「君からは何も感じない」と言った殿下へ。その懐かしい香り、一年前まで私がつけていました
鏡台の端に、小さな木の箱がある。光と熱は香りを傷めるからと、母がくれた箱だ。
蓋を開けると、薄暗い底で、硝子瓶の琥珀色がかすかに光った。この一年、一度も触れていない瓶。
栓に巻いた紙には、母の細い字で『満ちる月』。その下に、もう一行。『小さな淑女へ』。
十歳の誕生日に、母が私のためだけに作ってくれた香水だ。それから八年、この香りをまとわない日はなかった。
母が亡くなった朝までは。
この瓶は、母が最後に作ってくれた一本になった。
黒い手袋のボタンを留める。黒いドレスに、黒い帽子。親を亡くした娘は、一年のあいだ装飾品も、香水もつけない。
だから今の私からは、何の香りもしない。
喪が明けるのは、十日後だ。
「お嬢様。馬車の支度が整いました」
扉の外から、低い声がした。
近衛騎士のリアン。喪中の私の外出に付き添うため、王家から遣わされた護衛だ。この一年、墓参りの朝には、いつもこの声が私を呼んだ。
*
墓地へ続く小道には、白い砂利が敷かれている。
しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。そのすぐ後ろで、もう少し重い音が続く。
リアンは決して私を追い越さない。並ぶこともない。三歩うしろ、いつも同じ距離。
母の墓の前で、私は膝をついた。白いコスモスを供え、冷たい石に触れる。
「十日後に、喪が明けます。お母様」
返事はない。風が落ち葉を一枚さらっていった。
喪が明ければ、黒を脱ぐ。それが母から一歩遠ざかることのように思えて、私はまだ、その日を待つ気になれずにいる。
「午後は、王宮で茶会でしたね」
帰り道、背中のほうから声がした。
「ええ。殿下の婚約者ですもの。喪中でも、顔だけは出さないと」
リアンはそれ以上、何も言わなかった。この人はいつも、言葉より先に一歩下がる。
*
王宮の東の庭園は、秋薔薇の盛りだった。
色とりどりのドレスの中で、黒をまとっているのは私ひとりだ。令嬢たちの視線が一度こちらに留まり、すぐに逸れていく。喪中の娘に、長く話しかける人はいない。それも、この一年で慣れた。
第二王子エドガー殿下は、茶会が始まってしばらくして現れた。
その腕に、桃色のドレスの令嬢を連れて。
「男爵家のロザリー嬢だ。セラ、君にも紹介しておこうと思ってね」
ロザリー嬢は、春の花のように笑ってお辞儀をした。蜂蜜色の巻き毛が、肩の上で揺れる。
殿下の手は、彼女の背に添えられたままだった。
「殿下。婚約者の前で、ほかのご令嬢の背にお手を添えられるのは」
小声でそう言うと、殿下は眉を寄せた。
「君は、いつもそうだな」
「……と、おっしゃいますと」
「この一年、君と会うたびに息が詰まる。黒い服を着て、笑いもしない。わかっている、喪中なのだから仕方がない。だが」
殿下は、ロザリー嬢のほうへ目をやった。その横顔が、ふっとゆるむ。
「彼女といると、懐かしい気持ちになるんだ。そばにいるだけで、安らぐ香りがする。……君からは、何も感じない」
周りの令嬢たちが、扇の陰で息をのむ気配がした。
私は、何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったからだ。
八年。殿下の婚約者として、私なりに務めてきたつもりだった。恋ではなかった。けれど、誠実ではあったはずだ。その八年の終わりに受け取ったのが、「何も感じない」という一言だった。
「殿下ったら、そんな言い方。セラ様に失礼ですわ」
ロザリー嬢が、困ったように殿下の袖を引いた。
「わたくし、皆さまにご挨拶をしてまいりますね」
彼女は私に小さく会釈をして、隣を通り過ぎた。
その瞬間だった。
ふわりと、香りがした。
明るい柑橘の気配が鼻先をかすめる。その奥から、月の夜にだけ咲く花のような、鈴蘭と月下香の甘さが立ちのぼる。
喉の奥が、ひくりと鳴った。
知っている。私は、この香りを知っている。
十歳の誕生日の朝、母は私の左の手首にこの香りを一滴のせてくれた。くすぐったくて笑った私に、母も笑った。
