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なぜ、と問われれば、見たかったから、としか言いようがない。
外の雨音にまぎれるように、メレディアは足音を忍ばせて、明かりをぎりぎりまで落とした廊下を歩いている。こんな機会はめったいにないのだから、と自分に言い訳をしながら、後ろめたい思いを心の後ろに押し込んだ。
さすがはリャナザンド侯爵家といおうか、敷かれた絨毯は分厚く、それは雨音と共に足音を消してくれるのに重宝した。
「そんなつもりじゃ、ないだろうけど……」
意図せず味方になってくれた絨毯に呟きかけながら、目的のドアの前に立つ。なんとなく周囲を見回してから、メレディアはその中に滑り込んだ。
そして気づく。
「暗いじゃないの……!」
気づいてしかるべきだった。人の通る可能性がある廊下があれほど暗いのだ、ならば、人の入る道理がないこの大きなダンスホールなど、暗くて当たり前だ。
やはり冷静ではなかったらしい。この程度のことに思い当たらないなんて、相当浮かれていたのだ、自分は。
ゆるく首を振り、仕方なく、自分にあてがわれた寝室へ帰ろうとした。
ふ、と風が通る。
危険を感じた時にはもう、メレディアは両手をまとめて戒められ、背中に冷たい壁を感じる位置で拘束されていた。頭上に縫い留められた両腕の隙間から、目の前の男が見える。ほの暗い景色の中に一層沈むような、黒。
「何者だ?」
放たれた声は低く、すぐ近くにあるメレディアの唇を震わせるかのようだ。
「あの……」
「こんな夜中に、こそこそ出歩く淑女など聞いたことがない。どこの侍女だ?」
「いいえ、その、私は」
「目的はなんだ。窃盗か。お前の主人にも知らせねばならん」
きりきりと締めあげられた手首が痛み、さらにはこちらの言葉を全く聞く様子のない男に苛立ってしまったメレディアは、生来の気の強さで思わず、
「あなた少し口を閉じたら? おしゃべりな男ね」
と、言い放ってしまった。
男が驚いたように、そして呆れたように表情を変えていくのが分かった。目が暗闇に慣れて来たのだろう。ほんの少しの光源を頼りに、目が順応し、男の姿を浮かび上がらせていく。
「他家のものを盗むほど困ってないわ。私はただ、天井が見たかっただけ」
「天井?」
「手を放して。痛いわ」
「ああ、天井画か」
「放してったら、痛いってば!」
「名は?」
「メレディア・シェルライン」
「シェルライン男爵の末娘か」
「まあ。ご存知でしたの? 光栄の至りですわ、ジェラルド・リャナザンド様」
メレディアの家は、名前こそ貴族のくくりだが、実情はほぼ商人だ。成金が低位の爵位をかろうじてもらった、という程度でしかない。
かたや、リャナザンド家はその一族がほぼ高位の貴族であり、実際この豪奢できらびやかなダンスホールをもつ屋敷も、リャナザンド侯爵家の本邸だった。姿が見えるようになって気づいたが、目の前の男は、その傍家の息子だった。それでも父親は子爵の爵位を与えられている。
彼は、こちらの顔を確かめようというのか、瞳を覗き込んでくる。勢い、見返すその目は、鮮やかな青をしている。短めの黒髪とは対照的な透明感は、アンバランスでもありミステリアスでもある。しかし、顔立ちだけならば美しいと評される彼が、女達に敬遠されている理由もまた、その目だった。
人を見下すような、冷ややかな目。誰も寄せ付けようとしない、人嫌い。
突然に拘束され、縮み上がった心臓がようやく落ち着きを取り戻してきた。
「申し訳ありません。生意気な物言いをしてしまいました。けれどどうか、手をお放しになって。逃げませんから」
「本当か?」
「ええ、あなたの前で嘘はつけませんわ」
微かに笑った気配がした。馬鹿にするような笑いだ。それでも、彼は手を放した。さしあげられきつく留めつけられていた腕に、血が通い、しびれるような感覚がある。それをこらえて、メレディアは簡素ながら淑女の礼をとった。
「嘘はつかぬと言ったはずだ。本当のことを言え」
「……あの、本当ですわ。本当に天井画を」
「この暗闇で何を見ようというのだ」
「ですから……考えが足りなかったのです。ええ、今考えれば暗くて当たり前なのですが、めったにないチャンスと思って浮かれてしまったのですわ」
すっかり表情まで見えるようになった彼は、疑うように、また訝しむように眉をひそめる。
