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「君からは何も感じない」と言った殿下へ。その懐かしい香り、一年前まで私がつけていました

掲載日:2026/10/19

 鏡台の端に、小さな木の箱がある。光と熱は香りを傷めるからと、母がくれた箱だ。

 蓋を開けると、薄暗い底で、硝子瓶の琥珀色がかすかに光った。この一年、一度も触れていない瓶。

 栓に巻いた紙には、母の細い字で『満ちる月』。その下に、もう一行。『小さな淑女へ』。

 十歳の誕生日に、母が私のためだけに作ってくれた香水だ。それから八年、この香りをまとわない日はなかった。


 母が亡くなった朝までは。

 この瓶は、母が最後に作ってくれた一本になった。


 黒い手袋のボタンを留める。黒いドレスに、黒い帽子。親を亡くした娘は、一年のあいだ装飾品も、香水もつけない。

 だから今の私からは、何の香りもしない。


 喪が明けるのは、十日後だ。


「お嬢様。馬車の支度が整いました」


 扉の外から、低い声がした。

 近衛騎士のリアン。喪中の私の外出に付き添うため、王家から遣わされた護衛だ。この一年、墓参りの朝には、いつもこの声が私を呼んだ。


  *


 墓地へ続く小道には、白い砂利が敷かれている。

 しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。そのすぐ後ろで、もう少し重い音が続く。

 リアンは決して私を追い越さない。並ぶこともない。三歩うしろ、いつも同じ距離。


 母の墓の前で、私は膝をついた。白いコスモスを供え、冷たい石に触れる。


「十日後に、喪が明けます。お母様」


 返事はない。風が落ち葉を一枚さらっていった。

 喪が明ければ、黒を脱ぐ。それが母から一歩遠ざかることのように思えて、私はまだ、その日を待つ気になれずにいる。


「午後は、王宮で茶会でしたね」


 帰り道、背中のほうから声がした。


「ええ。殿下の婚約者ですもの。喪中でも、顔だけは出さないと」


 リアンはそれ以上、何も言わなかった。この人はいつも、言葉より先に一歩下がる。


  *


 王宮の東の庭園は、秋薔薇の盛りだった。

 色とりどりのドレスの中で、黒をまとっているのは私ひとりだ。令嬢たちの視線が一度こちらに留まり、すぐに逸れていく。喪中の娘に、長く話しかける人はいない。それも、この一年で慣れた。


 第二王子エドガー殿下は、茶会が始まってしばらくして現れた。

 その腕に、桃色のドレスの令嬢を連れて。


「男爵家のロザリー嬢だ。セラ、君にも紹介しておこうと思ってね」


 ロザリー嬢は、春の花のように笑ってお辞儀をした。蜂蜜色の巻き毛が、肩の上で揺れる。

 殿下の手は、彼女の背に添えられたままだった。


「殿下。婚約者の前で、ほかのご令嬢の背にお手を添えられるのは」


 小声でそう言うと、殿下は眉を寄せた。


「君は、いつもそうだな」

「……と、おっしゃいますと」

「この一年、君と会うたびに息が詰まる。黒い服を着て、笑いもしない。わかっている、喪中なのだから仕方がない。だが」


 殿下は、ロザリー嬢のほうへ目をやった。その横顔が、ふっとゆるむ。


「彼女といると、懐かしい気持ちになるんだ。そばにいるだけで、安らぐ香りがする。……君からは、何も感じない」


 周りの令嬢たちが、扇の陰で息をのむ気配がした。

 私は、何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったからだ。

 八年。殿下の婚約者として、私なりに務めてきたつもりだった。恋ではなかった。けれど、誠実ではあったはずだ。その八年の終わりに受け取ったのが、「何も感じない」という一言だった。


