100m
本格的に授業が始まってから、一週間が経った。まだまだ慣れないけど、それでも日々は充実している。英語も現代文も数学も、みんな楽しい。今のところ、はね。
「うわー気持ち良い!」
校庭でぐっと伸びをする。それにしても清々しいほどの快晴で、正に絶好の体育日和だ。
「元気ね、あんたは……」
「もう、なに言ってんの玲奈。久しぶりの体育じゃない。ほらテンション上げて!」
「私が体育嫌いなの、知ってるでしょうが……」
玲奈はそう言って、あからさまにげっそりとしていた。
「しかもしばらくは体力テストでしょう? 私あれ大嫌い」
「ああ、確かに。持久走とか辛いよね。でも今日は百メートルでしょ?」
「私は全部嫌なの」
「じゃあ玲奈の分まで私が頑張る!」
「それ、特に意味ないわよね」
そんな話をしている間に集合の合図がかかった。
体育は、二クラス合同でやる仕組みとなっている。男女別に整列して準備体操を終えてから、ようやく記録が始まった。五十音の番号順に走るため、私はまだ先だ。
軽く足首を回していると、パン、とピストルの音が鳴り響いた。男子の方で記録が始まったようだ。
「あっ」
思わず、声を上げる。一番奥のコースを走っているのは、相沢くんだった。
「玲奈あれっ。相沢くん!」
興奮のあまり、すぐ後ろに並んでいる玲奈の肩を叩いた。
颯爽と風をきる相沢くんはフォームから何から完璧で、運動神経抜群な彼らしくかなりのスピードで走っている。
「凄い! めっちゃ速い!」
「まあ、速いけど」
「相沢くーん! 頑張ってー!」
「あんた……」
玲奈のじとりとした視線も、今は全然気にならない。
相沢くんは一緒に走っていた二人を置いて、余裕のゴールを決めた。息を切らした様子もなく、冷静に自分のタイムを確認している。
かっこいい、凄くかっこいい! 私は興奮を抑えきれないまま、中学時代の体育大会を思い出していた。
そう、中三のあの時、相沢くんは四百メートル走に出場していた。ピストルと同時に飛び出した相沢くんはトラックをぐんぐん駆け抜けて、二位に歴然たる差をつけてゴールしていた。一位の札を切って相沢くんに渡している体育委員の子がどれだけ羨ましかったか。
私が過去へと意識を飛ばしているうちに、相沢くんは自分のコースの最後尾に戻ってしまっていた。
「ああもう、かっこいいなあ……! よし、私も頑張る!」
「はいはい、頑張りなさい」
「玲奈もね!」
そんな話をして、もう一度ストレッチをしたり靴紐を結び直しているうちに私の番が回ってきた。
位置に着いて、の合図でクラウチングスタートの体勢をとる。私は深呼吸をした。
負けてられない。頑張るよ、相沢くん。
「用意」
パン、という音と同時に地面を強く蹴る。すぐに体勢を起こし、そのまま真っ直ぐ駆けた。周りの景色なんて何も見えなくて、ただ風を切る感覚が心地良い。ゴールが近い、と思った瞬間、私はそこを走り抜けていた。
「高倉さん、タイム七秒七。速いんだね!」
「へへへ、ありがとう」
記録をしていた体育委員の子に褒められて、頭を掻いた。七秒七は、私の過去最速記録のはずだ。
「得点は……凄い、十だよ。おめでとう!」
「本当に!? やったあ!」
最高得点だ。去年までは九ばかりだったから、心の底から嬉しい。
「あっ。見てあれ!」
これも相沢くんのおかげかな、なんて考えていると、私と同じように記録を付けてもらっていた子が声を上げた。みんなの指差す方向を見ると、そこではちょうど恭平が走っていた。
恭平もかなり速い。女の子たちの声援が届いているのかいないのか分からないけど、あっという間にゴールを駆け抜けてしまった。
「立原くん凄いっ!」
「立原くーん!」
きゃあきゃあという、女の子特有の可愛らしい声が彼方此方から聞こえてくる。それに圧倒された私は、そそくさとその場から退散した。