母が、私のためだけに作った香り。この世にひとつしかないはずの香りだ。
――まさか。
一年も嗅いでいない香りだ。記憶が、よく似たものを勝手に重ねているだけかもしれない。
そう思おうとした。けれど、指先が冷えていくのを止められなかった。
振り返ると、ロザリー嬢は令嬢たちの輪の中で笑っていた。殿下が、目を細めてそれを見ている。
私は、黒い手袋の上から、そっと左の手首を押さえた。一年前まで、毎朝母の香りをつけていた場所を。
顔には、何も出さずに。
*
屋敷に戻ると、私は喪服のまま、母の調香室へ向かった。
母が亡くなってから、この部屋の扉はほとんど開けていない。棚には小さな瓶が隙間なく並び、乾いた花びらと木の匂いが、まだかすかに残っていた。
鏡台の箱から持ってきた『満ちる月』の瓶を、作業台に置く。
つけるつもりはない。ただ、確かめたかった。
栓を抜く。
一年ぶりの香りが、静かに立ちのぼった。柑橘の明るさ。その奥に、鈴蘭と月下香。
目を閉じると、茶会ですれ違った一瞬がよみがえる。
記憶違いではなかった。あの香りは、確かにこれとよく似ていた。
私は栓を戻し、棚の端から一冊の帳面を取り出した。母の調香帳だ。母は、自分が作った香りの配合を、すべてここに書き留めていた。
ページをめくる。父のために作った冬の香り。庭師に贈った、朝の香り。
『満ちる月』のページは、どこにもなかった。
綴じ目に、破り取った紙の端が、細く残っているだけだった。
配合なら、覚えている。毎年、私の誕生日に、母と二人でこの香りを作り直してきたのだから。
けれど、母の字で書かれた『満ちる月』は、あの一枚しかなかった。
背後で、かちゃりと陶器の鳴る音がした。
振り返ると、侍女のハンナが紅茶の盆を持ったまま立っていた。その目が、開いた帳面に吸い寄せられている。
盆の上で、カップが小さく震えていた。
「ハンナ」
「……申し訳ございません、お嬢様」
ハンナは盆を床に置き、その場に膝をついた。
去年の冬、実家の父親が借金を抱えたこと。返すあてがなかったこと。そんなとき、男爵家の使いだという人が来て、お嬢様の香水の作り方を買いたいと言ったこと。
「ロザリー様のお家の方でした。殿下が、昔どこかで嗅いだ香りが忘れられないとおっしゃっていたそうで……それがお嬢様の香水だと、どこかで聞きつけたようでした」
ハンナは、涙で濡れた顔を上げた。
「ほんの紙一枚だと、思ってしまったんです。お嬢様は喪中で、あの香水はもうお使いにならないのだと……」
私は、何も言えなかった。
怒りより先に来たのは、胸の奥が冷えていくような悲しさだった。あのページには、母の字で、母が私のために考えた香りが書いてあった。それが、紙一枚として売られていった。
泣き続けるハンナの前で、私は長いあいだ黙っていた。それから、机の引き出しから便箋を出した。
「ハンナ。あなたには、今月で暇を出します」
ハンナの肩が、びくりと揺れた。
「次の勤め先に宛てて、紹介状を書きます。あなたが三年間よく働いてくれたことは、本当ですもの」
「お嬢様……」
「お父様のことは、もう大丈夫なの?」
ハンナは顔を覆って、何度もうなずいた。
ハンナが下がったあと、私はひとりで『満ちる月』の瓶を手に取った。
母は、よく言っていた。
「香りは、つける人の体温で完成するの」
この香りを作るとき、母は私の手首に何度もつけては、配合を直していた。私の肌の上で完成するように。
では、あの人の肌の上で、この香りはどうなるのだろう。
答えは、まだわからなかった。
*
殿下が伯爵家を訪ねてきたのは、茶会から四日後のことだった。
応接間には、父と私と、殿下。窓の外では、庭の楓が色づき始めていた。
殿下は出された紅茶に手もつけず、まっすぐに父を見た。
「伯爵。セラとの婚約を、解消させてほしい」
父の手の中で、カップが受け皿に当たって鳴った。
「殿下。それは、どういう……」
「ロザリー嬢と生きていきたいと、思っている」
殿下の声に、迷いはなかった。
「初めて会ったときから、ずっと前から知っていたような気がしたんだ。彼女のそばにいると、心が落ち着く。これを運命と呼ばずに、何と呼べばいい」
ずっと前から、知っていた。
