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「言ってくださればよかったのに」
リャナザンド家の令嬢、シャルロッテは、らしからぬ気軽さでメレディアの謝罪を受け入れた。深夜に家の中を徘徊するなんて、きっと身分の低さに似つかわしい行為だと呆れているのだろうけれど、とその心中を推し量りながら、重ねて謝罪する。
主は不在だった。ゆえに、ひとまずの謝罪は、主に次いで屋敷を取り仕切る、総領娘のシャルロッテへ、となった。
「ええ、お話は了承しました。たいしたことではないわ。私の胸にとどめておきます」
「寛大なご処置に感謝いたしますわ」
「いいの。あなたの持って来てくれるものは、いつも素敵なものばかりだもの」
自分のしてきた仕事が信頼を勝ち得ていたことに安堵しつつ、メレディアはほっと息をついた。
が、万事抜かりないと噂のシャルロッテ嬢は、目を細めて何かを考えている。首をかしげるメレディアの元に、すっと寄って来た彼女は、有無を言わさず手首をつかんできた。
決して強くはないが、拒否はできないのだから、それで十分な力だ。その手で、袖口を絞って覆い隠している手首をあらわにされる。
「やっぱり。誰にやられたの?」
くっきりとあざになっている。指の形すらそのままに、大きな手の持ち主だとすぐにわかるほどだ。
「ええ、いいえ、そのぅ、わたくしが悪いのです。ですからこれは、正当な」
「誰ですの?」
口をぱくぱくするばかりのメレディアに見切りをつけたのか、彼女はすぐにベルを鳴らして使用人を呼んだ。現れたのは、モーガンと呼ばれていたあの従僕だった。
彼に目配せをして合図をするが、素知らぬ顔だ。そして当然のように主人の命に従い、ゆうべ広間でジェラルドがしたことを残さずきれいに報告した。
「まったく、あの男ときたら」
「あの、シャルロッテ様、かの方はわたくしを賊とお思いになられたのですわ、ええ、誤解でしたけれど、正しい対処だったと」
「ジェラルドを呼びなさい」
ふたりは遠縁なだけあって、血のつながりなのか、人の話をいなして自分の疑問を解決しようとするところはそっくりだ。憂鬱な気持ちでお茶を供されているうちに、控えめなノックと共に執事が来訪を告げた。
「なんだ。朝の稽古をしていたのに」
「なんだじゃないわ、ジェラルドあなた、女性に暴力をふるったわね?」
問い詰めるというほどではないが、はっきりといた物言いで問われたジェラルドは、微かに笑いながらメレディアに流し目をくれた。冷えた青い目が、嘲笑とともに刺さる。
「その女がそう言ったのか?」
「いいえ」
シャルロッテはその言葉さえ予想していたのか、ジェラルドの言葉が終わるか終わらぬかのうちに、メレディアの手を取りその袖をまくりあげた。
あらわれたあざに、ジェラルドが目を見開く。薄笑いは消え、眉を顰める。
「そんなばかな。ちょっと押さえつけただけだ」
「馬鹿ねぇあなた、自分の頑丈な体と、箱入りの貴族のお嬢さんを一緒にしたの? あなたの馬鹿みたいに蓄えている体力で握ったらそうなるに決まっているのよ。年若い女の体に痕を残すなんて、恥知らずもいいところね」
シャルロッテは賢く聡い女子ではあるが、途中まで市井育ちだったメレディアには、なにやらとんでもない誤解を生みそうに聞こえるものの言い方をして平気なあたり、まだまだ子どものようだ。とはいえ、学舎を卒業し、十七のデビューをもうすぐ控えているにしては、大人の振る舞いでもある。二十歳をとうにこえたメレディアには眩しいその態度に、ジェラルドもややうろたえたように見えた。
「侵入者に対して我が家の利益を守ろうとしてくれたことには、感謝するわ。けれど、相手は女性とすぐ分かったはず。しかも結果は誤解だった。双方に問題はあれど、私の中ではややあなたの分が悪いわ、ジェラルド」
「悪かった」
シャルロッテの言い分を認めたのか、短いながら謝罪をされる。
「いいえ、わたくしの振る舞いが原因ですもの、仕方ありません。謝ってくださる紳士な誠実さに感謝いたしますわ」
メレディアは目でシャルロッテに感謝をしつつそう受け、すぐに、
「大変な失礼をしてしまいましたが、お許し下さる寛大さにいずれお詫びを改めて。本日はこれにてお暇したいと思います」
そう言うと、シャルロッテはそれを受け入れた。
