日常
「教科書は四十三ページ」
ゴールデンウィークが開けて、久々の授業だ。この時間は英語だけど、英語という一つの教科だけでも文法、会話、総合的な授業と様々に分かれていて、それぞれ別に授業時間が設定されている。今は文法の授業中だ。
どの科目も進度は速く、最高レベルの教科書を使用しているらしい。中学時代のエリートばかりが集まるこの高校だけど、そんな授業に付いていくのは簡単なことじゃない。予習復習は当たり前だ。
「連休中にやっておけと言った比較の問題だ。じゃあ、適当に指すぞー」
しまった。一応問題は解いてあるけど、比較は私が特に苦手としているところ。指名制度になるなら玲奈と答え合わせをしておくべきだった。どうか、当てられませんように。
当てられた子は、どの子も正解している。皆の答えを聞きながら自分の解答で間違っているところを見つけると、恥ずかしさが込み上げてきた。もう既に差をつけられてしまっていたらどうしよう。
「優秀優秀。で、最後の問題だな。大学入試レベルだがまあ出来るはずだ。じゃあこれは……」
出来るはず、なんて、そんな。全然分からなかったのに。これを当てられたら、本当にまずい。
神様……!
「立原! どうだ?」
当てられたのは、私のすぐ後ろの恭平だった。危ないところを何とか回避出来て、心底安心する。
「へ? えっと……ア、あわーにゅーかー……?」
自身なげに、恭平の声はだんだん小さくなっていく。終いには、答えを言いきる前に消えてしまった。
「どうした? ちゃんとやってきたのか?」
「いやぁ……やったんすけどね、一応。ははっ」
頭を掻いておちゃらける恭平に、教室が笑いに包まれる。答えの分からない私は笑うに笑えず、ハラハラとしていた。だって恭平が答えられなかったということは、また誰かが指名されるかもってことだったから。
でも先生は、指名ではなく挙手を促した。
「じゃ、分かる奴は?」
先生の言葉を受け真っ先に手を挙げたのは、相沢くんだった。
「はい、相沢」
「Our new car is almost half the size of conventional ones.」
まるでネイティヴのように、流暢に相沢くんは答えを口にした。クラスの皆が一瞬、呆気にとられる。先生は満足そうに頷いた。
かくいう私はといえば感情が昂ぶって、思わず口許を手で押さえてしまっていた。
皆、これが相沢くんだよ。これが、私の好きな人なの。凄く、凄く素敵でしょう? こんなにかっこいい人、他にいるかしら!
「正解だ」
「先生。授業中なんですから、生徒にふざけさせないようにして下さいませんか?」
恭平に視線を送ってから、相沢くんが言う。有無を言わせぬ圧力のあるその発言に、先生はたじろぎつつ頭を縦に動かした。ハッとして私も、緩めていた頬を引き締める。再び教科書に目を落とした相沢くんに、恭平が小さく舌打ちをした。
「んだよあいつ……!」
「恭平、静かに」
「してるだろうが、馬鹿春花っ」
「馬鹿って何……!?」
睨んでくる恭平に腹が立って、振り返っていた体を前に向き直す。黒板を見て、書きなぐるように文字を写した。
恭平の奴、本当に嫌になる。玲奈や他の女の子には優しいくせに、私には暴言ばかりなんだから。
その後授業が終わって、昼休みとなった。いつものように相沢くんがお弁当袋らしき巾着を持って教室を出ていったところで、恭平が暴れ出す。
「相沢の奴! すっげぇムカつく!」
「ちょっとやめなよ、恭平!」
「同感だわ」
そう言って私の机にお弁当箱を置き恭平を見るのは、玲奈だ。
「玲奈!」
「立原くん、全面的に賛同するわ。何なのよあいつ」
「宮部さんもそう思うよな!? 一々鼻に付くんだよあいつの言動!」
思わぬ援軍に恭平が勢いづく。それはいつの間にか周りの子たちにまで伝染していった。
「俺もそう思う。何か偉そうだよな」
「私も! 同級生なのに上から目線で物言うし」
「絶対俺たちのこと見下してるよな!」
恭平や玲奈だけならまだしも、皆にまで口々に言われてしまうと否定も追いつかない。私は、ただ呆然とするしかなかった。
何で。何で皆、相沢くんを否定するの。
「そ、そんなぁ……」
「分かった、春花?」
玲奈が私を指差して言う。
「あんたが異端なの。皆、相沢を嫌ってるのよ」