その言葉に、私は膝の上で両手を重ねた。
「喪中の娘に向かって、よくも」
父が立ち上がりかけた。顔が赤い。父がこれほど怒るのを、私は初めて見た。
「お父様」
私は、父の袖にそっと手を置いた。
それから、殿下に向き直った。
「お受けいたします」
殿下が、わずかに目を見開いた。泣くか、すがるか。そう思っていたのかもしれない。
「……いいのか」
「はい。殿下のお気持ちが、もう決まっているのでしたら」
殿下はほっとしたように息を吐き、父に一礼して部屋を出ていった。廊下を遠ざかる足音は、少しだけ急いでいるように聞こえた。
*
「なぜ、何も言わなかった」
殿下が帰ったあと、父は低い声で言った。
父は、ロザリー嬢の香りのことを知らない。ハンナに暇を出した理由も、まだ話していない。
言おうと思えば、言えた。
殿下が懐かしいと感じているあの香りは、母が私のために作ったものです。八年、殿下の隣でつけていた香りです、と。
そう言えば、殿下は振り向いたかもしれない。
けれど、それは母の香りを、殿下を取り返すための道具にすることだ。
香りで引き留めた心を、私は欲しいとは思わなかった。
「殿下がお選びになったのは、ロザリー様ですもの」
父は長いあいだ私を見ていたが、やがて黙って、私の肩に手を置いた。
*
喪の最後の日も、私は墓地へ向かった。
しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。三歩うしろで、少し重い音が続く。
この足音を聞くのも、今日で最後になる。
母の墓に白いコスモスを供え、冷たい石に触れる。
殿下との婚約がなくなったことを、私はここで母に話した。声には出さずに。
立ち上がると、リアンがいつもの距離で待っていた。
帰り道を歩き出してしばらくして、背中のほうから声がした。
「お嬢様。明日、喪が明けたら、何をなさいますか」
リアンから話しかけてくるのは、めずらしいことだった。
私は少し考えてから、答えた。
「香水をつけます。母が、わたくしのために作ってくれたものを」
「香水、ですか」
「ええ。喪に入る前は、毎朝つけていたの」
「どんな香りなのですか」
答えかけて、私は首を振った。言葉にすると、どこか違ってしまう気がした。
「明日になれば、わかるわ」
しばらく、砂利の音だけが続いた。
「私は」
リアンが、言葉を選ぶように間を置いた。
「私は、香りのないお嬢様しか存じません」
私は思わず足を止めた。振り返ると、リアンもいつもの三歩うしろで止まっていた。
この一年、この人は私のどんな姿を見てきたのだろう。
冬の朝、墓の前で動けなくなったことがある。リアンは一言も急かさず、日が高くなるまで後ろに立っていた。帰りの馬車に乗るとき、彼の外套の肩が霜で白くなっているのを見て、私は初めて、ずっと待たせていたことに気づいた。
雨の日には、私の上にだけ傘を差しかけて、自分は濡れたまま歩いていた。そのことに気づいたのは、ずいぶん後になってからだ。
茶会から戻った日もそうだった。門の前で待っていたリアンは、私の顔を見ても何も聞かなかった。ただ、屋敷までの短い道を、いつもよりゆっくり歩いた。
殿下には、何も感じないと言われた。けれど、この一年、私をいちばん近くで見ていたのは、殿下ではなかった。
「……そうね。あなたは、黒い服のわたくししか知らないものね」
そう言うと、リアンは何か言いかけて、やめた。
「明日の舞踏会まで、お送りします。それが、私の最後の務めです」
「ええ。……一年間、ありがとう」
リアンは黙って、頭を下げた。
帰り道の足音は、いつもと同じ距離だった。
けれど、その距離が明日でなくなることを、私は初めて寂しいと思った。
明日、香りをつけた私を見たら、この人は何と言うだろう。
*
舞踏会の夜、私は一年ぶりに喪服を脱いだ。
脱いだ黒いドレスを、侍女がたたんで箱にしまう。蓋が閉まる音を聞いたとき、胸の奥が小さく痛んだ。
この一年、毎朝これを着て、母のことを想った。その朝が、今日で終わる。
侍女が着せてくれたのは、深い藍色のドレスだった。宝石は、母の形見の真珠をひとつだけ。
鏡台の前に座り、木の箱から硝子瓶を取り出す。