「殿下ったら、そんな言い方。セラ様に失礼ですわ」


 ロザリー嬢が、困ったように殿下の袖を引いた。


「わたくし、皆さまにご挨拶をしてまいりますね」


 彼女は私に小さく会釈をして、隣を通り過ぎた。


 その瞬間だった。

 ふわりと、香りがした。


 明るい柑橘の気配が鼻先をかすめる。その奥から、月の夜にだけ咲く花のような、鈴蘭と月下香(げっかこう)の甘さが立ちのぼる。

 喉の奥が、ひくりと鳴った。


 知っている。私は、この香りを知っている。

 十歳の誕生日の朝、母は私の左の手首にこの香りを一滴のせてくれた。くすぐったくて笑った私に、母も笑った。

 母が、私のためだけに作った香り。この世にひとつしかないはずの香りだ。


 ――まさか。

 一年も嗅いでいない香りだ。記憶が、よく似たものを勝手に重ねているだけかもしれない。

 そう思おうとした。けれど、指先が冷えていくのを止められなかった。


 振り返ると、ロザリー嬢は令嬢たちの輪の中で笑っていた。殿下が、目を細めてそれを見ている。

 私は、黒い手袋の上から、そっと左の手首を押さえた。一年前まで、毎朝母の香りをつけていた場所を。

 顔には、何も出さずに。


  *


 屋敷に戻ると、私は喪服のまま、母の調香室へ向かった。


 母が亡くなってから、この部屋の扉はほとんど開けていない。棚には小さな瓶が隙間なく並び、乾いた花びらと木の匂いが、まだかすかに残っていた。

 鏡台の箱から持ってきた『満ちる月』の瓶を、作業台に置く。

 つけるつもりはない。ただ、確かめたかった。


 栓を抜く。

 一年ぶりの香りが、静かに立ちのぼった。柑橘の明るさ。その奥に、鈴蘭と月下香。

 目を閉じると、茶会ですれ違った一瞬がよみがえる。

 記憶違いではなかった。あの香りは、確かにこれとよく似ていた。


 私は栓を戻し、棚の端から一冊の帳面を取り出した。母の調香帳だ。母は、自分が作った香りの配合を、すべてここに書き留めていた。

 ページをめくる。父のために作った冬の香り。庭師に贈った、朝の香り。

 『満ちる月』のページは、どこにもなかった。

 綴じ目に、破り取った紙の端が、細く残っているだけだった。


 配合なら、覚えている。毎年、私の誕生日に、母と二人でこの香りを作り直してきたのだから。

 けれど、母の字で書かれた『満ちる月』は、あの一枚しかなかった。


 背後で、かちゃりと陶器の鳴る音がした。

 振り返ると、侍女のハンナが紅茶の盆を持ったまま立っていた。その目が、開いた帳面に吸い寄せられている。

 盆の上で、カップが小さく震えていた。


「ハンナ」

「……申し訳ございません、お嬢様」


 ハンナは盆を床に置き、その場に膝をついた。

 去年の冬、実家の父親が借金を抱えたこと。返すあてがなかったこと。そんなとき、男爵家の使いだという人が来て、お嬢様の香水の作り方を買いたいと言ったこと。


「ロザリー様のお家の方でした。殿下が、昔どこかで嗅いだ香りが忘れられないとおっしゃっていたそうで……それがお嬢様の香水だと、どこかで聞きつけたようでした」


 ハンナは、涙で濡れた顔を上げた。


「ほんの紙一枚だと、思ってしまったんです。お嬢様は喪中で、あの香水はもうお使いにならないのだと……」


 私は、何も言えなかった。

 怒りより先に来たのは、胸の奥が冷えていくような悲しさだった。あのページには、母の字で、母が私のために考えた香りが書いてあった。それが、紙一枚として売られていった。