恭平はそのルックスと明るい性格で、まだ入学してそれほど経たないというのに、既にクラス、いや学年の女子の間で人気者となってしまった。そしてそれを知ってか知らずか、至るところで良い顔をしているようだ。他の子には優しく気さくに接するくせに、私には以前と変わらぬぞんざいな態度で挑んでくる。そのあからさまな差別は、小学生の頃と比べ精神的成長を遂げているのか、疑問に思うくらいだった。
それにしても。
確かにさっきの恭平もかなり速かった。でも、でもだよ。皆もう少し、相沢くんに注目してもいいんじゃないのかな、なんて。
「春花……」
背後から暗く重い声がして、ギョッとする。振り返ると、玲奈がどんよりとした目で私を見ていた。
「れ、玲奈?」
「なんであんたはあんなに速いのよっ!」
そう言って私の体をぽかぽかと殴る玲奈の頭を、撫でた。だけど、私のそんな手はすぐに振り払われてしまった。
「玲奈はどうだったの?」
「十秒四」
「と、得点は?」
「……二」
二。一瞬、私と玲奈の間の時間が止まった。
「ま、まあ、一じゃなかったんだからよかったじゃない」
「フォローになってないわよっ。私、見たんだから。あんたの得点十でしょ? 何で走るのだけは得意なのよー!」
少し涙目な玲奈に、がくがくと肩を揺さぶられた。
顔良し頭良しの玲奈は、運動に関してだけ超が付くほどの音痴だ。そして、クールな彼女が時たま見せるこの可愛らしい部分が、私は大好きなんだ。顔が真っ赤なところも、勿論涙目なところも、全部可愛い。人目がなければ抱き締めたいところだけど、代わりに私は玲奈の頭をもう一度、今度はぐしゃぐしゃに撫でた。
でも、走るのだけはって、さりげなく酷い。
「玲奈ー!」
「あ、ちょっと何するの!」
「玲奈が可愛いからいけないのー!」
「やめてってば!」
「ほら、もう一回走らなきゃだよ。並ぼう?」
「もう嫌よ……」
青い顔をして渋る玲奈を引きずるようにして、私は再び自分のコースへと戻った。
その後取った二回目の記録は一回目ほどではなかったけど、私は満足だった。だって、自分の記録は勿論だけど、相沢くんの疾走を二度も見ることが出来たんだから。
体育の授業を終えた私は、玲奈とこの後の昼食の話をしながらのんびりと着替えていた。唐揚げ入ってるかなあ、なんて考えていると、背後に気配を感じる。山口さんたちのグループがそこにいた。
山口さん、森田さん、吉岡さんたち三人はクラスの中でも目立つ、女子の中心的グループだ。校則を破らない範疇で試みられているお洒落は最早匠の技。ちなみに、彼女たちとはまだ一度も話したことはない。
「山口さん。ど、どうしたの?」
もしかして、何か目を付けられるようなことをやらかしてしまったのか。内心そう焦ってしまうくらい山口さんたちからは気迫が感じられて、思わずたじろいでしまった。
「ねえ高倉さん。単刀直入に聞くけど。高倉さんって立原くんと付き合ってるの?」
不意打ちのとんでもない発言に、私は変な息を漏らしてしまった。
「誤魔化さないで! 正直に答えて」
「大丈夫、危害を加えようとしてるわけじゃないんだから」
森田さんや吉岡さんにも詰め寄られて、私は益々身構えてしまった。咄嗟に辺りを見回したけど、逃げ場はなさそうだった。三人は私の退路を断つように取り囲んでいたし、更にはいつの間にか、更衣室にいるみんなが私たちに注目していた。他のクラスの子たちも含めて、みんなだ。
「つ、付き合ってないよ」
「本当に?」
「う、うん。森田さん」
「嘘は言ってないのね?」
「言ってないよ、吉岡さん」
「あたしに誓える?」
「ち、誓うよ。山口さん。もし私が嘘言ってたら、針千本飲んで指も切る。ううん、足の指だって切る。切る、切りますからっ!」
山口さんたちの迫力に気圧され、最後の方は何を言ってるのか自分でもよく分かっていなかった。
一瞬の沈黙が流れた後、山口さんたちの大笑いする声が更衣室中に響き渡る。それでやっと、我に返った。
「ハハハッ、針千本って! この歳になっても言う子いるんだっ!?」
「ほんっと! マジウケるんだけど」
「高倉さんってもしかして天然?」
これは、馬鹿にされてるのかな。いや、確実に馬鹿にされてる。笑い者にされてる。だけどとりあえず、難は逃れたらしい。
