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「奥様、旦那様がお戻りでございます」
「あら、こんな時間に?」
まだ夕方の、ようやく涼しくなろうという頃だ。
サマードレスを脱いでいなくて良かった、と、クラリスは玄関ホールへと急いだ。
「お帰りなさいませ!」
「やあクラリス、我が妻よ。今日も美しいな」
夫であるマクシム・グランティエール公爵は、クラリスの頬に軽くキスをして微笑んだ。
年はだいぶ上だが、なんて美しい顔なのかしら、と、彼女は思う。
様々な求婚相手から彼を選び抜いたのは、地位が理由ではあったが、その顔がこの国随一だったことが決定打だった。
誰でもいい、と父は言ったのだ。
そんなわけはないのに。
口だけはいつも耳障りの良いことを言うが、父の本音は、その目に透けて見える。
クラリスは、父の目の表情を見ながら、さも自分の希望のように、父の期待に従ってきた。
だから、結婚相手だって、地位だけで選んだ。
そうするしかなかった。
たまたま、マクシムが美しかったのは、クラリスにとってとてつもない幸運だったと思っている。
例え彼が年寄りでも、醜くても、人には言えない趣味があっても、クラリスは彼を選ぶしかなかっただろうから。
「もうすぐご夕食ですわ」
「ああクラリス、君と晩餐を共にしたいのはやまやまだが、出かけなくてはいけない案件があってね」
「えっ……これからまたお出かけに……?」
思わずそう言うと、マクシムは、口元の笑みはそのままに、すっと目を細めた。
「どうした? 僕の仕事を邪魔する気かい、クラリス?」
「い、いいえ……そんなつもりはなかったわ、ただ、ちょっと、寂しかっただけなの、ええ、それだけ」
慌ててそう言うと、彼は、にっこりと笑った。
「僕の奥さんは可愛らしいことを言う。だけど男には国のためにやらなければいけないことが、たくさんあるんだよ。分かるね?」
「ええ、ええ、もちろん」
「女はいいね、家に閉じこもってのんびり暮らせるんだから。羨ましいよ。
でも僕は、そんな君のためにあくせく働くのが幸せなんだ。
さあ、美味しい夕食を食べておいで。
僕は準備を整えて出よう。
見送りはいらないよ」
もう一度クラリスの頬にキスを落とし、マクシムは足早に執務室へと去った。
残されたクラリスはしばらくぼんやりしていたが、見送り不要と言われたことを思い出し、慌てて食堂へと向かった。
夫が戻ってきてしまえば見送りせざるを得なくなり、そうなればまた言いつけを破ったと怒られる。
マクシムは決して暴力を振るわない。
けれど、執拗にクラリスの失敗を責め、嫌味と愛を交互に吐くあれは、ある種の暴力なのではないかと思っている。
だからと言って、誰に訴えることも出来ないが。
彼がどこに行っているか、クラリスは知っている。
夫は考えもしていないようだが、実家から連れてきた数少ない侍女や従者は、みな普通以上に優秀なのだ。
だから、仕事と偽り、どこで、誰と、何をしているのか、クラリスはみんな知っている。
「平気よ、別に」
子は成さねばならぬ。
その義務は定期的に果たされているのだから、それ以外で何をしても気にしては負けになる。
男なんてみんなそんなものだ。
そのことを、クラリスは幼い頃から知っている。
女をひとくくりに小ばかにされたことにいら立っていたくせに、クラリスはそんなふうに男を分類し、自分を納得させた。
夕食後、侍女のダリアを呼んだ。
そして彼女以外のメイドたちに、
「もう下がっていいわ、あとはダリアにやってもらうから。
今日は衣替えの準備があってみんな忙しかったでしょう?