 泣き続けるハンナの前で、私は長いあいだ黙っていた。それから、机の引き出しから便箋を出した。


「ハンナ。あなたには、今月で暇(いとま)を出します」


 ハンナの肩が、びくりと揺れた。


「次の勤め先に宛てて、紹介状を書きます。あなたが三年間よく働いてくれたことは、本当ですもの」

「お嬢様……」

「お父様のことは、もう大丈夫なの?」


 ハンナは顔を覆って、何度もうなずいた。


 ハンナが下がったあと、私はひとりで『満ちる月』の瓶を手に取った。

 母は、よく言っていた。


「香りは、つける人の体温で完成するの」


 この香りを作るとき、母は私の手首に何度もつけては、配合を直していた。私の肌の上で完成するように。

 では、あの人の肌の上で、この香りはどうなるのだろう。


 答えは、まだわからなかった。


  *


 殿下が伯爵家を訪ねてきたのは、茶会から四日後のことだった。


 応接間には、父と私と、殿下。窓の外では、庭の楓が色づき始めていた。

 殿下は出された紅茶に手もつけず、まっすぐに父を見た。


「伯爵。セラとの婚約を、解消させてほしい」


 父の手の中で、カップが受け皿に当たって鳴った。


「殿下。それは、どういう……」

「ロザリー嬢と生きていきたいと、思っている」


 殿下の声に、迷いはなかった。


「初めて会ったときから、ずっと前から知っていたような気がしたんだ。彼女のそばにいると、心が落ち着く。これを運命と呼ばずに、何と呼べばいい」


 ずっと前から、知っていた。

 その言葉に、私は膝の上で両手を重ねた。


「喪中の娘に向かって、よくも」


 父が立ち上がりかけた。顔が赤い。父がこれほど怒るのを、私は初めて見た。


「お父様」


 私は、父の袖にそっと手を置いた。

 それから、殿下に向き直った。


「お受けいたします」


 殿下が、わずかに目を見開いた。泣くか、すがるか。そう思っていたのかもしれない。


「……いいのか」

「はい。殿下のお気持ちが、もう決まっているのでしたら」


 殿下はほっとしたように息を吐き、父に一礼して部屋を出ていった。廊下を遠ざかる足音は、少しだけ急いでいるように聞こえた。


  *


「なぜ、何も言わなかった」


 殿下が帰ったあと、父は低い声で言った。

 父は、ロザリー嬢の香りのことを知らない。ハンナに暇を出した理由も、まだ話していない。


 言おうと思えば、言えた。

 殿下が懐かしいと感じているあの香りは、母が私のために作ったものです。八年、殿下の隣でつけていた香りです、と。

 そう言えば、殿下は振り向いたかもしれない。


 けれど、それは母の香りを、殿下を取り返すための道具にすることだ。

 香りで引き留めた心を、私は欲しいとは思わなかった。


「殿下がお選びになったのは、ロザリー様ですもの」


 父は長いあいだ私を見ていたが、やがて黙って、私の肩に手を置いた。


  *


 喪の最後の日も、私は墓地へ向かった。


 しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。三歩うしろで、少し重い音が続く。

 この足音を聞くのも、今日で最後になる。


 母の墓に白いコスモスを供え、冷たい石に触れる。

 殿下との婚約がなくなったことを、私はここで母に話した。声には出さずに。


 立ち上がると、リアンがいつもの距離で待っていた。

 帰り道を歩き出してしばらくして、背中のほうから声がした。


「お嬢様。明日、喪が明けたら、何をなさいますか」


 リアンから話しかけてくるのは、めずらしいことだった。

 私は少し考えてから、答えた。


「香水をつけます。母が、わたくしのために作ってくれたものを」

「香水、ですか」

「ええ。喪に入る前は、毎朝つけていたの」

「どんな香りなのですか」


 答えかけて、私は首を振った。言葉にすると、どこか違ってしまう気がした。


「明日になれば、わかるわ」


 しばらく、砂利の音だけが続いた。


「私は」


 リアンが、言葉を選ぶように間を置いた。


「私は、香りのないお嬢様しか存じません」


 私は思わず足を止めた。振り返ると、リアンもいつもの三歩うしろで止まっていた。


 この一年、この人は私のどんな姿を見てきたのだろう。


 冬の朝、墓の前で動けなくなったことがある。リアンは一言も急かさず、日が高くなるまで後ろに立っていた。帰りの馬車に乗るとき、彼の外套の肩が霜で白くなっているのを見て、私は初めて、ずっと待たせていたことに気づいた。

