私の願い
この作品は別名義にて、pixivにも同タイトルで投稿しています。
「これで手続きは全部済んだよ。二学期は九月二日からだから、遅れないように」
教師の説明に、及川澪は静かにお辞儀をした。
この日、澪は転校先となる高校へと足を運んでいた。
彼女は都内の私立高校を一学期末付けで退学し、ここ、愛知の地方都市にある公立高校へと転学することになった少女だ。
「制服についてはおそらく間に合わないだろうから、届くまでは前の学校の制服でかまわないよ。ただ、ちょっと言いにくいことだけど」
応対していた教師がやりづらそうな口調で切り出す。
「東京ではそれが普通なのかもしれないが、うちは見ての通り田舎の学校だ。周りが驚くかもしれんので、少し穏やかな丈にすることはできないかな?」
澪はその遠回しの指摘が何を指しているのかを察した。
彼女が今身に着けているのは元の学校の夏の制服。都会的な雰囲気を感じる半袖の薄い青色をしたブラウスとクリーム色のサマーチョッキ、そして膝上十センチぐらいの丈の紺色のプリーツスカートだ。
都内ではこの丈がほとんどであったせいか、そこまで意識することもなかったが、遠まわしとはいえ指摘されると、確かに短いとも言える長さだ。
「はい、登校する時は長めのスカートを着てきます」
といっても、実際はスカートを二三度折り曲げているだけなのだが、それをあえて伝えるのもどこか無粋に思えてしまう。
来客用の出入口から校舎を出た澪は、通用門を抜け、数百メートル先にあるバス停を目指して歩いていく。
自分の周りに広がる景色は、東京で見ていた景色とは全く違う。写真の資料とかでしか見たことのない、農村の風景だ。だが、それが今自分が歩いている世界の現実でもある。
水が張り巡らされた圃場は、夏の強い日差しにもかかわらずどこか涼し気だ。
ふいに、澪は空を見上げた。
高校一年生、平成八年の夏。
東京を離れた少女の、遠く離れた場所で新しい生活が始まろうとしていた。
夏休みが終わり、澪が転校してからしばらくの時が経った。
新しい制服もようやく馴染んできて、同級生のもの珍しそうな視線も薄らぎ、それなりに環境に溶け込めるようにもなった。
都会の学校しか知らなかった澪には、新しい土地での生活は発見の連続だった。
学校生活では、女子校育ちの自分が共学の環境に溶け込めるのだろうかという懸念もあったが、案外に気にならないものだということに気づいた。通学に電車を使うのは相変わらずだが、その際の満員電車というストレスから解放された。叔父からは名古屋から岐阜に向かう電車なのだから混雑しないのは当たり前だと言われたが、それでも、見た分には名古屋に向かう電車の混雑すら東京の満員電車には及ばないと感じた。
むしろ、今となってはどの電車も大混雑という東京の環境が異常だったとさえ思える。
もう一つは、通学中の風景がけっこうお気に入りなところだ。
晴れている日は学校がある市の隣町の私鉄の駅から自転車で向かうのだが、窮屈に密集した戸建て住宅と、塀や生け垣で囲まれた広い屋敷がどこまでも続く荻窪の景観とは違う、変化にとんだ風景を楽しむことができるからだ。
駅を降りたとしてもJRの踏切を横断しなければならないことが不便に感じるときもあるが、古い町並みを眺めながら自転車をこぎ、その先の田園地帯で風を感じながら高校まで向かう、そういう日常は東京の区内に住んでいたら味わえないものに思える。
あと、この学校のセーラー服が割と気に入っていることだ。
学校の女友達は、口をそろえて地元の学校や自分の学校のことをネタにする。
「結局、この町の古参の高校ってさ、制服が中学と同じデザインなんだよね。だから制服代が胸当ての刺繍代金だけで済んだってこと以外には、あまりいいことないよね?」
とか、
「そうそう、特にうちの高校って新設校なのか古参の高校なのか、ちょっと分からんくらいの古さだよね」
しまいには、
「というよりも、この胸当てのカシオペア座の刺繍はいらんよね?」
といった具合だ。
