awakening without answers
オメガは天窓からの薄い太陽の光で朝が来た気がして目を覚ます。窓の外は相変わらずの灰色で雪は昨日よりも厚さを増しているような気がした。空は低く、重く、変化を忘れている。
「...変わらないわね」
オメガがこの図書館で目を覚ましてから、三日が経っていた。 時間の感覚は曖昧だったが、それでも彼女は「三日」と認識していた。そう教えてくれたのは、アルファだった。 彼女の言葉をそこまで信じていいかはオメガには決めることができない。
なぜならオメガにはその信じる基準さえ持っていなかったからだ。
この三日間で、オメガはこの図書館を歩き回った。
数えきれないほどの本。
終わりの見えない通路。
いくつかの大きなホール。
そしてーーあのピアノ。
かなりの場所を見回ったが、いまだにここの全体像を掴むことは出来ていなかった。それどころか知れば知るほど無限に広がっているように感じられた。
「それ三回目よ」
背後から声がした。振り返るまでもない、アルファの声だった。
「......何が?」
「同じ本を手に取るのよ。最初に会った日から、昨日、そして今日」
淡々とした声だった。責めるよう感じはなく、事実を述べているだけだった。
オメガの手の中には、一冊の本がある。
無意識のうちに選んでいたそれを、改めて見下ろす。
——The Absurd(不条理)
指先が、わずかに止まる。
「...そうだっけ」
パタンと本を閉じてオメガは言う。
「...ねえ、アルファ」
「なにかしら」
「私、これ、、、この本ちゃんと読んだ?」
少しの沈黙が長く感じられる。
「ええ、読んだわ」
「ただし──」
アルファの言葉が途切れる
「ただし?」
「あなたが理解したかは別問題ね」
オメガは小さい溜息を吐いた。
「...それって、結局読んでないのと一緒じゃない」
「かつての人間もよくそう言っていたわ」
やはりアルファの声は変わらない。そこには遠くを見るような響きがあった。
オメガはテーブルの横に捌けた一口残したレーションを見ながら少し考えた。
そして再び窓の外へと視線を向ける。
雪。雪。雪。
ただそれだけが存在している世界。
「ねえ」
「なに?」
「外、本当に全部終わってるの?」
帰ってきたのは沈黙のみ。それはやはりこの世界では生物が生きていける環境ではないことを示していた。
「観測可能な範囲において、生存可能な環境は確認されていないわ」
「……範囲外は?」
「未観測」
アルファはわずかに首を傾げる。
「でも同様な状態が続いていると予想するのが自然でしょうね」
「自然、ね、、、」
オメガはその言葉を繰り返す。この世界でおおよそ存在していることの無いであろう言葉を聞いて少し可笑しく思えた。そんなことを思っているとふと違和感を感じた。
───あれ?
アルファの横に立っている書架。特に変わってないように見える。
でも、
「ねえ、そこの本棚の位置前と違わない?」
アルファは少し固まってその後一瞬だけそこを見る。
「いいえ。記録上、何の変化もないわよ」
「でも──」
出ようとした言葉が消えて止まる。前がいつを指しているか思い出せない。 昨日か、一昨日か、それよりも──ずっと前か。胸の中がわずかに揺らぐ。
「……まあ、いいか」
オメガは小さく首を振った。「確信が持てない違和感に、意味はない。」そう判断したからだ。 それなのに──
「...あのさ、アルファ」
「なに?」
「私が最初に目を覚ました時のこと覚えてる?」
「ええ」
「私、あの時──なにしてた?」
雪がしんしんと降る
「あなたは、床に倒れていたわ」
「それは知ってる」
「意識は不安定で、覚醒するとあなたは周りを観さつし──」
アルファの声は続いている。 だが、その言葉の途中で。
——音。 紙が擦れる音。
オメガの思考が、過去へと引き戻される。
***──覚醒直後
「...ここは…」
冷たい床。
無数の本。
静寂。
そして。
手に取った、一冊の本。 ——The Absurd(不条理)。アルベール・カミュ。
ページをめくる。ふと前のページに戻ってみると、
「...は?…」
さっきまで読んでいたページが真っ白だ。
そこに書かれている“何か”が、すり抜けていく。 掴めないし 残らない。 古いインクの刷られた匂い、本のざらざらとした感触、所々消えかかっている文字は記憶しているのに。
一文、一文ちゃんと読める。文法も理解できる。意味も倫理も分かるのに、分からない。
残るのは、 だけ。
「...なんで」
思わず呟いてしまう。言葉が残らない。ひとつも。
本を閉じたパタンという音と共にその情報は消えた気がした。
自分が何を読んでいたのか思い出せなかった。
雪は深々と降っていた。
***
「...オメガ?」
アルファの声で意識を戻す。
「今、ちょっと思い出した」
「何を?」
「目を覚まして最初に本を読んだとき」
オメガは自分の手を見る。なぜかその両手には確かに重みを感じていた。
「読めるのに、残らない」
「意味は分かるのに、理解できない」
アルファは何も言わずただ、静かに聞いている。
「ねえ、アルファ」
「なにかしら」
「これってさ」
オメガはゆっくりと顔を上げるとアルファを見つめる。 その瞳には光はなく、うすい灰色の光だけが反射で映っていたようにアルファは見えた。
「私の問題?」
「その可能性は高いわ」
「あなたは通常の人間とは異なる特性を持ってる」
さらに続ける
「あなたは──」
そこで彼女は言うのを止めた。
「...どうしたの?」
オメガが問い返しても続きの言葉を聞けることはできなかった。その代わりにこう言った。
「それを説明するのは、もう少し先ね」
「何それ」とオメガは小さく笑う。
「都合いいのね」
「失礼ね、合理的と言ってほしいわ」
こんな表情はしたことが無いのだろう。アルファは不格好に微笑んでいた。 アルファの声はやはり変わらない。だが、その言葉の奥には何か意図があるようにオメガは感じた。
オメガが目を覚まして三日目、今日も雪は降り続いている。変わらない灰の世界。
けれど、
確実にこの場所で何かがズレはじめている。書架の位置、記憶、理解できない理解、そしてアルファの沈黙。
オメガは立ち上がり本棚に触れてみる。冷たい、確かなリアルの感触。
「アルファ」
「なにかしら」
「この図書館ってさ」
「本当にそのままなの?」
アルファは何も答えない。いや、彼女は答えている。その沈黙が何よりの答えだった。
薄く小さい太陽は静かに沈む。静かに。 何も変わらない、すべてが終わってしまったこの世界で、 確かに何かが始まっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。