『満ちる月』。その下に、『小さな淑女へ』。
十日前、私はこの日を待つ気になれずにいた。黒を脱げば、母から一歩遠ざかるような気がしていた。
十歳の誕生日に、母はこうも言った。
「この香りが本当に似合うのは、あなたが大人になってからよ。そのときに、満月になるの」
窓の外には、丸い月がのぼっていた。
母は、この夜のためにこの香りを作ったのだ。私が大人になって、ひとりでこれをつける夜のために。
遠ざかるのではない。受け取るのだ。
栓の先を、左の手首にそっと当てる。一滴。
茶会の日、手袋の上から押さえた場所に、一年ぶりに香りが戻った。
最初に立ちのぼるのは、柑橘の明るさだ。朝の光が窓から差しこむように、鼻の奥がすっと澄む。
それが少しずつ引いていくと、鈴蘭と月下香が開き始める。月の夜にだけ咲く花の、ひそやかな甘さ。
そして、いちばん奥から、肌になじむ温かさがゆっくりと上がってくる。竜涎香。母の手のひらに似た、やわらかな香り。
手首から立つ香りは、もう瓶の中の香りではなかった。私の体温で、少しずつ形を変えていく。
鏡の中の私は、一年前より少しだけ大人の顔をしていた。
部屋を出ると、廊下で父が待っていた。
父は私を見て何か言いかけ、それから、ふと息を吸った。
「……ああ。この香りだ」
父の目が、少しだけ赤くなった。
「イザベラが、おまえの手首につけてやっていた香りだな。よく覚えている」
「お母様は、大人になったら満月になる香りだと言いました」
「そうか。……満ちたな」
父はそれ以上何も言わず、私に腕を差し出した。
一年ぶりの香りに、父は一瞬で気づいた。そのことが、なぜだか少し泣きたくなるほどうれしかった。
*
王宮の大広間は、燭台の灯りであふれていた。
父の腕に手を添えて、私は広間に入った。入口の脇には、近衛の制服を着たリアンが控えている。目が合うと、リアンはほんの少しだけ目を見開いた。黒くない服の私を見るのは、初めてのはずだった。
広間の中ほどに、殿下がいた。ロザリー嬢の手を取って、誰かと談笑している。
私たちが近くを通り過ぎたとき、殿下の言葉が途切れた。
殿下が、振り返った。私のほうを。
「この香り……」
つぶやいたきり、殿下は動かなかった。ロザリー嬢が、怪訝そうに殿下の袖を引く。
まわりの貴婦人たちが、扇の陰でささやき合った。
「あら、セラ様の香り……ロザリー様と同じじゃなくて?」
「まあ。婚約を解消されたばかりで、真似をなさるなんて」
「でも、あの香り……喪に入る前から、セラ様はたしか」
年配の夫人が首をかしげたが、その声はまわりのざわめきにまぎれた。
ささやきは、どれも私の耳に届いていた。
私は何も答えず、父と並んで歩き続けた。
*
音楽が始まると、殿下はロザリー嬢と踊り始めた。
一曲、二曲。曲が変わっても、殿下はロザリー嬢の手を離さなかった。ロザリー嬢は頬を上気させて、楽しそうに笑っている。
私は壁際に立って、それを見ていた。
踊りに誘ってくれる人もいたが、すべて断った。婚約を解消したばかりの娘が今夜踊るのは早い、と父も言った。
広間は、人の熱でだんだんと暑くなっていく。
四曲目が終わるころ、私は小さな変化に気づいた。
踊りの輪のそばで、ひとりの夫人が扇を広げ、口元を覆った。その隣の令嬢も、さりげなく一歩下がる。
二人の視線の先には、ロザリー嬢がいた。
五曲目。殿下とロザリー嬢がくるりと回るたびに、近くの人が少しずつ顔をそむける。
殿下も、だった。
ロザリー嬢がその胸に寄り添った瞬間、殿下の顔がわずかに横を向いた。本人も気づいていないような、小さな動きだった。離れた場所から見ている私には、それがよくわかった。
私の場所から、ロザリー嬢の香りは届かない。何が起きているのか、確かめようがなかった。
そのとき、扇で口元を覆った夫人たちが、私の前を通り過ぎた。
「さっきまで、いい香りでしたのにね」
「ええ。今は、なんだか……むっとしますわ。松脂を煮たような、重たい匂い」
「いつもは小瓶を持ち歩いて、こまめにつけ直していらっしゃるのに。今夜は殿下が手を離してくださらないから」
夫人たちは顔を見合わせて、声を落とした。