だが、澪の感覚としては特徴があっていいじゃないかと思う。もしかしたら、北辰高校という校名にちなんだデザインではないか? そんな風にも思えるくらいだ。
周りの同級生からは奇妙に感じると言われたが、東京ではブレザーの制服が当たり前、地元の区立中学も大半が私服通学ということもあって、セーラー服は都心のお嬢様学校ぐらいでしかお目にかかれない。
それと同じタイプの制服を着ることが出来てちょっと得をした気分に浸れるのだ。
ここの女子達はセーラー服をダサいとぼやいたりもするが、それは東京の学生がブレザーをありきたりで物足りなく思うのと似た感覚なのかもしれない。
その感覚の違いも実は新鮮で興味深かったりする。
私生活でも大きな変化があった。
澪は今、名古屋市の中村区という地区に身を寄せている。
世話を引き受けてくれた叔父も、いい意味で放任主義的なところがあり、門限以外では基本的に干渉してこないのも澪にとってはありがたかった。もっと言えば、見兼ねた叔父が世話を引き受けてくれたおかげでこうして新しい土地での暮らしができているのだ。澪にとっては、感謝してもしきれない存在といえる。
とはいっても、下宿先の叔父宅は六畳間が二つとキッチン、トイレ、狭い浴室だけという小さいアパートのため、色々とやりづらそうにしていたり、気を遣わせてしまっていることを申し訳なく思ってしまうところもある。
こんなこともあった。
風呂上がりに、油断からか下着一枚の状態で玄関に直結していることを忘れて、キッチンで瓶入り牛乳を飲んでいた。その時、叔父が帰宅してしまって鉢合わせになったのだ。このとき澪は、目から火が出るほど恥ずかしい思いをしたうえ、お互いに気まずすぎて大変だった。
このハプニングで、狭い部屋で一緒に暮らすことの大変さを双方で実感したのだった。
だが、そういった環境の変化や刺激にもかかわらず、気分はいまいち晴れないでいた。
日々に張り合いが無いというか、やることが無くて気が抜けてしまっているような、そんな気分だ。
そのようなモヤモヤとした気分のまま、澪は北棟の四階へと足を運んでいた。
ここは澪が気分を晴らしたくなった時に行く場所でもある。
典型的な農村地帯に建つ高校のためか、昨年に完成したばかりだという川岸にそびえるランドマークタワーを除けば、周辺には視界を遮るような高い建物がほとんどない。そのおかげで、ここに来れば山並みが一望できるからだ。
澪は窓ガラス越しに外の景色を眺める。
――飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈の三つの山脈は日本の屋根と呼ばれている。
これは中等部時代に授業で教わったことだが、それを実際に見ることになるとは、その時は想像もしていなかった。
遥か遠くには、飛騨山脈の南端にあたる乗鞍岳がうすぼんやりとした輪郭でその姿をのぞかせている。
そこから目線をずらすと、飛騨と木曽の二つの山脈の間に立つようにして、御嶽山がそびえたっている。日本で二番目に高い独立峰でもあるその山体は、幾度もの噴火で複雑で凸凹した輪郭を描き、優美な富士山とは異なった、どこか見る者に畏れを抱かせるような威厳を感じる。
それでも、どこか惹きつけられる不思議な力を持っているようにも思える。
山を見ると気持ちが少し落ち着くという自分の性質を、澪は最近になって知った。
思い返せば、通学中の電車でも無意識なのか、車窓から見える伊吹山を眺めるのが日課になっているような所もある。
何か、自分の内に眠っていた未知の部分を覗いてしまった気分だ。
というよりも今まで気が付かなかった、といったほうが正確なのかもしれない。
そもそも、東京では密集して林立する建造物に気を取られてしまい、山は申し訳程度にしか意識できないのだから、じっくりと山を見ること自体が難しいと言える。
都会の繁華街に立地する、かつて通っていた学校から見える景色との違いを、澪はしみじみと感じるのだった。
