この空の先へ9
よくわからないうちに、借り出されてました。
――ちょ、速っ――
エンちゃんの足は速い。体は私のものだというのに、扱うものが違うと、こんなにも変わるものか。
流れる景色を見ながら声にならない声を出す。
え?
流れる景色?
――ちょっと、エンちゃんってば!――
「喧しい」
――これって、走ってるって言わないよね、ってか飛んでるんじゃ?――
そう。
私の足は殆ど地面についていない。それもその筈、この下は川。
そう、水なんである。
エンちゃんはいきなり柵を飛び越えて、さっきまで、赤く染まって綺麗だななんて思っていた川の上を猛スピードで移動していたのだ。
ずっと飛んでいるという訳ではなく、たまにエンちゃんが水面につく事でできる波紋が、見えるような気もするんだけど、あっという間に後ろになって視界から消える。
その隣を、悠然とマカミがついているのだ。
――誰かに見られたらどうしてくれんの! 川の上走っているっていうか飛んでいるなんて、どう説明すんのよ!――
「いちいち煩いな、儂らの今の姿は誰にも見えてはいない、心配するな、それに、見えているとするならば……」
ふ、と。
エンちゃんが止まった。
水の上である。ふわりと浮かんだように爪先が、水面につくかつかないかのところにあった。
マカミの背の毛が、逆立っている。
その視線を追えば、前方に何やらもやのようなものが見えてきた。
最初は薄かったそれは、だんだんと濃くなり、何かの形を取り始めている。
――何、あれ――
「単純に言えば、此処にいてはならないものだ」
もやもやの中に、目らしきものが現れた、と思って、つい、凝視してしまったらしい。
その目と視線がかち合ってしまった。
総毛立った。
ずしりと、冷たい何かを抱えてしまったように走る寒気。
どれだけ憎しみを、悲しみを込めたら、あんな色になるのだろう。
こんな色、人のする目ではない。そもそも、こんな増悪を抱えて人は、生きていけるとは思えない。これは抱えているだけで正気が失われる、そういう性質のものだ。
頭ではなく、感覚がそう告げた。
どす黒いそれは、私の心を金縛りにかける。
息が、苦しい。
耳がきーんと、さっきから痛んでしょうがない。
「沙衣、見るな、お前の意識が引き込まれるぞ」
エンちゃんの声に我に返る。
見るなって言われても。
かち合った視線が、逸らそうにも逸らせない。このままじゃまずい、と体全体が怯えているのに、どうにもならないのだ。
そもそも、私のものなのに私の意思通りにならない体でどうしろと。
逃げたくても、逃げる事も出来ない。
心の中が染まっていくのがわかる。
どうにもならない、憤りに。
このままいたら、自分が壊れるんじゃないか。
逃れる事の出来ない、恐怖に。
エンちゃんが、ふ、と溜息をついた。
「まあ仕方あるまい、人には刺激が強すぎるな」
す、と手が挙がって。
瞼を閉ざす。
訪れるのは闇。でも、この暗さは不思議と怖くはなかった。
呪縛を解かれて、体も心もカチカチになっていたのが、やわやわとほぐれていくのがわかる。
「落ち着いたか?」
うん、と頷く。いや、頷いたつもりになる。
「儂はこれからあれに触れる」
触る? ですと?
「触れなくてはあれを消す事も出来ん」
口に出さなくても、エンちゃんには言いたい事はわかるらしい。まあ、体使っている訳だしね。此方のパニックも感じ取れるんだろう、この場合。
「それ故に、お前の手を借りる……大丈夫だ、お前に危険はない、儂を信用しろ」
自信満々という声が、体中にしみ込んでくる。
もう一度、頷いた。
――わかった――
何故か、エンちゃんが笑ったような気がした。
瞼をふさいでいた両手が、外される。
でも、もう、私は落ち着いていた。
両手の間に、青白く光る丸いものが現れる。
目も開けていられないようなまばゆいそれは、とても、あたたかで優しく感じられた。
(2013/10/22)