私は、自分の左の手首に目を落とした。
つけてから、もう何時間も経っている。柑橘の明るさは、とうに消えた。花の香りも、少し遠くなった。
けれど、その奥の温かさは、まだそこにあった。夜が更けるほど肌になじんで、静かに私の手首に残っている。
母の言葉がよみがえる。
香りは、つける人の体温で完成するの。
あの香りの配合は、母の調香帳から破り取られた一枚に書いてあった。ただ、配合が同じでも、同じものができるとは限らない。
いちばん奥にあって、香り全体を夜更けまで留めるもの。竜涎香は、とても高価だ。もしそれを、何か安いもので代えたなら――。
踊って上がった体温に、明るい香りは先に飛んでいく。留めるものがなければ、残るのは重たい匂いだけだ。
茶会ですれ違ったとき、あの香りは母の香りによく似ていた。
似ていた。けれど、同じではなかった。
六曲目が終わった。
殿下が、ロザリー嬢の手をそっとほどいた。ロザリー嬢は笑顔のまま、何か話しかけている。殿下はうなずきながら、目だけで広間を見回していた。
何かを探すように。
その目が、壁際の私のところで止まった。
*
殿下は、まっすぐに私のほうへ歩いてきた。
ロザリー嬢が、あわててその後を追う。まわりの人たちが、ひとり、またひとりと話すのをやめた。
殿下は私の前で立ち止まった。その目が、戸惑うように揺れている。
「セラ。なぜ君が、彼女の香りを」
近くにいた人たちが、息をひそめるのがわかった。
私は、殿下を見上げた。
「殿下。この香りは、亡くなった母が、わたくしの十歳の誕生日に作ってくれたものです」
殿下の眉が動いた。
「喪に入るまで、わたくしは毎朝これをつけておりました。殿下と婚約したのも、十歳の年です。殿下は八年、わたくしの隣で、この香りをお嗅ぎになっていたはずです」
誰かが、小さく息をのんだ。
「瓶には、母の字で『小さな淑女へ』と書いてございます。この世にひとつしかない、わたくしのための香りです」
殿下は何か言おうとして口を開いたが、言葉は出てこなかった。
その目が、私を通り越して、どこか遠くを見ている。
「庭園で……」
殿下が、かすれた声でつぶやいた。
「あの春も……隣にいたのは」
その先は、続かなかった。
殿下が何を思い出したのか、私にはわかった。十二の春、王宮の庭園で、私は殿下の隣を何時間も歩いた。殿下は花の話ばかりしていて、私の顔はほとんど見なかった。
「ち、違います!」
ロザリー嬢の声が、静けさを破った。
「そんなはずありません! だって、同じ配合なのに! ちゃんと、配合どおりに作らせたのに……!」
言い終えてから、ロザリー嬢は自分の口を押さえた。
もう遅かった。
まわりの視線が、いっせいにロザリー嬢に集まる。配合。作らせた。それが何を意味するのか、ここにいる誰もがわかった。
「……配合、とは」
殿下が、ゆっくりとロザリー嬢を振り返った。ロザリー嬢の顔から、血の気が引いていく。
私は、何も付け足さなかった。
ハンナのことも、破り取られたページのことも、言うつもりはなかった。言わなくても、もう十分だった。
「殿下。ロザリー様」
私は二人に向かって、深く礼をした。母に教わった、いちばんきれいな礼を。
「どうぞ、お二人の運命を、大切になさってくださいませ」
顔を上げ、私は二人に背を向けた。
ざわめきの中を歩いていく私の後ろで、殿下が私の名前を呼んだ気がした。
私は振り返らなかった。
*
テラスに出ると、夜の空気が頬に冷たかった。
空には、満月がかかっていた。広間の音楽が、ガラス戸の向こうで遠く聞こえる。
手すりに手を置いて、私はようやく息をついた。
手首から、温かい香りがかすかに立ちのぼる。
「セラ」
振り返ると、ガラス戸の前に殿下が立っていた。追ってきたのだろう。息が少し乱れている。
「セラ、すまなかった。私は……」
殿下は言葉を探すように、片手で額を押さえた。
「あの香りを嗅ぐと、懐かしくて、落ち着いて……それは、ずっと君だったんだな。君の香りが……君が、ずっと、隣に」
「殿下」
私は、静かに殿下の言葉をさえぎった。
「殿下が懐かしいと思っていらしたのは、わたくしの香りです。わたくしではありません」