「澪、やっぱりここにいたんだ。次、移動教室だから早くしないと放課の時間が終わっちゃうよ」
仲が良くなった同じクラスの女子生徒が澪を捜しに四階へと昇ってきた。
彼女の使う「放課」という言葉に、澪はまだ慣れることができないでいた。元いた東京では、この授業の合間の時間は「休み時間」というのが常識だからだ。
「何見てたの?」
「ちょっと外の景色を眺めてたの」
「えー? 景色? 外を見ても田んぼと山とタワーぐらいしか見えんでしょ?」
「でも、御嶽山が見えるって、けっこう良くない?」
澪の感想に、女友達は「窓の外を見ると、ここが田舎だってことが分かっちゃうから、正直言って微妙」とストレートな返しが来る。
その身も蓋もない返しには、さしもの澪も苦笑するしかなかった。
「でもさ、ここの景色が気に入ってるんだったら、業後にでもタワーの展望台にいってみたら? 澪って、ケッタでここまで通ってるんでしょ? それだったらタワーまですぐに行けるよ。堤防の上り坂がきついけど」
澪は、やはりこの地方独特の語彙には困惑してしまう。
なぜ放課後と言わないのか? この「業後」という言葉は教師ですら平気で用いているから余計に困惑する。そして、彼女がいま言葉にした「ケッタ」という珍妙な単語が自転車を指しているというのは、最近になってようやく理解できるようになったほどだ。
「それよりも、早く移動しようよ。次の授業の先生、気が短いんだからさ。あいつ、せっかちだからチャイムギリギリの時間だとキレてくるし。面倒なことは避けようよ」
女友達の呼びかけに、澪は「そうだね」と軽く答えてから、もう一度振り返って窓の外の世界を見た後、少女の後を追いかけて階段を降りていった。
帰宅した澪は、入浴を済ませた後、叔父からあてがってもらった六畳間でくつろいでいた。幸いにも、叔父はまだ仕事から帰宅していない。
東京の家では広めの洋室に置かれたベッドで寝ていた関係で、当初は畳に布団を敷いて寝起きするという、現在の生活スタイルに苦戦していた。
だが、慣れてくれば畳の感触もどこか心地よく感じてしまう。
壁には、今使っているセーラー服が吊るされている。
それを見ると、無性に愛知へと転居するまでのやり取りが想い起されてしまう。
自分が「もうあの学校にはいたくない」と言った時の、両親の落胆した顔。両親にそんな顔をさせてしまったことに対する自己嫌悪。
その後の、学校との不毛とも思えるやり取り。中退という、できれば避けたい事態も覚悟しかけたほど事は難航した。その時の疲れ切って、時に自分にきつく当たってきた両親の姿に、後悔と言うのもはばかられるほどの罪悪感を抱いた。
――間違っていたのは、自分の方だったのではないか?
長引いた事態で、そんな風に気持ちが挫けそうになっていた時、名古屋で暮らしている叔父が東京に戻って来て、兄である澪の父親に「もしかしたら、東京や周辺の県で次の学校を見つけるのは今の学校も先方も承知しないだろうから難しいかもしれない。面倒は俺がちゃんと見るから、愛知で探してはどうか?」と持ち掛けてきた。
両親は最初戸惑っていたが、名古屋に戻った叔父は、仕事の合間を縫ったり、休みを取ったりして、受け入れ先を探してくれた。とはいっても、それも簡単なことではなく、唯一編入可能だったのが、澪が現在通っている学校だったのだ。
編入できるタイミングを逃してしまうわけにはいかない、ということで難色を示していた東京の学校も何とか動いてくれ、他の生徒との鉢合わせを避けるために時間を後ろにずらして登校し、別室で自習すること、期末テストも別室を用意するから必ず受験すること、他の生徒とのトラブルを避けるために終業式には出席しないこと、などの確認を交わして、転校先に成績を引き継ぐ手続きをしてくれた。
もしかしたら、奇跡だったかもしれない。
いよいよ東京を去る時に、新幹線のホームで、両親に「ごめん」と「ありがとう」を言えなかったことを、今でも思い出してしまう。
――両親は自分のことを許してくれるのだろうか?