後ろに控えていた侍女と共に、部屋へ戻って荷物をまとめ、それから執事の見送りで屋敷を辞そうとしたとき、馬車に寄りかかっているジェラルドに気づいた。
「まあ。お見送りですの?」
「ある種そうだ。しかし、まずはそなたの怪我についての補償について話したい」
「補償? いいえ、そんな必要はございません」
「そうはいかない」
「……困りますわ」
ジェラルドの不審そうな顔に、正直に理由を述べる。
「何かを頂いたりすれば、父に理由を問われます。理由を話せば、叱られてしまうわ」
その途端、彼はくすりと笑った。かすかに目元が緩み、引き締まった唇が優しいカーブを描く。普段の冷ややかさとは対照的なその表情に、思わず目を丸くした。
「いい年をして、子供のような理由だ」
「いい年というのは余計です。子供にとって、父親とはいつでも怖いものですわ」
「さて、シャルロッテはそうでもなさそうだが」
「リャナザンド侯爵様は特別です。あんなに穏やかで優しい父親なんて、シャルロッテ様が羨ましいわ」
「まあそう……候は特別だ」
「うちの父は普通です。普通に叱ります。ああでも、年相応の罰というものを知らないのですわ。平気で、一か月の外出禁止を言い渡したりしますの。
リャナザンド家の屋敷で夜中にうろついていたなんて知られたら……」
恐ろしい想像に身を震わせるシャルロッテに、ジェラルドはまだ笑みを残したままの顔で提案をした。
「ならば……当家の女性陣につなぎをとろう」
「あら……あら、まあ、本当ですの?」
「ああ、確かそなたの家は、化粧品や装飾品を扱っていたな」
「ええ、外国製の珍しい物から、古くて歴史のあるものまで。リャナザンド子爵様の奥様もお嬢様がたもみな、美しくて有名でいらっしゃるわ。うちの品を使っていただければ、格が上がるというものです」
「さて美しさの評価は俺の範疇ではないが、喜んでもらえてなによりだ」
いずれまた連絡を、という言葉と共に、彼は身を起こし、たった今寄りかかっていた馬車の扉を開けた。メレディアの手を取り、馬車に乗るのを支えると、何を思ったかそのまま指先に軽く、唇を触れた。パートナーでもない親しくもない女性への行為としては、いささか度を越している。
だが彼は、強く握った手首があざになることさえ知らなかった。髪の色になぞらえ、人嫌いの黒、とまで呼ばれた彼のこと、女性の扱いを知らないのかもしれない。
固まるメレディアをしり目に、それを別れの挨拶としたジェラルドは何事もなかったかのように去った。
「お嬢様」
馬車の中で、侍女が呆れたように呼び掛けてくるまで、ぼんやりしていたらしい。はっとする。
「な、なぁに、ドティ」
「いけませんよ」
「なにが?」
「あの方は、いずれシャルロッテ様のお婿さんになるかたですよ? 駄目ですからね?」
冷や水を浴びせられたように、指先のぬくもりがいっぺんに消えた。
リャナザンド侯爵には、一人娘のシャルロッテしかいない。在学中に婿入り可能な婚約者が出来れば迎え入れるつもりだった侯爵も、それがかなわなかった場合、血縁のどこかから跡取りを迎えるという話をどこかでしていた。はっきりとは言わなかったが、周囲が取りざたする中で、血がある程度遠くかつ年齢的に釣り合うのは、ジェラルドだけだ。
「そんなつもりないわよ、ていうかそんな気もないわよ」
「そうですかねぇ」
「ないってば、だって、すごい人嫌いで女嫌いっていうじゃない、私そういうの無理」
ドティは侍女らしからぬ親しさで、顎に指先をあててふうん、という。もう四十を越えているドティは、かれこれ十年はメレディアに仕えてくれている。父が爵位を賜ったころからだから、最初から当たりの侍女だったということだろう。
長い付き合いの彼女は、
「でもお嬢様、かの方は噂よりもずっと、なんだか怖くなかったですねぇ」
とずけずけジェラルドを評した。
確かに、と思う。数回見かけた夜会でも、また人々の噂でも、彼は嘲り以外の笑いを知らぬ人を寄せ付けない鉄壁の壁を築いていると評判だったが、実際に話してみて、そればかりではないと知った。最初こそ、ひどく軽蔑した眼差しだったけれど。
ほんの微かな笑みは優しかった。触れんばかりの距離で見つめた青い目は、メレディアのどこに届いたのだろう。探して捨ててしまわなければ。すっかり心奪われてしまう前に。