 雨の日には、私の上にだけ傘を差しかけて、自分は濡れたまま歩いていた。そのことに気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。

 茶会から戻った日もそうだった。門の前で待っていたリアンは、私の顔を見ても何も聞かなかった。ただ、屋敷までの短い道を、いつもよりゆっくり歩いた。


 殿下には、何も感じないと言われた。けれど、この一年、私をいちばん近くで見ていたのは、殿下ではなかった。


「……そうね。あなたは、黒い服のわたくししか知らないものね」


 そう言うと、リアンは何か言いかけて、やめた。


「明日の舞踏会まで、お送りします。それが、私の最後の務めです」

「ええ。……一年間、ありがとう」


 リアンは黙って、頭を下げた。


 帰り道の足音は、いつもと同じ距離だった。

 けれど、その距離が明日でなくなることを、私は初めて寂しいと思った。

 明日、香りをつけた私を見たら、この人は何と言うだろう。


  *


 舞踏会の夜、私は一年ぶりに喪服を脱いだ。


 脱いだ黒いドレスを、侍女がたたんで箱にしまう。蓋が閉まる音を聞いたとき、胸の奥が小さく痛んだ。

 この一年、毎朝これを着て、母のことを想った。その朝が、今日で終わる。


 侍女が着せてくれたのは、深い藍色のドレスだった。宝石は、母の形見の真珠をひとつだけ。

 鏡台の前に座り、木の箱から硝子瓶を取り出す。

 『満ちる月』。その下に、『小さな淑女へ』。


 十日前、私はこの日を待つ気になれずにいた。黒を脱げば、母から一歩遠ざかるような気がしていた。

 十歳の誕生日に、母はこうも言った。


「この香りが本当に似合うのは、あなたが大人になってからよ。そのときに、満月になるの」


 窓の外には、丸い月がのぼっていた。

 母は、この夜のためにこの香りを作ったのだ。私が大人になって、ひとりでこれをつける夜のために。

 遠ざかるのではない。受け取るのだ。


 栓の先を、左の手首にそっと当てる。一滴。

 茶会の日、手袋の上から押さえた場所に、一年ぶりに香りが戻った。


 最初に立ちのぼるのは、柑橘の明るさだ。朝の光が窓から差しこむように、鼻の奥がすっと澄む。

 それが少しずつ引いていくと、鈴蘭と月下香が開き始める。月の夜にだけ咲く花の、ひそやかな甘さ。

 そして、いちばん奥から、肌になじむ温かさがゆっくりと上がってくる。竜涎香(りゅうぜんこう)。母の手のひらに似た、やわらかな香り。

 手首から立つ香りは、もう瓶の中の香りではなかった。私の体温で、少しずつ形を変えていく。


 鏡の中の私は、一年前より少しだけ大人の顔をしていた。


 部屋を出ると、廊下で父が待っていた。

 父は私を見て何か言いかけ、それから、ふと息を吸った。


「……ああ。この香りだ」


 父の目が、少しだけ赤くなった。


「イザベラが、おまえの手首につけてやっていた香りだな。よく覚えている」

「お母様は、大人になったら満月になる香りだと言いました」

「そうか。……満ちたな」


 父はそれ以上何も言わず、私に腕を差し出した。

 一年ぶりの香りに、父は一瞬で気づいた。そのことが、なぜだか少し泣きたくなるほどうれしかった。


  *


 王宮の大広間は、燭台の灯りであふれていた。

 父の腕に手を添えて、私は広間に入った。入口の脇には、近衛の制服を着たリアンが控えている。目が合うと、リアンはほんの少しだけ目を見開いた。黒くない服の私を見るのは、初めてのはずだった。


