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「ノイマールへ?」
仕入れのために出国する、と伝えた時、ジェラルドの反応はなぜか鋭かった。
メレディアの仕事は小売りではない、どちらかといえば仕入れのほうが重要だ。もちろん、数人のバイヤーを抱えてはいるが、最終的に判断するのはメレディアだし、それよりも自分が外国を飛び回って集めた商品のほうがずっと多い。
ジェラルドはそれを知っているはずだし、だから、許可を取るというよりは報告のつもりだった。
「ええ……来週から二十日ほど」
「駄目だ」
思わず体を引いた。
「なんですって?」
「駄目だと言ったんだ」
どういうつもりだろう。
疑念よりも先に、不快さを覚える。
「なぜでしょう」
一応、理由を問う。
反射的に怒りがわいたものの、ジェラルドがこんな理不尽を言うような人間ではないとも思う。きっとなにか理由があるのだろう。
だが、返って来たのは、メレディアを失望させる言葉だった。
「外国へ行ってはならない」
仕事を続けてもいい、という約束だった。
だから当然、結婚前の仕事内容を引き続き全て行えると思っていた。
認識が違ったということだろうか。
「……出国を禁じるということは、私の仕事を否定することと同じです。
お客様相手ににこにこしているだけが私のやるべきことではありません。
私を馬鹿にしていますか?」
今までにない、強い表現を使う。
ジェラルドは、驚いたようにメレディアを見た。
婚約以来、こちらがあらゆることをただ黙って受け入れてきたことに、今気づいたような顔だ。
彼は目をそらし、それからしばらく黙ったのち、
「……お互い少し、このことについて考えよう」
と言った。
メレディアの返事は決まっている。
「……はい、旦那様」
あらゆる罵倒を飲み込み、今まで通りにそう答えた。
ジェラルドは目をそらしたままだった。
数日後、メレディアは執務室に呼ばれた。
向かう途中、廊下を歩きながら、
「まあ、お嬢様、手がお冷えではありませんか」
実家からついてきたドティは、白くなった指先を両手で包んで眉を寄せた。
「奥様、でしょう?」
「ちゃんとした意味で奥様になりましたら、そうお呼びしますとも」
歯をむき出して、彼女は呟く。
メレディアは笑ってしまった。
本当の意味で夫婦になっていないことは、寝室を整えているドティに知られていて当たり前だ。そして、彼女はそのことを、メレディアが不当に扱われているのだと怒っているのだ。
まあそうだろうな、と思う。
メレディア自身も、姉や妹がこんな扱いを受けていたら、真っ先に乗り込んで連れ帰るだろう。
でも、違う。
自分は最初から知っていた。
これは、初めから、仮初めの婚姻だと決まっていたのだ。
それでも良かった。
自分は恋した相手と暮らし、相手は恋したひととそっくりな自分と暮らす。
まるで愛のようなものと錯覚しながら。
ドティのおかげで、緊張がほどけ、いつも通りのメレディアで執務室の扉をノックした。
中にはジェラルドだけがいて、ドティも退室していく。
「……買い付けの件だが」
「はい」
「反対したことは忘れてくれ。
自由に行ってくるがいい」
「分かりました」
ありがとうございます、と出かかった言葉を、何か違うなとやめた。
「いつからだった」
「五日後です」
「分かった」
それ以上何も言わない彼に、こちらも何も言うことはなく、メレディアは退室した。
ただなぜか、彼が何か言いたげなような気がした。
ドアが閉まるまで、じっとこちらを見る目に、不思議なものを感じる。
それが何かは、分からなかった。
その三日後。
メレディアは、リャナザンド子爵家の居間にいた。
つまり義理の実家である。
義理の母となった夫人の横には、珍しく子爵もいて、笑顔で迎えてくれる。
まったく、あのジェラルドの無表情さはどこから来たものだろうか?