殿下が、息をのんだ。
「この一年、わたくしは香りをつけずに、殿下のお隣におりました。それでも殿下は、何も感じないとおっしゃいました」
「それは……」
「香りなら、似たものを作ることもできます。ロザリー様が、そうなさったように」
手首の香りが、夜風にふわりと揺れた。
「けれど、わたくしは、ひとりしかおりません」
殿下は、何も言い返さなかった。言い返せなかったのだと思う。
月の光の下で、殿下の顔は、初めて見るほど幼く見えた。
「どうぞ、お健やかにお過ごしくださいませ。……失礼いたします」
私は礼をして、殿下の横を通り過ぎた。
すれ違うとき、殿下がかすかに顔を上げた。私の香りを、追いかけるように。
それでも、私は足を止めなかった。
*
王宮の庭を抜けて、馬車寄せへ続く小道に出た。
父は、先に馬車で待っているはずだった。月が雲に隠れて、道はほとんど見えない。白い砂利だけが、ぼんやりと浮かんで見えた。
しゃり、しゃり、と私の靴が鳴る。
そのとき、前のほうから、もうひとつの足音が近づいてきた。
私の足音より、少し重い音。
顔が見えなくても、わかった。この一年、墓参りのたびに、後ろで聞いていた音だ。
「お嬢様。伯爵閣下が、馬車でお待ちです」
暗がりの中から、リアンの声がした。私の顔は、まだ見えていないはずの距離だった。父に頼まれて、迎えに来てくれたのだろう。
「暗いのに、よくわかりましたね」
「足音で、わかります。この一年、ずっと後ろで聞いていましたので」
雲が切れて、月の光が差した。
リアンが、三歩の距離で立ち止まっていた。いつもの距離。けれど今夜は、私の前にいる。
「わたくしも、あなたの足音でわかったわ」
リアンは、少しだけ目を細めた。それから、ふと何かに気づいたように、息を吸った。
「……これが、お嬢様の香りなのですね」
「ええ。母が作ってくれた、満ちる月という香りです」
リアンは黙って、しばらく夜の空気を吸っていた。それから、いつもより低い声で言った。
「私は、香りのないあなたしか知りませんでした」
胸の奥が、静かに鳴った。
「黒い服で、墓の前から長いこと動けなかったあなたも。雨の日に、傘を差しかけても気づかなかったあなたも。私は、そういうあなたしか知りません」
リアンが、三歩の距離を一歩だけ詰めた。
「……これからは、この香りも、覚えさせていただけませんか」
言葉の意味がわかるまでに、少しかかった。
「護衛の務めは、今夜で終わります。ですから明日、改めて伯爵閣下にお許しを願いに参ります。お嬢様に、婚約を申し込むお許しを」
月の光の中で、リアンの顔はひどく真剣だった。
この人はいつも、言葉より先に一歩下がる人だった。その人が今夜、一歩、前に出た。
「……はい」
声が、少しかすれた。
私はもう一度、今度ははっきりと言った。
「はい。お待ちしております」
リアンが、ゆっくりと息を吐いた。それから初めて、私の隣に並んで歩き出した。
二人分の足音が、砂利の上で重なった。
*
あれから、ひと月が経った。
社交界では、ロザリー嬢の香りが「夜更けの香り」と陰で呼ばれているらしい。夜会の誘いは目に見えて減り、作り直そうにも、竜涎香は男爵家には手の届かない値段だという。別の香水に替えてからも、殿下が彼女を見る目は、前と同じには戻らなかったそうだ。
殿下は、新しい婚約者探しに苦労していると聞いた。
父は、リアンの申し出を三日考えてから許した。ただし、婚約を公にするのは年が明けてから。式は、来年の秋に。
母の香りがいちばん似合う季節に、と父は言った。子爵家の三男であるリアンは、そのとき我が家へ婿に入る。
私は今、また毎朝、左の手首に一滴をのせている。
瓶の中身は、私が自分で作った。母に教わった配合のとおりに。
リアンは、この香りをもう覚えたと言った。
足音と同じくらい、確かに。
お読みいただき、ありがとうございました。
香りのない一年を、三歩うしろで見守っていた人の話でもありました。
好きな場面や、心に残った一言があれば、感想で教えていただけるとうれしいです。
一言だけでも、とても励みになります。
下の☆からの評価やブックマークも、お待ちしております。




