣り合わない。
養子に出て、見合う爵位から嫁に出たに違いなかった。
「だから、俺が、クラリスの代わりに君と結婚したというのは、シャルロッテの思い込みであり、事実ではない」
ではなぜ、と、喉元まで出かかった。
だが、聞いても答えるはずがない。
クラリスの代わりではなく、かつ、彼が王家の影の役割を担っているのなら、後者が理由ということだ。
「次に。まもなく、間諜騒ぎに決着が着く。その際だが、君は、我が実家にいてもらいたい」
「ああ、はい、不在証明ですわね」
「そうだ。あの家ならば、誰も疑いを差し挟まない」
「分かりました」
ジェラルドは立ち上がった。
それからためらったように間を取ってから、
「全てが終わったら、俺たちの話をしよう。
では……後日迎えを寄越す」
そう静かに言って、彼は出て行った。
**************
クラリスは、粗末な貴族服を着て、馬車に乗っている。
とはいえ、肌触りの悪い服を身に着けるのは我慢がならず、粗末に見えるだけで、普段のドレスと価値は変わらない。
舞台女優みたいね。
クラリスはそんなふうに自分を思い描き、くすくすと笑った。
馬車のドアがノックされる。
クラリスは目を閉じ、それから、身分が低かったころの自分を思い出してみた。
「いいわよ、入って」
なかなか上手いんじゃない?
あの女の身分なら、こんな雑な物言いだろう。
するりと、男が入ってくる。
手には、汚れた紙袋を握っていた。
クラリスは、傍らにあった、同じく汚れた紙袋を手に取る。
この手袋は、もう捨てなくちゃ。
そう思いながら、お互いに袋を交換した。
さっと中身を見れば、不揃いな紙幣が入っていた。
きちんとそろえられていないことから、幾分かごまかすつもりがあるのだろう。
けれど、金額などはどうでもいい。
「確かに」
男はそれだけ言うと、素早く馬車を降りた。
が、ステップを降りきったところで、急に立ち止まる。
それから、ゆっくりと両手を上げた。
クラリスは、とうとうか、と思う。
くす、と笑い、それから、男を押しのけるようにして外に出た。
「ジェラルド。迎えに来てくれたのね?」
対峙していたのは、待ち望んだ男の顔だった。
彼は、眉をひそめた。
「……クラリス・グランティエール夫人、あなたに聞かなければならないことがある」
嬉しくなって、クラリスは笑った。
彼が私を見ているわ。
こんなに苦しそうに。
大丈夫、何もかも上手くいくから。
「ええ、分かってるわ。でも、ねえ、ジェラルド?
良かったら二人で話したいわ。
そうでなければ、私は何も話さない。
あなただけとなら、何でも話すのだけれど」
彼の後ろには、数人の男たちが並んでいる。
どうでもいい登場人物には、大切な場面を邪魔されたくない。
彼はしばし迷い、それから、後ろの男と小声で話したのち、近づいてきた。
後ろの男たちが、いまだにホールドアップのまま紙袋をぶら下げている商談相手を拘束し、離れていった。
声が聞こえない距離であると確認し、クラリスは、ぎゅっとジェラルドに抱き着いた。




