初心な伯爵様が可愛すぎて今日も胸が痛い
「おい、お前。こっちへ来い」
気怠げに細められた紫の瞳、地を這うような低い声に、その場にいた使用人たちは顔を見合わせた。
伯爵家の次男、アルベール。
温厚な性格である長男ジゼルとは違い、彼の態度は冷酷で厳しいと使用人の間では評判だ。
しかし、アルベールに呼ばれた使用人マリーは、そんな彼の態度を特に気にも留めず、ゆっくりと近寄る。そして、そのままアルベールの後をついていけば、周りの使用人たちはヒソヒソと話し始めた。
その内容の多くは、マリーの身を案じるものや、二人の仲を疑うものばかりだ。
(うーん。私達の仲も、アルベール様の性格も、どれもこれも間違っているんだけどなあ)
わざわざ否定するのも面倒なので、聞こえないふりをする。それに、下世話な噂を立てられるだけで、実害はない。
そんなことよりも、マリーの頭の中はキラキラと輝く洋菓子のことでいっぱいだった。
(ああ、今日はいったいどんな素敵な洋菓子たちが私を待っているのかしら)
そうして、マリーは浮かれた足取りで、アルベールの部屋へと向かったのだった。
「わあぁっ…!」
部屋に入った瞬間、マリーが歓喜の声をあげる。
部屋の中央にあるテーブルの上にはケーキにマカロン…と色とりどりの洋菓子が並べられていた。どれもこれも、マリーが自分では買えない代物ばかりだ。
テーブルの前にある二人掛けのソファーに腰掛け、キラキラと目を輝かせる。
(どれから食べようかなぁ。ケーキは最後にするとして、やっぱりここはマカロンから? いやでも、チョコレートクッキーも捨てがたい。ああ、決められない!)
なかなか選ばないことに痺れを切らしたのか、隣に腰掛けたアルベールが早くしろと急かす。うるさいやつだと思いながらも、その中の一つを手に取り、口へと運んだ。
その瞬間、舌の上に広がる幸せな甘みに頬が緩んでいくのが分かった。
「んん〜っ!」
「……お気に召したようで何よりだよ」
幸せとばかりの表情を浮かべていれば、アルベールの穏やかな声が聞こえた。
隣に座るアルベールを見れば、彼は自分で淹れた紅茶を飲んでいる。よし、後で一杯貰おう。と、マリーはそんなことを考えながら、次の洋菓子へと手を伸ばした。
本来であれば、主人の横に使用人が座ることも、主人自ら紅茶を用意することも、あり得ないことなのだが、二人の間ではそんなことは問題ではない。
「ほれで? ひょうはどうひまふか?」
「食べながら話すな、行儀が悪い」
もう少し味わいたかったが、仕方ない。
アルベールの言葉に、マリーは口の中のものをグッと飲み込む。
「……それで? 今日は一体どんなことをします?」
その言葉に、アルベールは首を傾げた。
(おいおい、本来の目的をお忘れか? 何のために下世話な噂話にも耐えて、部屋に出入りしていると……まあ、美味しいものが食べられるからそこは気にしていないけど)
マリーはわざとらしく咳払いをしてから、人差し指を差し出す。
「特訓ですよ! 特訓! 女性慣れの特訓をするためにこうしてアルベール様の部屋に来ているのではありませんか」
その言葉にアルベールは「ああ」と納得したような声を漏らす。
「まさか本気で忘れてたのですか?」
「……忘れてなんかない。お前のその間抜け面に気を取られて、一瞬頭から抜けていただけだ」
間抜け面とは失礼な。むしろ大事な特訓のことが頭から抜けていた方が、間抜けだと思う。まあ、そんなことは口が裂けても言えないが。
マリーがアルベールの特訓に付き合うことになったのは、少し前からだ。どうやらアルベールは女性耐性がまったくないらしく、こんなことでは将来が心配のため、練習相手になってほしいと話を持ちかけられた。
その代わりに好きなだけ洋菓子を食べさせてやると。
アルベールからその話を持ちかけられた時は何故自分が? と思ったが、美味しいものが食べられるのなら、まあいいか。と、マリーは二つ返事で了承した。
そうして、今に至る。
「先週は目を合わせる練習でしたっけ? そろそろハグの練習ぐらいしときます?」
「ハグ?!」
信じられないといった表情を見せるアルベール。
(ハグひとつでそこまで動揺されるとは思っていなかったんですが……)
「……ハグはまだはやいだろう。ハグは」
耳まで赤いアルベールに、マリーは呆れた。
(噂とは違う初心なところが可愛いと思っていたけど、そろそろ本格的にまずいかもしれない。このままでは一生独り身では?)