期待に応えられなかったことを悔やむ気持ちを抱き続けながらの故郷との別離となる、名古屋への旅だった。
押入れを開け、片隅の置いてある大きめのスポーツバックを引っ張り出す。
ファスナーを開けると、使い込まれた柔道着、少しボロくなった中央に白線がはしる黒帯が顔をのぞかせていた。
それをしばしの間見つめていた澪は、静かにファスナーを閉じて、スポーツバックを押し入れに再びしまったのだった。
昼休み中。
「それよりさ、澪って東京では何か部活やってたの?」
一緒に昼食をとっていた女友達が話題を振ってくる。
「柔道部に入ってたね。小さいときからやってたから。それで柔道部が強かった女子校の中等部に入ったんだ」
「へえ、それだったら何で転校しちゃったの?」
何気ない質問だったかもしれない、が、澪の身体が一瞬強張ってしまう。
友人の一人が、その質問をした少女の肘をたしなめるつもりで軽く突いた。
「あっ、ごめん。どうしても聞きたいってわけじゃないから別の話にする?」
「こっちこそ、何か気を遣わせてごめんね。実は私、部活やめちゃってさ。それであの学校に居づらくなっちゃって……」
澪は、動揺をしているような雰囲気を醸し出してはいる。だが、どこかそれでも言わなければならない、といったような意志がこもっている口調で続けた。
「確かに、稽古はきつかったし、中々勝てなかったこともあった。でも、中二の頃には都内でも上の大会に出場したり、優勝候補に勝って驚かせたりすることもあったのよ。あの時は本当に無我夢中だったけど、楽しかったなあ」
澪はどこか懐かしむような顔で空を見上げ、その思い出を語っていた。
「でも、高等部に上がったあたりから、何か違うって思うようになって。ずっと仲の良かった部活仲間がスランプっていうのかな? それでその子の部の中での扱いがどんどんひどくなったりして、なんで皆、あの子のこと助けてあげないの? 先生ももう少し相談に乗ってあげればいいのに、なんでそんなに冷たくできるの? 仲間だよね? それで、思いきって先生にもそのことを持ち掛けたんだ」
澪はさきほどとは対照的に、うつむき加減になってしまう。
「でも、その時にかえってきた返事は、人の事にかまう暇があったら自分のことに専念しろ、お前はあいつみたいに勝てなくなってもいいのか? この部の中で勝ち残らなきゃ試合には出れないんだぞ! 勝負の世界で仲間だとか甘えたことを言うな! だった。すごいショックだったのは覚えてる。それでも、その子に合間を縫ってそばにはいたんだけど、段々、部の皆から私への視線もひどくなってね……」
寂しさをたたえた澪の顔は、どこか思い詰めたような表情になっていた。
「あれ? 私達、一緒に稽古してる仲間じゃなかったの? 何で敵みたいに、蹴落とす相手みたいな扱いしてるの? そんな風に思えてきて。その時は、何のために柔道をやってるんだろ? とか何度も考えたし、先生の言ってることも、一緒に頑張ってきた仲間も、何もかも信じられなくなったりして、とにかくあの場から離れたい一心だったのよ」
語り終えたあと、しばらくの間、沈黙が続いていた。
「澪は、どうしたいと思ってるの? やっぱり、普通の女子高生やりたい感じ?」
「普通の女子高生も悪くないかも。でも、やっぱりずっと柔道漬けの毎日だったし」
友人の質問に、澪はどっちつかずとしか言えない返事をする。
「ならさ、いっぺんうちの学校の武道場にでも行ってみれば? 色々とボロいし、汚いところだけど」
「それはあんたが入ってる剣道部が掃除を真面目にやらんからでしょ?」
友人のツッコミに、剣道部の少女は「いや、掃除してるし」と反論する。
