17
サムソンの手が、胸元のボタンに触れた。
ぞっとする。
これ以上はダメだ。
メレディアは、右手を上向け、魔力を溜める。そして──。
「何をしているの?」
え?
いつの間にか、サムソンの後方に人がいた。ドアは閉まったままだ。
サムソンも慌てて振り向き、動揺している。
黙っている二人にじれた様子もなく、その人は言葉をつづけた。
「何しているのかなって」
入り口近くはやはり、蝋燭の光も届かず、誰だか分からない。だが、聞いたことのない声だ。
「な、なんだお前!出ていけ!ここは犯罪者の牢だぞ!」
その時、扉の向こうから、慌てたような足音が聞こえ、やがてがちゃりと開いた。
「ここ! ここですね!? あ、いた! 勝手に移動されては困ります!」
言いながら入って来たのは、燭台を手にした文官らしき男だ。眼鏡をかけた三十代ばかりの、やはり見たことのない顔。
「なん、……え、ロッソ様……!」
サムソンが驚いたように名を呼ぶ。呼ばれた文官は、
「ああ、お前は……誰でしたっけ。記録係の官吏ですね?」
「は、はい」
「そいつ、お嬢さんを殴っていたよ」
薄暗がりから、のんびりとそう言ったのは、最初にいた男だ。それを聞き、ロッソと呼ばれた文官は、顔を厳しくした。
「なんですって? 本当ですか、お前。そもそも、なぜここに? 単独での面会は許されていないはずですが?」
「い、いえ、私はただ、様子を見に来ただけで! 殴ったなど、ありえません!」
サムソンが焦ったように否定するところを見ると、ロッソの地位はかなり高いのだろう。
「ふうん。僕が嘘を言ってるって、お前はそう言ってるの?」
最初の男が楽し気に言う。
「どちら様か存じませんが、何かの見間違いでは」
「へえ、僕が間違ってるって? だってよ、ロッソ。どう思う?」
ロッソは小さく息をつき、
「ええ、嘘かどうか、お嬢様の体を検診いたしましょう。殴られたあとのひとつでもあれば、侮辱罪でぶちこみましょう、それでいいですね──殿下」
はっとする。
サムソンもまた、体を震わせた。
顔は見えないが、ロッソが敬った態度を崩さず、殿下と呼ぶのであれば、相手は王族である。
こんなところに来るはずもないと思っても、その疑いさえ罪だ。
「そんな馬鹿な、こんなところに……!
いや、ちが……申し訳ありません、そういうつもりではなかったのです、私はただ……ただこの犯罪者を罰しただけなのです!
どうかお許しを!」
床に額づき叫ぶサムソンを、殿下と呼ばれた男はくすくす笑った。
「ロッソ、連れて行って」
「は、しかし……殿下は」
「お嬢さんの怪我を治してから行くよ」
言っても無駄、と思ったのか、ロッソはサムソンを連れて出て行った。
土下座の際に床に放置された手燭が、近づいてくる男の顔を照らす。
「大丈夫かい?遠くから不穏な声が聞こえてさ。それで……」
お互いの顔がはっきりと見える距離で、男は唐突に言葉を止めた。
浮かび上がった顔は、驚きを示している。
メレディアもまた、驚いていた。
その髪。
その瞳。
メレディアと全く同じ色をもった男は、蝋燭の明かりの中、目を見開いている。
メレディアの身柄は、最初の取調べの部屋に移された。
例え鉄格子のはまった狭い窓でも、あるとないとでは大違いなのだ、と実感する。
殿下と呼ばれた男は、ロッソと侍女らしき女性たちが持ち込んできたティーセットで、なぜか手づからお茶を淹れていた。
「どうぞ」
「……恐れ多いことでございます」
立ち上がることも許されず、椅子に座ったまま、差し出された華奢なカップを受け取る。高名な職人が絵付けした、有名な工房の逸品だ。うっかり落とせば、馬の一頭も売り払わなければならないだろう。
ノックが鳴った。
「入れ」
殿下の声でドアを押し開いたのは、セラヴィ老だ。汗をかいている。
「おお……ラインハルト殿下……」
臣下の礼をとり、深く頭を下げる。
ラインハルトというのか。メレディアは戸惑うばかりだ。
セラヴィの態度は、彼が本物の王族だと言うことを示している。
だが、メレディアは彼の存在を知らなかった。顔どころか、名前も聞いたことがない。
若く見えるが、四十手前というところだろう。
「顔上げていいよ。……で?」
「は」
「次に、お前は何をするべきだと思う?」
セラヴィは、すぐにメレディアの方を向いて、祈りの仕草をした。神に捧げる場合を除き、その仕草は最大級の謝罪を示す。
「まことに申し訳のないことでございます。まさか、サムソンがあのような暴挙に出るとは」
「違うよね?」
ラインハルトが気軽に遮る。セラヴィは黙り込んだ。
「取り調べの様子と、普段の行動から、お前はあいつが彼女の独房に入り込むことは分かっていたはずだ。分かっていて放置したんだよ。
そのほうが……都合がいいからね」
「……まことに……まことに申し訳も……」
「クズだね、お前は」
老人は、かっと目を見開いた。
「お言葉でございますが、私は国のことを思って……!」
「じゃあ、浅はか、だ」
ぶるぶる震える老人に、ラインハルトは容赦がない。
「お嬢さん、なぜ浅はかなのか、分かる?」
「私の考えなど殿下に及ぶものではございません」
「私の考えとやらでいいよ」
メレディアはため息をこらえ、セラヴィを見ないようにしつつ、
「辱めをうけた私が、心を病み、冤罪を受け入れざるを得ない状況になることを期待したのでしょう。
そうすれば、この一件は解決です。見た目上は。
しかしどうでしょう、その裏では、本当の裏切り者が祖国の情報を売り渡し続けることになる。
いずれその小さなほころびが、大きな亀裂となって我が国を崩壊させるかもしれない」
出来るだけ感情をこめずに言った。
セラヴィは聞き終わると、俯き、それから、ラインハルトとメレディアを注意深く交互に見た。
「まさか本当に……冤罪だと? しかし……しかし、私とて決して意図して犯罪を押し付けようとしたわけではない。
私自身が見たのです。あなたが……間諜と情報をやりとりしている場面を。
ああ、けれど……気づかなかった。なんという……その髪、その目……」
呆然とするセラヴィに促されたように、メレディアはラインハルトと目を合わせた。
長ずるにつれて薄くなった髪色は、色を変え、今ではもう類を見ないプラチナの白。次第に色味を強めた目は、ふたつとないようなルビーの赤。
国民の知らない王族の一人と、メレディアのそれらは、全く同じ色だった。
しばし見つめ合う。
セラヴィも、口をつぐんだ。
聞くべきか聞かざるべきか。悩んだメレディアは、結局のところ、誰もが口に出せずにいることを聞けるのは、自分しかいないだろうと諦めた。
「あなたですか? 私の……実母に、無体を働き、死に至らしめたのは」
不敬と承知で言った。
切り殺されてもおかしくない暴言だ。
しかし、ラインハルトは怒るどころか、ひどく驚いた顔をした。
なぜ驚く?
養父母から聞いた、実母の事情はひどいものだった。無理やりに散らされ、心を病んだ。今思えば、抵抗も抗議も無意味だったのだろうと思われる。
なにせ相手が、王族なのだから。
その時だ。
廊下の奥から騒ぎが近づいてきて、そのざわめきがドアを押し開く。
怒れる様相で入って来たのは、ジェラルドだった。