「う、嘘だよ! 嫌ってない子だっている!」
「ええいるかもね。春花とか春花とか」
「嫌だなもう、玲奈ってば!」
「……褒めてないわよ」
頬に両手を添えて言った私を、玲奈がげんなりとした様子で見る。私は慌てて、手を膝の上に置き直した。
でも本当に、相沢くんを庇う声をあげる子は誰もいない。せめて一人くらい、相沢くんを分かってくれる子がいると思ったのに。私の味方は、やっぱりいないのかな。
その時だった。
「俺は嫌いじゃないけどなー!」
大きな声であっけらかんとそう言い放ったのは、野際くんだった。
「の、野際くん!」
「うおっ、どうしたの高倉さん。目輝かせて」
「良! 何であんな奴庇うんだよ! お前はあいつにムカつかねぇのか?」
恭平に詰め寄られても、野際くんは全く動じない。満面の笑みで周りの子たちを見ていた。
「だって相沢、言いたいことははっきり言うだろ? 何か自分に素直に生きてるって感じがして、俺は好きだけどなぁ!」
「野際くん、それたぶんちょっと違う……」
「え、違うの宮部さん!? どこが!?」
「宮部さん、良の話なんて真に受けなくて良いから。こいつ馬鹿だし、見当外れなことしか言わねぇもん」
「おい恭平! 宮部さんの前で馬鹿って言うなって!」
三人のやり取りに失笑して、皆が元に戻っていく。私は予想外だった味方の登場に、内心飛び上がって喜んでいた。
野際くん、貴方は正しい。正しいよ。相沢くんは自分に素直なの。物怖じなんて全くしなくてかっこいいの。議論している時の相沢くんなんか見てみてよ、絶対好きになっちゃうんだから!
「……春花ってば。なに笑ってるの?」
「え!? わ、笑ってないよ?」
「宮部さん、こいつも馬鹿だから。春花と良なんて相手にしなくていい」
「ちょっ、恭平! なにその言い方!」
「そうだよ! 本当に宮部さんが俺の相手してくれなくなったらどうするんだよ!」
私と野際くんの抗議に、恭平と玲奈は揃って肩を竦めていた。
いいもん。私には味方になってくれる子がいるって、分かったんだから。それだけで充分なんだから!
「野際くん!」
「え、ちょっ、高倉さん!?」
野際くんの手を両手でがっしりと握ると、彼は目を丸くした。顔を近づけて、ぶんと手を振る。
「野際くんの言いたいこと、私分かるから!」
「え。そ、そうなの? 良かったー、俺本当に変なこと言っちゃったのかと思った!」
「変なことなんかじゃない! 野際くんの言葉は真理だよ!」
「あーもう分かったから手離せ!」
恭平が、私と野際くんの手を無理矢理振りほどく。どことなく不貞腐れた顔をする恭平を見つめていると、思いきり睨まれた。
「良に触るなっつうの! お前の馬鹿が移るんだよ!」
「なっ……なにその言い方!」
「はいはい、もう終わりにして。次体育なんだから早く食べないと」
対立しかけた私たちの間に、玲奈が仲裁として入ってくれる。私は恭平から顔を背けて席に座り直した。
「まったく。立原くんも分かりやすいわね」
「何が分かりやすいの?」
「……何でもないわよ」
私がもう一度問いかけても、玲奈は答えてくれなかった。諦めて、私もお弁当を食べ始める。
なんとか、相沢くんのことを皆に分かってもらう方法はないのかな。もっと知ってくれたら、相沢くんのこと、きっと好きになってくれるのに。
***
今日から体育の授業が変わる。体力テストも終わって、本格的な授業の始まりだ。しばらくは男子がバスケ、女子がバレーで、体育館を半分ずつ使って行うらしい。合同クラスだから、全体的に凄く騒がしかった。
「高倉! 宮部さんとあんたはうちらのチームだからねっ!」
山口さんに声を掛けられ、ガクガクと頷く。勿論、私に拒否権なんてない。
「足引っ張らないでねー高倉さん」
「そうそう。高倉さん、なんか鈍いからねぇ」
森田さんや吉岡さんにも突っ込まれる。山口さんたちは笑って去っていった。
まったく、怖いったらない。皆、冗談で言ってるんだってことは分かってるんだけど。
「ねぇ。大丈夫かしら私、あの子たちのチームで……」
「あはは。玲奈は幾ら失敗しても大丈夫。山口さんたちは責めたりしないよ」
きっと山口さんたちは、私のことをからかいやすい奴だと認識したんだと思う。派手で目立つから若干怖い面もあるけど、山口さんたちはいじめとか嫌なことはしない子たちだって、何となく分かってきたから。