 広間の中ほどに、殿下がいた。ロザリー嬢の手を取って、誰かと談笑している。

 私たちが近くを通り過ぎたとき、殿下の言葉が途切れた。

 殿下が、振り返った。私のほうを。


「この香り……」


 つぶやいたきり、殿下は動かなかった。ロザリー嬢が、怪訝そうに殿下の袖を引く。

 まわりの貴婦人たちが、扇の陰でささやき合った。


「あら、セラ様の香り……ロザリー様と同じじゃなくて?」

「まあ。婚約を解消されたばかりで、真似をなさるなんて」

「でも、あの香り……喪に入る前から、セラ様はたしか」


 年配の夫人が首をかしげたが、その声はまわりのざわめきにまぎれた。


 ささやきは、どれも私の耳に届いていた。

 私は何も答えず、父と並んで歩き続けた。


  *


 音楽が始まると、殿下はロザリー嬢と踊り始めた。

 一曲、二曲。曲が変わっても、殿下はロザリー嬢の手を離さなかった。ロザリー嬢は頬を上気させて、楽しそうに笑っている。


 私は壁際に立って、それを見ていた。

 踊りに誘ってくれる人もいたが、すべて断った。婚約を解消したばかりの娘が今夜踊るのは早い、と父も言った。


 広間は、人の熱でだんだんと暑くなっていく。

 四曲目が終わるころ、私は小さな変化に気づいた。


 踊りの輪のそばで、ひとりの夫人が扇を広げ、口元を覆った。その隣の令嬢も、さりげなく一歩下がる。

 二人の視線の先には、ロザリー嬢がいた。


 五曲目。殿下とロザリー嬢がくるりと回るたびに、近くの人が少しずつ顔をそむける。

 殿下も、だった。

 ロザリー嬢がその胸に寄り添った瞬間、殿下の顔がわずかに横を向いた。本人も気づいていないような、小さな動きだった。離れた場所から見ている私には、それがよくわかった。