この容姿に血筋で、独り身なんて宝の持ち腐れすぎる。
(何とかして、それだけは回避しないと…!アルベール様の未来は私にかかっているのだ。多少はスパルタでいくしかないな)
「では、今日は手を握ってみましょうか」
そう言って自身の右手をアルベールへと差し出す。手を繋ぐぐらい、子供でもできることだ。流石のアルベールも、抱擁や口付けはまだ無理でも、この課題は簡単にクリアするだろう。
「──っ!」
しかし、当のアルベール本人は顔を真っ赤にしながら慌てふためいている。
手を出してはひっこめ、また手を出してはひっこめ……その繰り返しだ。そうして、ようやくと思ったらマリーの掌に自身の二本の指をちょこんと乗せただけで終わってしまった。
特訓中、つい使用人らしからぬ態度をとってしまうことに対して、アルベールは構わない、むしろその方がいいと言った。
なので、お言葉に甘えて今回もはっきりと言わせてもらおう。と、マリーはゆっくりと口を開いた。
「舐めてます?」
その言葉にアルベールの赤い顔が更に赤くなる。そんな様子を見て、マリーの心臓がギュンっと音が鳴る。怒りや呆れよりもときめきが勝ってしまった。
「う、うるさいぞ!」
「手を繋ぐぐらい子供でもできるんですよ、何ですかコレは」
「……ぐっ…ま、待て。もうすこし時間をかければ…」
顔を真っ赤にしながら一生懸命に頑張るその姿は、愛らしい。その姿を見つめていると、ふと、マリーの中によくない感情が芽生えた。
(──このまま、手にキスをしたらどうなるのだろうか。)
一度そう思うと、止められない。よくないと分かってはいるが、アルベールの可愛さを前にマリーのテンションはおかしくなっていた。
「アルベール様」
未だ手を握ることに苦戦しているアルベールの名前を呼べば、目の前の端正な顔がきょとんと瞬きをする。これなら何をされるかまるでわかっていない、そんな間抜けな表情に心臓がギュッと掴まれる。
(ダメだって分かってはいるけど、いるのだけど──)
もうこの思いは止められそうにない。そして、自身の手に重ねられたアルベールの手を取って、そのまま手の甲に、チュっとキスを落とした。
「──なっ?!」
唇が触れた瞬間、ギシッと音が聞こえてきそうなぐらいに、強張り、固まってしまったアルベール。そんな様子を見て、マリーはどこか嬉しそうだ。
「わあ、茹で蛸みたいですね!」
「お、おお、お前…なんで…っ?!」
「つい、出来心で」
「つい?!」
アルベールは目を見開いて、はくはくと唇を震わせる。そんな様子にマリーはきょとんとした表情で、首を傾げた。
「この世の女は全て抱いてきた、みたいな容姿をされているのですから、これぐらいでそんなに驚かれなくても…」
「どんな容姿だそれは!」
目の前に鏡を持ってきて見せてあげたい、こんな容姿ですよと。そんな心情を悟ったのか、アルベールは肩をわなわなと震わせて、叫んだ。
「〜〜〜今日はもう終わりだ!」
制止の言葉も無視して、強引に肩を押される。そして、そのまま部屋から放り出されてしまった。
(流石にやりすぎちゃったか。反省、反省と。……でも、あの時のアルベール様の顔、とっても可愛かったなぁ)
茹で蛸のような真っ赤な顔、大声で怒鳴っていたけれど、ちっとも怖くはなくて。
思い出しただけで、マリーは自身の頬が緩むのがわかった。
(今度はどんなことして驚かせようかな)
少しずつアルベールとの特訓の時間が楽しいものになっていることを感じながら、マリーは鼻歌まじりに、その場を去っていった。
♢♢♢♢
数日後、マリーは信じられない光景を目にした。
(嘘でしょ…?!)
その日、ジゼルの婚約者であるリリアナが屋敷へとやってきた。ジゼルの侍女の手伝いで、お茶を部屋へと運んだマリーは目の前の光景に言葉を失った。
なぜなら部屋の中で、アルベールとリリアナが仲睦まじく会話をしていたからだ。仲睦まじいといっても、男女の仲を疑うようなものではない。ごく一般的な距離感ではある。
しかし、あのアルベールが兄の婚約者とはいえ、女性を前にして、赤面をしていないという事実に、思わずマリーは手に持っていたカップを落としそうになった。
(最初の頃は目を合わせるだけで、固まっていたアルベール様があんなに楽しそうに……?!)
「ああ、マリーも。わざわざ悪いね」
マリーの存在に気づいたジゼルが礼を言う。その様子に、アルベールも気付き、そして、マリー見て、罰が悪そうに目を逸らした。
(目を逸らしやがった……!)