穏やかな空気に包まれながら、メレディアはテーブルにいくつかの品を並べた。
「お義姉さま」
息を弾ませて入って来たのは、末娘のエステルだ。
今日は、彼女のための外商だった。
「こんにちはエステル様、まあ、また背が伸びましたね」
彼女ははにかんだように笑う。
「お義姉様、エステルと呼んでくれる約束です!」
「そうでしたわね。エステル、さあどうぞ、ご覧になってください。お好みのものを何種類か選んでいただければ、似たものをさらに出しましょう」
並べられているのは、乗馬用の手袋だ。
エステルは心配になるほど大人しい子だが、趣味は読書と、そして乗馬だった。おそらく、従姉妹のシャルロッテの影響だろうと睨んでいる。
今度、馬術大会に出るらしい。
といってもまだ三カ月も先だが、今から手袋を新調し、当日に合わせて慣らしていくそうだ。
本気じゃないの、と、メレディアは微笑ましく思う。
「わあ……どれも素敵……」
危険ではないように丸く磨いた小さな宝石を縫い付けたもの、袖口にレースをあしらったもの、はたまた、可愛らしい花模様を焼きつけたもの。
あれやこれやと目移りしている様子も可愛らしい。
夫妻も、そんな娘の様子をにこにこ眺めている。
ゆっくり選んでね、と言っていると、侍女が小さくノックをした。
姉のサラが帰って来たらしい。
その先ぶれが終わるか終わらないかのうちに、
「ただいま!」
という明るい声とともに、彼女が入って来た。
部屋の雰囲気がぱっと華やぐ。まだ少女めいたところはあるが、将来きっと、とんでもない美人になるわ、とメレディアは感心する。
そのサラは、メレディアを目にしたとたん、驚いた声をあげた。
「騒々しい子ねえ、おまけにはしたない」
「だって! ええ!?」
本気で混乱している彼女に、全員が首を傾げる。
「どうしたっていうの?」
「私、ついさっき、アガサ通りでお義姉様を見かけたんだもの!」
サラは今日、教会に寄付に行っていたらしい。
そこから馬車で大通りを通って来たとするなら、途中にあるアガサ通りを横切ることになる。
ここからほんの数分だ。
「見間違いでしょ、全く、おっちょこちょいなのだから」
「嘘じゃないわよ、だって、隣にお兄様もいたもの!」
あ。
一瞬で分かった。
ジェラルドと一緒にいた、メレディアではないメレディアとは誰か。
ほとんど同じタイミングで、子爵の顔がこわばるのを見た。
義理の父親であるこの人は、息子が今、この時、誰といるのかに気づいたのではないか?
いやもしかしたら……知っていた、のだろうか。
分からない。
メレディアを今日ここに呼んだのは、子爵なのだから。
「サラ、大声をあげて騒ぐのはやめなさい。
まず身なりを整えておいで」
やや硬い声で、彼は娘にそう言った。
「はあい」
不満げながら、親の言うことをよく聞く彼女は、素直に退室していった。
メレディアは、何がなんだか分かっていないエステルがこちらを見たので、自然に微笑んでみせた。
「おかしな見間違いもあるものですわね?」
面白そうに言うと、エステルもくすっと笑った。
明るく元気だけれど、どこかおっちょこちょいな姉。またきっと、おかしな見間違いをしたのだ。困ったお姉さん。
そんな微笑みだ。
笑い合いながらまた、メレディアは彼女に新しい手袋を出して見せた。何度も手に取っていた、レース付きの別パターンだ。
すぐに彼女は、熱心に先のものと見比べ始め、メレディアはレースの仕様を説明する。
部屋の空気は穏やかなものになり、こわばった子爵の顔も元に戻った。
メレディアの仕事は、客相手ににこにこするだけではない。
もちろん、にこにこするのも、仕事だった。
その翌々日、メレディアは、一転して出国を認めたジェラルドに見送られ、隣国へと出かけた。