 私の場所から、ロザリー嬢の香りは届かない。何が起きているのか、確かめようがなかった。

 そのとき、扇で口元を覆った夫人たちが、私の前を通り過ぎた。


「さっきまで、いい香りでしたのにね」

「ええ。今は、なんだか……むっとしますわ。松脂を煮たような、重たい匂い」

「いつもは小瓶を持ち歩いて、こまめにつけ直していらっしゃるのに。今夜は殿下が手を離してくださらないから」


 夫人たちは顔を見合わせて、声を落とした。


 私は、自分の左の手首に目を落とした。

 つけてから、もう何時間も経っている。柑橘の明るさは、とうに消えた。花の香りも、少し遠くなった。

 けれど、その奥の温かさは、まだそこにあった。夜が更けるほど肌になじんで、静かに私の手首に残っている。


 母の言葉がよみがえる。

 香りは、つける人の体温で完成するの。


 あの香りの配合は、母の調香帳から破り取られた一枚に書いてあった。ただ、配合が同じでも、同じものができるとは限らない。

 いちばん奥にあって、香り全体を夜更けまで留めるもの。竜涎香は、とても高価だ。もしそれを、何か安いもので代えたなら――。

 踊って上がった体温に、明るい香りは先に飛んでいく。留めるものがなければ、残るのは重たい匂いだけだ。


 茶会ですれ違ったとき、あの香りは母の香りによく似ていた。

 似ていた。けれど、同じではなかった。


 六曲目が終わった。

 殿下が、ロザリー嬢の手をそっとほどいた。ロザリー嬢は笑顔のまま、何か話しかけている。殿下はうなずきながら、目だけで広間を見回していた。

 何かを探すように。


 その目が、壁際の私のところで止まった。


  *


 殿下は、まっすぐに私のほうへ歩いてきた。

 ロザリー嬢が、あわててその後を追う。まわりの人たちが、ひとり、またひとりと話すのをやめた。


 殿下は私の前で立ち止まった。その目が、戸惑うように揺れている。


「セラ。なぜ君が、彼女の香りを」


 近くにいた人たちが、息をひそめるのがわかった。

 私は、殿下を見上げた。


「殿下。この香りは、亡くなった母が、わたくしの十歳の誕生日に作ってくれたものです」


 殿下の眉が動いた。


「喪に入るまで、わたくしは毎朝これをつけておりました。殿下と婚約したのも、十歳の年です。殿下は八年、わたくしの隣で、この香りをお嗅ぎになっていたはずです」


 誰かが、小さく息をのんだ。


「瓶には、母の字で『小さな淑女へ』と書いてございます。この世にひとつしかない、わたくしのための香りです」


 殿下は何か言おうとして口を開いたが、言葉は出てこなかった。

 その目が、私を通り越して、どこか遠くを見ている。


「庭園で……」


 殿下が、かすれた声でつぶやいた。


「あの春も……隣にいたのは」


 その先は、続かなかった。

 殿下が何を思い出したのか、私にはわかった。十二の春、王宮の庭園で、私は殿下の隣を何時間も歩いた。殿下は花の話ばかりしていて、私の顔はほとんど見なかった。


「ち、違います!」


 ロザリー嬢の声が、静けさを破った。


「そんなはずありません! だって、同じ配合なのに! ちゃんと、配合どおりに作らせたのに……!」


 言い終えてから、ロザリー嬢は自分の口を押さえた。

 もう遅かった。

 まわりの視線が、いっせいにロザリー嬢に集まる。配合。作らせた。それが何を意味するのか、ここにいる誰もがわかった。


「……配合、とは」


 殿下が、ゆっくりとロザリー嬢を振り返った。ロザリー嬢の顔から、血の気が引いていく。


 私は、何も付け足さなかった。

 ハンナのことも、破り取られたページのことも、言うつもりはなかった。言わなくても、もう十分だった。


「殿下。ロザリー様」


 私は二人に向かって、深く礼をした。母に教わった、いちばんきれいな礼を。


「どうぞ、お二人の運命を、大切になさってくださいませ」


 顔を上げ、私は二人に背を向けた。

 ざわめきの中を歩いていく私の後ろで、殿下が私の名前を呼んだ気がした。


 私は振り返らなかった。


  *


 テラスに出ると、夜の空気が頬に冷たかった。

 空には、満月がかかっていた。広間の音楽が、ガラス戸の向こうで遠く聞こえる。


 手すりに手を置いて、私はようやく息をついた。

 手首から、温かい香りがかすかに立ちのぼる。


「セラ」


 振り返ると、ガラス戸の前に殿下が立っていた。追ってきたのだろう。息が少し乱れている。


「セラ、すまなかった。私は……」


 殿下は言葉を探すように、片手で額を押さえた。


「あの香りを嗅ぐと、懐かしくて、落ち着いて……それは、ずっと君だったんだな。君の香りが……君が、ずっと、隣に」

「殿下」


 私は、静かに殿下の言葉をさえぎった。


「殿下が懐かしいと思っていらしたのは、わたくしの香りです。わたくしではありません」


 殿下が、息をのんだ。