「でも良かったー、立原くんと高倉さんが付き合ってなくて」
「これで一安心って感じ」
「じゃあ高倉さん。ありがと、またねー」
ひらひらと私に手を振って、山口さんたちは賑やかに更衣室を出て行った。嵐が過ぎ去った後のように、途端に周囲が静かになる。残ったのは彼女たちの制汗剤の、仄かな香りだけだった。
「お疲れ様、春花」
「うっ、玲奈ぁ……!」
気が付いたら着替えを済ませていた玲奈が、ぽんと私の肩に手を置いた。私はその手を掴んですりすりと撫でる。
「びっくりしたっ。山口さんたちとは初めて話したのに、ぐいぐいくるんだもん」
「まあ、あんたと立原くんの関係を気にするのも自然なことなんじゃない。直接あんたに聞きにこなくても気になってた子は多いみたいだし」
「ど、どういうこと?」
「さっきの会話、みんなが聞いてたわ。春花が付き合ってないって言った時ホッとしたような表情を浮かべた子がほとんどよ」
沢山の視線を感じた理由は、そこにあったらしい。誤解が解けたなら良かった、と私は安堵する。
玲奈を待たせているため慌てて着替えながら、私は言った。
「ねえ、恭平のどこがそんなに良いの?」
「運動神経抜群。背は高くてイケメン、加えて性格も明るいんだから、モテない方がおかしいと思うけど」
「……玲奈も、恭平みたいなのがタイプなの?」
「全然?」
そのあまりに清々しい否定に、私はつい笑ってしまった。
玲奈は、基本的に男子に興味がない。あの子がかっこいいとか誰が好きとか、女子が大好きな話題たちも玲奈の口からは聞いたことがない。私からすれば、モテるのに勿体ないなって感じだけど、こればかりは本人以外にはどうにも出来ないことだ。これまで玲奈に告白し玉砕してきた数々の男子が思い浮かんで、ちょっと彼らが不憫に思えた。
でも、次の瞬間には。
「勿論、相沢は論外」
その言葉に、不憫な男子たちへの同情の念はあっという間に吹き飛んでしまったけど。
「な、なんで!?」
「ここにいる女子に聞いてみなさいよ。相沢を選ぶ子なんて一人もいないから」
「そ、そんなことっ」
「いいえ、そもそも立原くんの比較対象になれるような人間じゃなかったわ。あいつ、既に相当評判悪いから」
なんで? 相沢くんのどこが駄目なの? みんな何か勘違いしてるんだよ。そうだ、きっとそう。だって相沢くんよりかっこいい男の子、知らないもの。
「相沢を選ぶ子は、一人だけね」
「ほ、ほら。相沢くんの魅力を知ってる子なんて、隠れてるだけできっとたくさんいるの! それで、誰?」
「あんた」
あんた。つまり、私だけということだ。
やりきれなくなって、私はがっくりと肩を落とした。そんな私を励ましてくれたのは、やっぱり玲奈だった。
「おい春花ー」
昼休み。玲奈と並んでご飯を食べていると、恭平が声をかけてきた。
「なに?」
「見てたか俺の走りっぷりを!」
「あー、うん。まあ見てたよ」
「これで俺がモテる理由分かっただろ?」
自信たっぷりな恭平の発言。どうやら、自分はモテるのだということを自覚済みだったらしい。それはそうと、一々私に自慢するのだけはやめてほしいものだ。
「いや、別に」
「はあ? 何でだよ、俺超速かっただろ? 得点十だぜ?」
「私だって十だもん」
「ああ、それは見てたけどよ」
玉子焼きを口に含んだまま、私はきょとんと恭平を見つめてしまった。
まさか恭平が私の姿を見ていたなんて。走っていたのだから当たり前だけど、全然気付かなかった。
「宮部さん。俺見てたよ! 超可愛かった!」
「え? そ、そう」
「いや勿論普段から可愛いよ。でも走ってるのも良いね!」
横では野際くんが玲奈を口説いている。ズイッと迫る野際くんに、玲奈はタジタジの様子だった。男子に対して狼狽える玲奈の姿は本当に貴重である。野際くん、凄い。
私は二人を見てふっと吹き出した後、恭平に向き直った。
「恭平は私の見てどう思ったのよ?」
「は? 別に普通だろ。相変わらず鈍臭えなって思っただけだっつうの」
「……ああそう」