「さ、まずはトスの練習しよっか!」
「え、ええ」
私がボールを上げると、玲奈がそれを受けようと構える。玲奈の腕に当たったボールは私に返ってこず、斜めに弾かれて転がっていった。
「ああ、もう! 取ってくるわね」
「ふふ、うん!」
むくれた顔でボールを追いかける玲奈の姿は本当に可愛い。野際くんや他の男の子が玲奈に魅了されちゃうのもよく分かる。たぶん、ギャップ萌えってやつだ。
その時、ネットで隔てられた向こう側から物凄い歓声が響いてきた。驚いて見ると、女子もバレーそっちのけで男子のバスケを応援している。体育の先生はおっとりとしていて、注意する気配すらない。
「春花」
「あ、玲奈! ねぇ、バスケって何が起こってるの?」
「ちらっとしか見えなかったんだけど、凄い試合やってるみたい」
「へぇ、そうなんだ。見にいく?」
「私たちだけ練習してるのもおかしいし、見にいきましょうか」
玲奈の決定でネットの方へ近寄っていく。私たちに気づいた山口さんが声を掛けてくれた。
「高倉! 宮部さん!」
「山口さん。何を見てるの?」
「馬鹿ね高倉! 立原くんに決まってるじゃない!」
「恭平?」
ネットの向こう側では、確かに試合が行われていた。見慣れない顔もあるから、クラス合同でチーム分けされているらしい。そして今ボールを持っているのが、恭平だった。相手チームのマークを上手くかわして、ゴールに近づいている。
「立原くん本当凄いのよ。一人でどんどん点入れちゃって、圧倒的なんだから!」
「そ、そうなんだ」
「確かに、凄いわね」
スポーツを知らない玲奈までも感嘆している。他の女の子たちもずっと、恭平に声援を送っていた。
バスケをしている恭平は先程の英語の時間とは打って変わって、生き生きとしている。そんな姿はちょっと、いや結構かっこいい。すぐ調子に乗るから本人の前では言えないんだけどね。
「え、嘘! あれスリーポイントラインよね?」
「あそこから打つの!?」
周りの女の子たちが俄かに騒がしくなった。恭平が今立っている位置は、リングからかなり離れてみえた。でも恭平の打ったボールは綺麗な弧を描いてゴールへと吸い込まれていく。途端に、また盛大な歓声が沸き起こった。
「もう立原くん超かっこいいっ!」
「断トツよねぇ」
「あんな人と付き合いたいなー!」
山口さんたちの黄色い声を聞いていると、不意に恭平が此方に向かってニッと笑いながら手を振った。何事かと驚いている間に、山口さんたちが振り返している。
「きゃー、応援が届いたのね! あたしに手振ってくれたじゃない!」
「え、あたしでしょ?」
女の子たちがあちこちで沸き立っていた。本当に人気なんだな、恭平って。
「今の、春花に振ったんじゃないの?」
「え? そ、そうなのかな」
「私は、そうだと思うけど」
玲奈に言われてまた恭平の方を見てみるけど、もう此方には向いていなかった。ちょうど今、交代のタイミングらしい。恭平は相変わらずコートの中に残っていた。
「このまま、立原くんのチームの圧勝かしら」
「んー、どうだろう……て、ああっ!」
「ちょ、煩いわよ高倉!」
「ご、ごめん山口さん……」
思わず大きな声が出てしまったのは、恭平の相手チームに相沢くんが現れたからだった。上下とも長袖のジャージという出で立ちながら、上着は腕まくりしている。
「れ、玲奈! あれ、あれっ!」
「ここであいつが出てくるわけね。でも立原くんの方が上でしょう」
「わ、分かんないよ! だって相沢くんはっ」
そんなことを話している間に開始の合図が響く。慌ててバスケコートへと目を向けた。ジャンプボールを取ったのは恭平で、そのまま相手チームにボールが渡ることなく得点された。
「ほら見なさい」
「うう……相沢くん、頑張って!」
私の言葉は、恭平へ向けられた他の女の子たちの声に掻き消された。なんだか虚しい心地を覚える。
再び試合が動き出した。相沢くんのチームの子が投げたボールが恭平の手に渡る。また此方側で歓声が上がった。
「ああっ……」
相沢くんの名前を呼ぼうとした、その時だった。