メレディアは苦々しい気持ちで、しかしそれを顔には出さぬよう、
「ジェラルド様も御存じでしょうが、我が家はリャナザンド侯爵様の夜会に招かれるような家柄ではありませんの。今日は、伯のお嬢様のためのお届け物をお持ちしたところ、たまたま豪雨に巻き込まれ、帰れなくなったのですわ。お嬢様のお気遣いで一室を一晩、お貸しいただけました」
「なるほど。それで、めったにないチャンス、か」
家柄にこだわりなどない。だが、いくらメレディアが拘らずとも、周囲はそれを許さない。かろうじて招かれるお茶会や、みなが押し寄せる大規模な夜会でも、肩身の狭い思いをしていた。
それでも出席しないわけにはいかない。ほとんどの貴族はシェルライン家の上客であり、さらにはメレディア自身の婚期も期限が切れそうになっている。あらゆる顔をつないで家を残すのが、メレディアの使命だった。
「ええ。馬鹿でしたわ。浅はかな期待でした。許可をとらなかったことも反省しています。明日、お嬢様を通して謝罪をいたします」
出入り禁止になるだろうけれど、と心中落ち込みつつ、
「恐れながら、誤解はとけたものと存じます。部屋へ戻ってもよろしいでしょうか」
痛みの残る手首をそっとさすりながら申し出た。男は黙っている。
「あの……」
「殊勝な態度だが、当初の生意気な啖呵を聞いた身では、猫をかぶっているようにしか見えんな」
ぐっと詰まる。思わずにらみつけそうになったが、ぎりぎりで我慢する。いや、したはずだ。しかし男は、明らかに笑った気配を纏う。さきほどの嘲笑とは違う、軽やかな笑いだった。
「見せてやろう」
「え?」
「見たいんだろう?」
いかめしい言葉遣いを崩し、男は大胆にも大きく正面扉をあけ、短く口笛を吹いた。どこからか現れた従僕らしいお仕着せの老人に、彼はなにやらを指示する。と、しばらくして、壁沿いに据え付けられた照明が一斉に点灯し、広間を明るく照らした。
きっと、非常時のためにどこかに魔力を貯めてあるのだろう。そうでなければ、夜会の予定のない広間に割く魔力など、普通はすぐには使えない。もしかしたら、純度の高い魔石がストックしてあるのかもしれない。
驚くメレディアの前で、すっかり姿を現したジェラルド・リャナザンドは、夜更けだからか、くたびれたシャツのボタンをいくつか開けた格好で、しかし顔だけは隙のない冷ややかさをもってこちらを見ている。
その手が差し出される。
「え?」
「そこからでは見えない。こちらへ」
「顔と仕草のギャップがすごい」
「なに?」
「いえ、なんでも」
これも装飾のほとんどない街着を着たメレディアと、だらしない格好のジェラルドで、さまにならないエスコートが始まる。
手を引いて連れて行かれたのは、ちょうど中央だ。よほどの地位でなければここに出て踊れないだろう位置で、彼の指が天井をむく動きにつられて、頭上を見上げた。
息をのむ、とはこのことだろう。花と天使と大天使が、メレディアに手を差し伸べている。それは絵だ。しかし、錯覚を利用した作画が施されたそれは、まるで彫刻がいっぱいになされているように立体的だった。彩色も美しく、類を見ないほど鮮やかに目に飛び込んでくる。本物の花が降り注いでくるような感覚に陥り、めまいさえするようだ。
「この場所に立たねば見えぬ。俺も滅多に見たことはない。いい機会、だったな?」
メレディアの物言いを引用して、皮肉気に彼は言う。しかし、それさえ気にならないほど、魅せられてしまったメレディアは、ええ、とただ頷いた。
そうして、ふうとため息をついた。
「ありがとうございます、一生一度の経験をさせていただきましたわ。本当に感謝いたします」
「もういいのか」
「ええ、時間も時間です、家人の皆様にもご迷惑をおかけしてしまって……」
二人ほど、あらたに増えた使用人に目をやり、それから、ジェラルドに対して膝を折る。
「モーガン、送ってやれ」
「かしこまりましてございます。ではお嬢様、こちらへ」
付き添いなどいらなかったが、メレディアは高貴なしきたりに従って、おとなしく部屋へ送られて戻った。
従僕がいなくなると、隣の部屋で寝ているだろう自分の侍女に気づかれないように、しかし喜びを隠しきれずにベッドに飛び込んだ。柔らかなベッドカバーに頬を寄せながら、メレディアは微笑む。
いいものを見た。
しかしなぜか、眠りに落ちる瞬間に脳裏に浮かんだのは、天井画の天使ではなく冷ややかな青い瞳だった。