若者だけで教育改革だったり、大人の意識改革とか言うのは果たして出来るのだろうか?
以前、私はとあるエッセイを書きました。
タイトルは「くだならいZ世代批判へのZ世代の苦悩」というエッセイです。
内容を要約すると、現状のZ世代が常識に欠けたり、道徳に欠けたりするのは、それは大人側の教育的失敗であったりと、一概にZ世代のせいとはいえない。けれど、教育改革をしようとする大人はいないし、そもそも子供だけでは何も出来ない。もう詰みですね、といった感じです。
このようなエッセイを投稿して幾日か、こういった意見が届きます。
『負け犬は皆同じ言い訳してるよ(笑)
自分にはどうしようもないから仕方ないってね』
人のコメントを晒すな、と言われるかも知れませんが、今回の本題はコレなので仕方ありません。
しかし、一応謝っておきます。
ごめんなさい。
さて、この感想への返答を考えている内にふと思ったのです。
「待てよ、子供だけで改革する方法は本当にないのか?」と。
と言うことで、今回は子供による子供のための教育改革、そして大人の意識改革が可能なのかどうかを考えていこうと思います。
どうぞ、お時間があれば宜しくお願い致します。
まず、初めに学生運動というのが私の脳裏に浮かびます。
しかし、これは酷く現実的ではない。
時代柄的に、暴力的というのは忌避される傾向にあるでしょう。
それに、きっと大人の方々はこう言います。
「現代の若者は凶暴だ」
これは私の望むところではない訳です。
私としては一介の人として見て欲しいだけなので。
それに、教育改革というのも現実的ではないでしょう。
今は昔、全共闘という組織があったと思うが、あれの暴力的改革が成功したかと言えば、甚だ疑問が残ります。
中央大ではいけたらしいのだけど、それでも”珍しく”と言葉がつくのです。
思うに、暴力革命と言いましょうか……。
これは些か日本のお国柄に合わないのでしょう。
これで学生運動というのがナンセンスなことが分かりました。
ですから、これ以外の方法が何かある筈です。
私が脳味噌を必死に回し、そして思いつきました。
子供という価値を利用して、世間様に訴えたらどうであろうか?
しかし、これもちょっと難しい。
具体的にどうして難しいのか、というと説明が出来ないのですが……。
現状社会においては、子供は軽く見られる傾向があると思います。
ですから、そういった教育であるとかを定める側の大人は、真面に取り合わないのかな、という気がするのです。
実際に行動をしてみたら違う可能性もありますが……。
子供による変革の難しさの指標というか、それの示唆になるような小話をしましょう。聞く話によれば何処かの学校では男女で体育を混合でやっているそうです。
私が思うに、これは何とも馬鹿らしいことです。
一体どんな大義名分があって、どんな意義があるのか、そんなものは微塵も知りません。というか、興味もありません。
けれど、そのどれもが子供のことを考えていないのは、確実と言えましょう。
ジェンダーレスと言うのでしょうかね? 所謂大人のエゴイズムの押しつけでしょう。
子供側というのは、基本的に性別であるとかを気にするはずがないでしょう。
逆に怪我をさせる可能性を恐れ、まともに体育が出来ない。
所詮子供と言っても、男女という明確な能力差があるのです。身体能力の。
さて、まあ、これでこの子供の訴えも無意味だと分かりましょう。
教育を定める側が、エゴイズムを押しつけるような組織なのですから。
続いて別の方法も考えましょう。
とは言っても、私に思いつくギリ効果のありそうな策は既に尽きました。
あと残ったのは、全く以て意味のない方法です。
簡単に言えば、若者をひとまとめにして中傷する人を嘲笑するというもの。
しかし、これでは教育改革も出来ないでしょうし、ましてや意識改革なんて無理でしょう。
だって、現状の大人の一部の方々には、若者に一方的な暴言を言うことを恥ずかしいとは考えない人が居るのですからね。
これではどうしようもない。
さて、まとめましょう。
結論としては、若者による教育改革、大人の意識改革はそもそもとして不可能と考えられる。
再度「負け犬」と嘲笑されるかも知れませんが、まあそれもご尤も。
もう世の中どうしようもない。
しかし、ふと思いましたが現在嘲笑をしている世代が消えた後の話です。ゆとりとかZ世代と言われる世代が、もし仮に今の苦痛を大人になっても覚えていると言うのであれば、子供のための社会改革が可能なのかも知れません。
それが果たして若年層による変革と言えるのかは別としといて。