「この一年、わたくしは香りをつけずに、殿下のお隣におりました。それでも殿下は、何も感じないとおっしゃいました」

「それは……」

「香りなら、似たものを作ることもできます。ロザリー様が、そうなさったように」


 手首の香りが、夜風にふわりと揺れた。


「けれど、わたくしは、ひとりしかおりません」


 殿下は、何も言い返さなかった。言い返せなかったのだと思う。

 月の光の下で、殿下の顔は、初めて見るほど幼く見えた。


「どうぞ、お健やかにお過ごしくださいませ。……失礼いたします」


 私は礼をして、殿下の横を通り過ぎた。

 すれ違うとき、殿下がかすかに顔を上げた。私の香りを、追いかけるように。

 それでも、私は足を止めなかった。


  *


 王宮の庭を抜けて、馬車寄せへ続く小道に出た。

 父は、先に馬車で待っているはずだった。月が雲に隠れて、道はほとんど見えない。白い砂利だけが、ぼんやりと浮かんで見えた。


 しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。


 そのとき、前のほうから、もうひとつの足音が近づいてきた。

 私の足音より、少し重い音。

 顔が見えなくても、わかった。この一年、墓参りのたびに、後ろで聞いていた音だ。


「お嬢様。伯爵閣下が、馬車でお待ちです」


 暗がりの中から、リアンの声がした。私の顔は、まだ見えていないはずの距離だった。父に頼まれて、迎えに来てくれたのだろう。


「暗いのに、よくわかりましたね」

「足音で、わかります。この一年、ずっと後ろで聞いていましたので」


 雲が切れて、月の光が差した。

 リアンが、三歩の距離で立ち止まっていた。いつもの距離。けれど今夜は、私の前にいる。


「わたくしも、あなたの足音でわかったわ」


 リアンは、少しだけ目を細めた。それから、ふと何かに気づいたように、息を吸った。


「……これが、お嬢様の香りなのですね」

「ええ。母が作ってくれた、満ちる月という香りです」


 リアンは黙って、しばらく夜の空気を吸っていた。それから、いつもより低い声で言った。


「私は、香りのないあなたしか知りませんでした」


 胸の奥が、静かに鳴った。


「黒い服で、墓の前から長いこと動けなかったあなたも。雨の日に、傘を差しかけても気づかなかったあなたも。私は、そういうあなたしか知りません」


 リアンが、三歩の距離を一歩だけ詰めた。


「……これからは、この香りも、覚えさせていただけませんか」


 言葉の意味がわかるまでに、少しかかった。


「護衛の務めは、今夜で終わります。ですから明日、改めて伯爵閣下にお許しを願いに参ります。お嬢様に、婚約を申し込むお許しを」


 月の光の中で、リアンの顔はひどく真剣だった。

 この人はいつも、言葉より先に一歩下がる人だった。その人が今夜、一歩、前に出た。


「……はい」


 声が、少しかすれた。

 私はもう一度、今度ははっきりと言った。


「はい。お待ちしております」


 リアンが、ゆっくりと息を吐いた。それから初めて、私の隣に並んで歩き出した。

 二人分の足音が、砂利の上で重なった。


  *


 あれから、ひと月が経った。


 社交界では、ロザリー嬢の香りが「夜更けの香り」と陰で呼ばれているらしい。夜会の誘いは目に見えて減り、作り直そうにも、竜涎香は男爵家には手の届かない値段だという。別の香水に替えてからも、殿下が彼女を見る目は、前と同じには戻らなかったそうだ。

 殿下は、新しい婚約者探しに苦労していると聞いた。


 父は、リアンの申し出を三日考えてから許した。ただし、婚約を公にするのは年が明けてから。式は、来年の秋に。

 母の香りがいちばん似合う季節に、と父は言った。子爵家の三男であるリアンは、そのとき我が家へ婿に入る。


 私は今、また毎朝、左の手首に一滴をのせている。

 瓶の中身は、私が自分で作った。母に教わった配合のとおりに。

 リアンは、この香りをもう覚えたと言った。


 足音と同じくらい、確かに。


お読みいただき、ありがとうございました。

香りのない一年を、三歩うしろで見守っていた人の話でもありました。


好きな場面や、心に残った一言があれば、感想で教えていただけるとうれしいです。

一言だけでも、とても励みになります。

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― 新着の感想 ―
年齢を重ねるばかりで自身の香りをまとう、ことがついぞ出来ておりませんわ。 彼女のように自身そのもののような香りをいつか持ちたいものですわね。 大変楽しく拝読いたしました、有難うございます。
AI使用だとわかるようにして頂けると助かります
少なくとも喪中の婚約者にする言動では無いよね〈作中の王子
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