早めに休むといいわ」
微笑ながら言えば、彼女たちはあからさまに嬉しそうに出て行った。
「……馬鹿な子たち」
主人の世話を面倒だと感じていることを隠せない、そんな質の悪いメイドに呆れるが、一人残ったダリアは、クラリスの髪を手に取りながら、
「私だって休みは大好きですよ」
「そのうちのんびり暮らせるようにしてあげる」
「ありがたいことですね。
それで、かの方が釈放されましたよ」
「なんですって」
さっと振り向いたクラリスの髪が、ダリアの手からするりと落ちる。
無表情のまま、ダリアは再び、クラリスの髪をブラッシングし始めた。
「アリバイ証人は始末したのでしょう?」
「いいえ。警らに金を握らせ、証人たちを解放させました。それきりです」
「どうして!? なぜ殺さなかったの!」
「引き受ける者がいなかったのですよ。
今までは、ノイマールの人間を使っていましたが、彼らはもうほとんどこちらの国には顔を出しません。
戦争の準備は整ったのでしょう」
「それで……どうなったの」
ゆっくりと前を向き、鏡の中の自分を眺める。
見事な金色の髪、赤みがかった瞳。
いつの間にか、その顔が、メレディアの顔に見えてくる。
同じ顔をしているくせに、クラリスよりも自由で、クラリスよりも幸福な女。
そして、ジェラルドと結ばれた女。
握りしめた手のひらに、爪が食い込む。
「それでも、うまいこと逃げ伸びていたのです。
しかし、彼らの首領が、かの方の従者に首をはねられておりました。
その死体から身元が特定され、手下たちに捜査の手が伸びた。
彼らには、かの方が、当国の間諜で始末すべき相手と言っていましたからね。
つまり、自分たちは正義を行ったと信じている。
当然、逃げることで不満が溜まっていたところに取り調べと牢ですからね。
洗いざらい喋ったようです」
「あなたの手落ちよ、そうよね、ダリア」
震える声で、クラリスは言った。
「はい。罰はいかようにも」
その抑揚のない、そして間をおかない返事に、この侍女がこの結末を知っていて手を打たなかったのではないかと感じる。
「嘘をつくのではないわ。お父様と同じ顔をしている。
本音を言わない、心に秘めている者の顔よ。
言いなさい、何が目的なの!」
鏡越し、実家にいた頃からもう十年もついている侍女は、クラリスにだけ分かる微妙な表情をした。
呆れているような、笑っているような。
「潮時、ということです、お嬢様」
「お嬢様なんて呼ばないで!」
「そうでしたね、奥様。もう子供ではない。
だからこそ……引き際は心得なければ」
「黙りなさいダリア、私に指図するんじゃないわよ!」
言われた通りに口を閉じるダリアに、ますます苛立ちが募る。
貴族の妻が、疑いとはいえ、間諜の容疑で牢に入った。
それだけでも大変な醜聞だろう。
けれど、クラリスはそれだけでは満足できない。
もっともっと、あの女を不幸に陥れなければ、自分の幸福を感じられない。
「出かけるわ」
クラリスの言葉に、ダリアはほんの一瞬だけ間をおいて、かしこまりましたと答えた。
少し安っぽい服に着替えて、人払いした廊下をダリアと進む。
そのまま、掃き出し窓から外に出た。
一年前から始まったこの遊びは、クラリスのお気に入りだ。
時に、いけない遊びをし、時に、夫の仕事の邪魔になるような仕掛けをする。
「お待ちしておりました、お嬢様」
「こんばんは、ジェラルド」
黒髪の無表情な男は、ジェラルドによく似ている。
今まで何人も取り換えてきたが、今の男が一番彼に見える。
クラリスは、男のエスコートで馬車に乗り込んだ。
最初はこうして、夫の目を盗んで恋愛気分を楽しむだけだった。
けれどある日、ダリアが、噂を仕入れてきた。
クラリスが時々、夫の書類を盗み見ては邪魔するように流していた情報が、他国に流れていると。
密かに犯人探しが行われているらしい。
もちろんクラリスは疑われない。
だって、何年も家の奥深くに仕舞われている宝石なのだ。
では、誰が疑われるだろう。
その日から、クラリスは、地味に装いつつも、自分の顔を堂々とさらして夜の外出をするようになった。
楽しくて、楽しくて、しょうがなかった。