「でも、勝手に武道場に入っていいの? それに、この高校って、確か柔道部なしになってたよね?」
「まあ、こまかいことは気にしないで、覗いてきなよ。昼放課はまだあるしさ」
剣道部の少女は、澪の背中を押すように言う。
澪は、それでもこの「昼放課」という珍妙な言い回しには、やはり戸惑うのだった。
体育教官室で鍵を受け取った澪は、武道場の入り口を開けて中に足を踏み入れる。
スリッパを脱いでから道場に入る時、長年の習慣だったのか自然と立礼をしてしまっていた。
武道場は、よくある剣道場と柔道場で半分ずつスペースを使っているものだった。
柔道部専用の練習場所があった前の学校との違いに、澪は少しだけ意外性を感じる。
剣道部に所属している女友達の言う通り、どこかくたびれた印象を持つ。が、練習するには十分な環境のようにも思えた。
ソックスを脱いで裸足になり、柔道場の畳に立つ。これも元いた学校のような弾力性は無いが、それでもれっきとした柔道畳だった。
そのまま摺り足で赤畳を越え、中心まで歩を進める。
「うん、ちゃんと摩擦があって滑らないや。結構しっかりしてるじゃない。前の学校に比べると硬いけどさ」
その摩擦を確かめるように、足を忙しく動かしていく。柔道を始めた時から、ずっとこなしている体捌きと足捌きの練習が、やはり自然と動きにあらわれてくる。
「あれ? 意外とまだ動けるな。ずっとさぼってたのに」
調子が乗ってきたのか、流れに任せるまま、澪は捌きの練習を繰り返していた。
武道場には、畳の擦れる音が忙しく鳴り続けていく。
やがて、気が済んだのか、澪は動きを止めた。
しかし、その視線は、自分の足と、それが踏みしめている畳に向けられていた。
ソックスを履きなおし、立ち上がった澪は、ふと剣道場に掛けられている額縁に気を取られた。
「何だろう?」
澪は剣道場に入っていき、その額縁の近くまで寄っていく。
澪は武道場に掲げられている訓示のようなものに目を向けたままその場に佇んでいた。
――忍苦精進死して後已まむ者、入るべし。安臥逸楽の念あるは許さず。
――地下百尺に埋もるるの覺悟あらむ者、入るべし。濫りに名聞を願うは許さず。
――興廃の責を雙肩に擔はむ者、入るべし。免れて恥なきは許さず。
――進撃を知り退嬰を知らざる者、入るべし。怯懦にして畏怖するは許さず。
――敬虔にして禮譲篤き者、入るべし。居傲にして粗大なるは許さず。
――道友乳水の如く和合し苦楽を倶にせむ者、入るべし。獨善と利己の情あるは許さず。
そして、最後にはこう書かれていた。
――随順と信受の念切なる者、入るべし。小知と低理に拠るは許さず。
そこに書かれている内容はいまいちよく分からないものだった。
だが、彼女はなぜか眼を離せないでいる。
「あれ? 及川、どうしたんだ? 昼放課だってのに武道場で何してんの?」
同じクラスの男子生徒が、武道場に一礼をして入ってきた。たしか、昼食を一緒にとっていた少女と同じく、剣道部だったはずだ。
澪は彼に会釈すると、再び額縁に向き直る。
「ああ、これが気になるの? 何か昔、戦前だったかな? 名古屋にあった学校で柔道部の学生が作って道場に掲示した心得だって聞いてるよ。言葉遣いが古いから内容はあんまり分からんけど。ここの初代校長がそれを知ってたかなんかで、この学校の武道場にも掲示しようってことであるらしいよ?」
「ここって、柔道部が強かったの?」
「いいや、そんなに強くなかったと思うよ。まあ、柔道場の札を見る限りでは有段者も結構いたみたいだけど」
澪は、おもむろに隣に立つ男子に向き直る。