文句の一つでも言いたいところだが、流石にこの状況ではそれも叶わない。拳を握って耐えていれば、ジゼルが首を傾げた。
「マリー? どうかしたかい?」
「……いえ、失礼いたします」
一礼して、マリーは部屋を後にする。
(後で覚えてろよ、アルベール様め)
扉が閉まる直前、ちらりと一瞬こちらを見たアルベールをしっかりと睨みつけながら。
「一体あれはどういうことですか、アルベール様」
リリアナが帰宅後、アルベールの部屋でマリーが問い詰める。
「……あれは、その…」
先ほど見た光景が脳裏に焼きついて離れない。
和やかな雰囲気で談笑するアルベールとリリアナの姿。リリアナに見つめられていようが、微笑みかけられていようが、アルベールの顔は、至って普通だった。
「特訓といいながら、私に散々あんなことしておいて、全て遊びだったのですか?!」
「誤解を招く言い方はやめろ!」
マリーの顔がむくれる。アルベールの将来を案じて(八割は洋菓子のためでもあったが)、日々特訓に付き合ってきたというのに、この仕打ちはあんまりだ。
「……遊びなどではない」
「では、どういうことですか! 私と触れるだけであんなに顔を真っ赤にしていたというのに、リリアナ様の前では普通だったではありませんか!」
「そ、それは…」
「それはなんですか? 理由をお答えください!」
正直に話さないと納得しないといったマリーの表情に、アルベールは観念したかのようにボソリと呟いた。
「──好きな女の前では、誰だってああなるだろ」
そう言ってそっぽを向いたアルベールの耳まで、真っ赤に染まっていた。
予想外の言葉にマリーは目を丸くした。
「好きな女?」
「……ああ」
「え? アルベール様、好きな女性いたのですか?」
「〜〜っ察しが悪いな! お前を好きだと言っているんだ!」
そっぽを向いていたアルベールが耐えきれず、勢いよくこちらを向く。アルベールの言動に色々と処理が追いつかず、マリーは、ぱちぱちと瞬きすることしかできなかった。
(アルベール様が私を好き? いやいや、そんなわけあるはずない。どうせ私を揶揄って遊んでいるだけ……)
文句を言おうと口を開いたが、こちらを見つめるアルベールの真剣な表情に思わず言葉を詰まらせた。
しかし、使用人と伯爵家次男。この身分差では、たとえ、当人たちが想い合っていても、叶うことなどない。あり得ない話だ。
「……身分差考えてくださいよ」
「関係ない」
「いやいや、関係大アリでしょう」
「父上も好きにしていいと言っている」
(まじかよ旦那様。いやいや、それでもこの容姿にこの家柄よ? 私なんかと結ばれていいはずないでしょ)
マリーの心情を察したのか、アルベールの表情が強張る。
「僕のこと、どう思ってる?」
「そ、そりゃよくしていただいた恩もありますし、決して嫌ではないですけど、でも、私とアルベール様では…」
「じゃあ、問題ないな」
「人の話聞いてました?!」
「嫌ではないのだろう?」
(確かにそうは言ったけど、大事なのはその後で……)
マリーは思わず頭を抱えた。
「今すぐにどうこうしようとは思わない、時間はたっぷりあるしな。だが、本気で僕とのことを考えてみてくれ」
いつもの態度とは違う少し強気なアルベールに、困惑しつつも、マリーはずっと気になっていたことを聞いた。
「そもそも、アルベール様はどうして私を?」
「……いつも、にこにこしてるだろ」
「そんな女性なら山ほどいますが」
じっとアルベールを見つめれば、言いたくないのか、口をもごもごとさせている。それでも引かずに待っていれば、観念したかのように口を開いた。
「………食事をするときに、幸せそうに食べる姿が、か、かわいいなって思ったからだ…」
「え、だからいつも私が洋菓子を食べている姿を黙って見てたのですか」
「……そうだ」
「というかもしかして、特訓の話を持ちかけたのって、私の食べる姿が見たかったからですか?」
「それもあるし、単純に一緒にいられる時間が増えるだろ…」
「めっちゃ私のこと好きじゃないですか」
先ほどまでの強気な態度はどこへ、頬を真っ赤に染めて黙り込んだアルベールを見て、マリーは口元を押さえる。
(……可愛い、可愛すぎる!)
特訓に付き合っていた時も思っていたが、冷酷だと噂される彼の素顔は実に愛らしい。にこにこと微笑めば、じろりと睨まれる。しかし、そんな真っ赤な顔で睨まれても、マリーはちっとも怖くなかった。
むしろもっと可愛い姿が見たい、とマリーの心はその気持ちでいっぱいだ。
「ねえ、アルベール様」
アルベールの手をそっと握り、踵を宙に浮かす。それに気づいたアルベールが少し屈めば、彼の耳元に口を寄せた。
「これからはお前、じゃなくて、マリーって呼んでくださいね」
そのまま頬に口付ければ、アルベールの顔がより一層赤く染まる。──ああ、やっぱり強気な態度よりも彼にはこっちの方がよく似合う。
アルベールの言った通り、時間はたっぷりあるようなので、これからもっともっと彼の愛らしい姿を見せてもらおう。
好きな女性には奥手なアルベールのことだ、きっと何をしても可愛らしい反応をしてくれるだろう。
マリーはこれからのことを考えて、にやりと笑った。