恭平がチームの子へと回したパスが、まさか相沢くんの手に渡ったのだ。そして相沢くんはそのまま一瞬のうちに、あろうことかついさっき恭平が決めたスリーポイントラインから、片手でゴールを決めてしまった。それまで賑やかだった場が、嘘みたいにシンと静まり返る。今床にペンを落としでもしたら、この空間にいる誰もがその音に気付くだろう。
「てめぇ……やったな」
恭平の声だけが体育館に響く。いやに反響していた。
「ぜってぇぶっ倒す!」
相沢くんを指差して啖呵を切った恭平に対し、相沢くんは動揺した様子もない。ただ静かに眼鏡を掛け直して、言った。
「いつも威勢だけは良いよね、君」
瞬間、女の子たちから物凄い声が湧き上がる。それは恭平への声援と相沢くんへの野次だった。
「立原くん頑張って!」
「相沢なんかぶっ潰してよ!」
随分物騒なものも聞こえてくる。それは恐らく、山口さんたちのものだろう。
そんな中で私一人、相沢くんに酔いしれていた。相沢くんが毅然として立っているその位置だけ、眩しいほどキラキラと輝いて見えた。どうして貴方はそんなに恰好良いの、なんて、本人には到底ぶつけられない問いかけを頭に浮かべてみたりして。
「本当相沢くん、かっこよすぎるよ……!」
「ムカつくだけでしょう」
「そんなことないってば! さっきの見た? 片手で決めたんだよ、片手で!」
「はいはい」
見学に飽きたのか、玲奈はやる気のなさそうな返事をする。
それからは、試合というよりほとんど恭平と相沢くんによる応酬が続いた。レイアップシュートやジャンプシュートなんかは当たり前。バックボードに跳ね返されたボールを恭平が指先で弾いてゴールに入れたり、相沢くんがディフェンスを避けてゴールに真っ直ぐ向いていない状態から片手で決めたり。何でもそれぞれ、タップシュートやフックシュートと言うらしかった。激しくなる一方の試合に、公式試合でもあまり見られないほどのものだとバスケ部らしき子が語っていた。
「立原くーん!」
「頑張って、もう少し!」
一進一退の攻防が続いた試合の終わりが見え始め、応援も益々熱を帯びてくる。私も負けじと声を張り上げた。
「相沢くんっ!」
頑張って、相沢くん。負けないで……!
相沢くんの放ったシュートが、ゴールに吸い込まれる。その直後にブザーが鳴り、試合は終了した。
結果は……恭平のチームの、勝ちだった。拍手とどよめきが広がる。
「相沢くん……」
私は、此方に背を向ける相沢くんの後ろ姿を見つめた。疲れているだろうにその背中は全く丸まっていない。負けたとはいえ冷静なのが相沢くんらしいけど、内心は凄く悔しく思っているんじゃないだろうか。だって相沢くんは、かなりの負けず嫌いみたいだから。
「ふん! 相沢の奴、ざまあみろよね」
山口さんが毛先を指で巻きながら言う。私が相沢くんを応援していた声は、どうやら皆には聞こえていなかったらしい。
「でも立原くんのチームが勝てたのって、前半に沢山得点出来たからよね」
「え、玲奈?」
「もし始めから相沢が出ていたら、どうなっていたか……」
玲奈が相沢くんの肩を持つなんて、本当に珍しい。私は目を丸くして玲奈を見つめた。
「ど、どうしたの? 玲奈」
「別に。公平に状況を判断しただけよ。相沢個人に関しては、負けてくれて嬉しいわ」
「そ、そんなあ」
でもこれで、相沢くんのかっこよさに気づいた子もいるかもしれない。そう思うと嬉しい反面、どことなく不安にもなった。
皆に相沢くんを知ってほしい気持ちと、あまり知れ渡らないでほしい気持ち。矛盾してるけど、どっちも本心だった。だって私には、何もない。玲奈のように特別顔が良いわけでもないし、勉強や運動だって特別出来るわけじゃない。秀でたところなんて何一つない私だから、焦ってしまうんだ。他の、もっと凄い女の子が相沢くんにアプローチし始めたらって。
不釣り合いだと分かっていても、諦めたくない。いや、釣り合うように努力するんだ。例え両想いにはなれなくても、少しでも相沢くんに近づけるなら、今はそれで充分だから。
「さ、あたしらもやるわよ高倉!」
「山口さん!」
「この薫子の実力、他のチームに見せつけてやるんだから!」
そう言って自慢の巻き髪を翻しながら楽しそうに歩き出した山口さんの後を、森田さんと吉岡さんが追いかける。私と玲奈はそれに続いて彼女たちに従った。
その後は山口さんにしごかれて、あっという間に体育の時間は終わってしまった。