「ねえ、質問していいかな? 部活ってどうやったら結成できるの?」
そして、月日は流れ……。
澪は腰に巻いた、中央に一本の白線がはしる黒帯を力強く締めた。
「何だか不思議な感じだよね」
部室を共同で使用する剣道部の女子部員が、柔道着姿の澪を感慨深そうに眺めている。
「自分でも無茶したかな? って思えるわ。でも、一緒にやってみようって協力してくれた同級生がいたおかげで、こうやって柔道部が復活できてよかった。といっても、女子は私一人なんだけどね」
「大丈夫?」
「大丈夫なんじゃないかな。私、61㎏級っていう軽中量級で試合していたし。一応、体重別の試合には出場可能だって言われたし」
「そうじゃなくて、男子に混ざって稽古するって大丈夫かって話。怖くない?」
「案外そうでもないかな。隣のスペースで剣道部も稽古してるし、これまでの積み重ねかな? 今のところは立ち技でも寝技でも私のほうが強いから。まあ、男の子としては立ち技はともかく、寝技まで私に負けちゃうのは堪えちゃうかもだけど」
「……、むしろ、稽古とはいえ平気で男子を抑え込める図太さに驚きだよ?」
「そ、そうかな? 稽古だからそういうのは気にしないものだよ?」
澪はは頬を掻きながらお茶を濁す。
ふと、剣道部女子は、澪の黒帯に刺繍されている文字に目が留まった。
――知進撃而不知退嬰。
「これ、何?」
「帯に新しく刺繍してもらったんだ。中学時代からずっと使ってた、ちょっとボロな黒帯だけど、私の大事な帯だから」
「なんて読むの?」
「進撃を知りて退嬰を知らず。古文の先生に頼んで漢文っぽくしてもらったの」
「あ~、その言葉って、武道場にあるアレでしょ?」
「気づいた?」
「そりゃそうだ。眼に入る場所に掛けてあるからね、あの心得集は」
「でも、中々にいい言葉じゃない?」
「……ちょっと暑苦しくない? あの文章」
友人のつっこみに、澪は「確かに」と苦笑する。
「部室の施錠は私がやっておくから、先に剣道場に行ってて」
剣道部の友人が去った部室で、澪はスクールバックの中から、一枚の手紙を取り出す。宛先が荻窪の実家になっていた関係で、紆余曲折の末ようやく下宿先へと転送されてきたものだ。
差し出してくれたのは、かつて東京で苦楽を共にした、そしてスランプに陥って孤立を深めていた少女だ。
手紙を開いて、改めて中身を読みだす。
内容はとりとめがない。けれども、澪に向けた感謝の気持ち、自分が相変わらず苦しい立場に立たされていること、それでも、澪のことを案じていることを密かに自分に対して打ち明けてくれた仲間が何人もいることなどが綴られていたことは理解できた。
そして、手紙の末尾には、彼女の小さな、けれども強い決意をうかがわせてくれる言葉が大きく書かれていた。
――尽己竢成。
己を尽して成るを竢つ。柔道の創始者が精力善用、自他共栄とならんで示した言葉だ。己を尽くせ。その上で成功の時を待ち続けろ。という意味の訓示だ。
その手紙に、澪はこみあげてくるものを感じた。
彼女の存在は東京に残した悔いの一つだった。
自分は彼女を見捨ててしまったのではないか、彼女は逃げた自分を恨んでいるのではないか、そんなうしろめたさに澪はずっと追いまわされていたのだ。
そんな彼女が、勇気を振り絞り手紙を書いてくれた。
そして、その思いが今、澪のもとに届いている。
彼女も、自分と同じように闘っている。
それが「立て! 闘おう!」と自分を鼓舞してくれているように澪には思えた。
静かに、そして丁寧に手紙を封筒に入れ、それをバックにしまう。
それから、澪は武道場をめざして部室を後にした。