恭平にまともな返答を期待した私が馬鹿でした。私は苛立ちに任せハンバーグにフォークを突き立てる。せっかく、少しくらい褒めてやろうと思ったのに。
「私はかっこよくないこともないと思ったけどねっ」
「はあ?」
「だから、かっこよかったってこと」
気に食わないとはいえ、速かったのは事実だ。いつも暴言ばかりの会話を交える私たちだけど、だからこそたまには恭平の頑張りを認めてあげてもいいかな、なんて思ったり思わなかったり。
それなのに恭平はどこか慌てた様子で、私に突っかかってきた。
「は、はあ!? 意味分かんねえ! 何で春花が褒めるんだよ! 褒めんじゃねえよ!」
「ちょっと、なにそれっ。せっかく珍しく褒めてあげたのに! ていうか、褒めてほしくて言い出したんじゃないの!?」
「ち、違えよ! お、お前に褒められたって全然嬉しくねえし? おだてたって何も出ねえからなっ」
「別に期待してないし……」
もう、本当になんなの。自分から吹っかけておいてこの態度なんだから、呆れて物が言えない。
私から顔を背ける恭平を覗き込んだら、きっと睨まれてしまった。その頬は微かに赤みを帯びている。まったく、そんなになるまで怒るようなことじゃないでしょうに。
「私、ちょっと手を洗ってくるね」
玲奈にそう告げてから席を立つ。教室前方のドアから出て行こうとすると、相沢くんの席が目に留まった。お昼休みはいつも、相沢くんは教室にいない。どこでお昼を食べてるんだろう。
屋上、は開放されてないし。中庭とか? 考えを巡らせながら水道で手を洗っていると、湯川先生が此方に歩いてくるのが見えた。
「あ、高倉。ちょうどいいところに」
「え?」
とりあえず手を拭け、と促されて従うと、一枚のプリントを渡される。
「来週一週間、朝少し早く来てくれ。登校してくる生徒の頭髪と服装のチェックだ」
今でも毎朝起きるだけで大変なのに、もっと早く起きなきゃいけないなんて。やっぱり、学級委員になんてなりたくなかった。
「それ、学級委員と風紀委員合同での活動だから」
「えっ!」
前言撤回。つまり、朝早くから相沢くんと一緒にいられるわけだ。あわよくば話せるかもしれない。そう思うと、私の心は弾んだ。我ながら単純だなと思う。
「他の二人にも……あ、おい相沢ー!」
先生の叫び声。途端に心臓が騒がしく音を立て始めた。恐る恐る振り返ると、相沢くんが此方へ歩いて来ている。
「なんですか、先生」
ひゃっ、と変な声が出そうになるのを慌てて飲み込んだ。だってこんな、相沢くんが私の隣に並んでいるなんて!
それからの先生の声なんて、もう全く耳に入ってこなかった。ただただ、自分の赤くなっているであろう頬をプリントで隠すのに精一杯で。でも、仕方ないのだ。あまりにも突然で、心の準備なんて出来ずに全く無防備だったんだから。
「おい高倉、聞いてるか?」
「は、はいっ!?」
「はは、なんだその声」
不自然に裏返った私の声を聞いて、先生は大笑いした。視界の端で相沢くんを覗くと、彼も怪訝そうな表情をしている。完全に失敗してしまった。
「高倉から立原にも伝えておいてくれ」
「は、はいっ。分かりました……」
「じゃあな。午後も頑張れよー」
私の肩をポンと叩いて、先生は職員室の方向へ去っていく。この状況で、私は相沢くんと二人きりにされてしまったのだった。
「来週はよろしく」
「えっ? あ、うん! こちらこそっ!」
そう言った瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。相沢くんは私を置いてさっさと歩き出してしまう。ああ、と思ったけど、何の言葉も出てこない。仕方なく、相沢くんとは少し距離を置いて付いていくことにした。
ふと見ると、相沢くんの手にはお弁当の袋らしきものが握られている。
やっぱり、どこか別の場所で食べているんだ。教室は居心地悪いのかな。もしも仲良くなれたら、一緒に食べようって誘ってみたい。でも近くにいるだけで挙動不振になったり、まともに目を見て話せない今のままじゃ、到底無理だよね。
小さく、溜息を吐く。来週一週間、頑張ろう。