掘りごたつの床
男同士の酒席で、風俗の自慢話や下劣な体験談が飛び交っている間、秋山は驚くほど饒舌だった。
「いや、あそこの店はパネルの修正がひどい」「オプションのつけ方がセコい」などと、さも裏に通じたような顔で頷き、経験豊富な男の余裕すら醸し出してみせる。しかし、話題が「マッチングアプリで会った子とつき合うことになった」とか「そろそろ結婚を考えている」といった、生の人間が介在する現実の恋愛へシフトした瞬間、秋山の唇は粘着テープで貼り合わされたように重くなるのだった。
「秋山は最近どうよ?」
誰かが酒の勢いで投げかけてくるその言葉は、秋山にとって悪魔の問診だった。
「俺? 俺はもう、全然ダメ。仕事が忙しくてさ」
適当な引きつり笑いで煙に巻く。
三十歳。駒澤大学の経営学部を卒業し、地元の信用金庫に勤めて八年になる。中学時代はソフトテニス部、高校時代はハンドボール部。男友達は多く、当時の仲間とは今でも定期的に飲む。だが、大学を出てから新しくできた友人など一人もいない。極度の人見知りと受け身の性格が、彼の人間関係の輪を高校生の時点で凍結させていた。
中学の頃は、整った顔立ちだけで勝手に女子が寄ってきた。一時期は彼女もいた。しかし、周囲が「その先」へ進み始める高校生になると、受け身なだけの男は急速に市場価値を失った。以降、秋山の前には長い長い「女難」という名の空白が広がっている。
二十七歳の秋、一念発起して川崎のソープランドの暖簾をくくったことがある。
しかし、湯気とせっけんの匂いが充満する個室で、白く湿った皮膚を目の前にした瞬間、彼の股間は自信を失って収縮した。女性の手がどれほど優しく触れても、熱い吐息が耳元を掠めても、体は凍りついたままだった。結局、制限時間の終了を告げるインターホンが鳴るまで、彼は申し訳なさそうに泡を流す女性の背中を、ただぼんやりと見つめていることしかできなかった。
性欲はある。ヘルスには何度か通い、処理だけは済ませた。だが、他人と深入りすること、誰かを「好き」になる感覚は、未だに霧の向こうだった。
夜、一人暮らしのアパートで缶チューハイを飲みながら、秋山はよく都合の良い妄想をした。
いつか結婚して、子供は二人。女の子なら「紬」なんて名前はどうだろう。家を建てるなら、リビングの真ん中に掘りごたつのある家がいい。冬はそこに家族で足を突っ込んで、くだらないテレビを見るのだ。
そんな幼く甘苦しい妄想の反芻に、彼の二十代はそっくり消費された。人間は三十になっても変わらない。同級生の半分が既婚者となり、残りが現実の女性と手探りの関係を築いている中で、自分だけが真っ暗な掘りごたつの底に一人で座り込んでいるような感覚があった。
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五月の連休が明けた月曜日、秋山の配属されている支店に、新卒の女性が入庫してきた。
西岡美緒。
二十二歳。入庫式の時から噂にはなっていたが、店舗に配属されて一週間も経つと、他店の若い行員が用もないのに書類を届けるフリをして支店へ見にくるほどだった。
秋山はその西岡さんの指導係を命じられた。
「秋山、お前が一番教え方が丁寧だからな」と支店長は言ったが、単に浮いた噂のない、安全な三十歳の独身男だから選ばれたのだということを、秋山は痛いほど理解していた。
初日、カウンターの奥で、秋山は西岡さんに端末の操作方法を教えていた。
「ここはですね、勘定科目を入力してから、この実行キーを押します」
「はい。勘定科目を入れて……これですね」
西岡さんが身を乗り出し、キーボードに指を走らせる。
その瞬間、秋山の鼻腔を、甘いシャンプーの香りと、打ち立ての紙のような若い皮膚の匂いが突いた。
ふと横顔を見る。短い黒髪が耳にかかり、長いまつ毛が端末の青白い光を浴びて細かく震えている。彼女は真剣な眼差しで画面を見つめ、メモ帳に小さな文字で手順を書き留めていた。その指先は少し緊張でこわばり、爪の先に小さな白い月が浮かんでいた。
(……ああ、綺麗な人だな)
そう思った。ここまでは、他店の行員たちが騒ぐのと何も変わらない、ごくありふれた感想だった。
しかし、西岡さんがメモを取り終え、「秋山さん、これで合ってますか?」とまっすぐな瞳を自分に向けてきた時だった。
胸の奥——ずっと誰もいなかった暗い部屋の入り口を、外側から「コトン」と一回だけ叩かれたような感覚が走った。
あるいは、冷たく乾いた掘りごたつの底へ、不意に小さな石が一つ、静かに落とされたような音だったかもしれない。
激しい動悸ではない。雷が落ちたような衝撃でもない。
ただ、長い間固く閉ざされていた自分の肋骨の裏側に、生身の他者の存在が触れ、かすかな音を立てたのだ。
「あ、うん。合ってるよ。すごく筋がいいね」
声が少しだけ上擦った。秋山は慌てて目をそらし、手元にある電卓のボタンを意味もなくパチパチと叩いた。
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当然ながら、そこから秋山が西岡さんにプライベートで連絡を取ろうとしたり、好意を匂わせるような行動に出たりすることはなかった。
自分は三十歳の童貞であり、地元の信金で冴えない日々を送る男だ。二十二歳の輝かしい新人にアプローチするなど、己の矮小さを露呈するだけの自傷行為だと知っていた。職場ではどこまでも淡々と、親切で少し無口な「秋山さん」を演じ続けた。
金曜の夜、高校時代の部活の仲間たちと、駅前の居酒屋の個室に集まっていた。
相変わらず、誰かの不倫の噂や、マッチングアプリの攻略法といった話で盛り上がっている。電子タバコの匂いと油の匂いが充満する室内で、友人の一人が秋山にグラスを向けた。
「で、秋山は? 相変わらず浮いた話は無しか?」
いつもの問診だった。
だが、秋山は濡れたコースターを指先でいじりながら、静かに口を開いた。
「まあね。相変わらずだよ」
その声には、自分でも驚くほど投げやりな響きも、みっともない焦りもなかった。友人は「なんだよ、相変わらずか」とあっさり笑い、すぐに別の話題へと流れていった。
秋山はぬるくなったビールを一口飲み、グラスの底に溜まった気泡を見つめた。
自分は何一つ変わっていない。三十歳の童貞で、女性とまともに付き合ったこともなく、明日も変わらず信金の窓口で預金通帳を記帳するだけだ。西岡美緒という存在に対しても、ただの指導係以上の足みだしを踏み出す度胸など、自分には永遠に訪れないかもしれない。
けれど。
アパートへ帰る夜道、アスファルトを踏みしめる靴底の音が、いつになくはっきりと夜気にはじけた。
胸の奥を叩いたあの小さな音は、今も消えずにそこにある。掘りごたつの底に落ちた石は、冷たい闇の中で確かな手触りをもって転がっている。自分はまだ、誰かの存在に動揺し、胸を痛めることができるのだ。
ただそれだけのことで、明日という朝が来るのが、以前よりも少しだけ待ち遠しくなっていた。
秋山はズボンのポケットに両手を突っ込み、街灯の白い光が作る自分の影を追いこすようにして、ゆっくりと歩を進めた。




