29輪 白薔薇の密談
水晶宮の四阿の薔薇は最盛期を過ぎたものの、これから咲く蕾もいくらか残っており、まだしばらくは優美さを申し分なく楽しめそうだった。
咲き進んだ花弁からは色が抜け、淡いピンクから乳白色へと移ろっている。さらに数日をかけて、乳白色は四阿の翡翠と同じ白緑へと変化していく。この色の移ろいを楽しむのも、薔薇を愛でる醍醐味の一つだ。
皇太子のホワイトブロンドが薔薇の色彩に溶け込んでいるのを眺めやりながら、ロザリーは深紅のベルベットケーキを口へと運んだ。チョコレートとバターミルクによって生み出される鮮やかな赤と薫り高い風味が、甘さと共に舌の上ですんなりと溶けていく。
ケーキの上質な口当たりに満足して、ロザリーは唇についた甘酸っぱいチーズクリームをそっとナプキンで拭きとった。
「意外と、贈り物の趣味がよろしくていらっしゃいますのね」
「それは、わたしのことかな。それとも彼のことかな」
ジェイデンは微笑で返して、ティーカップを口元へと運ぶ。ロザリーはカップで隠れた相手の表情を窺うように首を傾けて、目を弓なりに細めた。
「見ましてよ、彼女の髪飾り。遠慮をしているのか、まだわたくしの前では着けてくれませんけれど。毎日眺めて、ずいぶんと大事にしているようですわ。白い薔薇だなんて、独占欲がお強いこと」
白薔薇は、純潔や一途な愛を象徴する。なおかつ、皇室の白薔薇とまで謳われる人物がわざわざ選んで贈ったとなれば、それ以上の意味が察せられようというものだ。
「愛する女性に清くあって欲しいと思うのは、ごく自然なことだ」
ジェイデンは揶揄に少しも動じず、唇から離したカップを軽く揺すって言った。それがロザリーの目には滑稽に映った。笑い出しそうな口元を、扇でそっと押さえつける。
「女性の髪にご自分の髪と同じ色の花──ぞっとするほど重い愛ですわね」
ロザリーが堪えた分の笑いまで引き受けるように、ジェイデンは声を立てて笑った。震える手でお茶をこぼさぬよう、ティーカップをソーサーへと戻す。
ジェイデンから見れば、自ら差し出したものに手を出されて怒るロザリーこそ滑稽だった。
その内心を直裁的に表現はせず、ジェイデンは勢いをつけて立ち上がった。テーブルの縁に手を這わせて、数歩の距離を優雅に回り込む。首を捻って警戒する侯爵令嬢の背後へ立つと、肩口から指を伸ばして彼女の耳元の髪を持ち上げた。
「彼の瞳と同色の耳飾りをして言う台詞ではないな」
ロザリーは眼差しを剣呑にした。扇を持っていない方の手で、ジェイデンの手を振り払って片耳を覆う。垂れ落ちるバターブロンドに隠れていた耳たぶには、蜂蜜色の小さな石がささやかに輝いていた。
「あなたのそういうところ、本当に腹が立ちますわね」
ロザリーが苛立ちを表したので、ジェイデンは勝ち誇って顎をそびやかした。
「わたしたちは芯まで同類ということだ。それとて彼から贈られたものだろう」
「なぜ、そう思いまして」
「君に似合っていない」
ジェイデンが即答し、ロザリーの瞳の剣呑さが増す。皇太子はますます愉快に目を細めて、侯爵令嬢の椅子の背もたれに片手をついた。
「もう少し華やかな意匠ならまだしも、その色でその大きさの石では君の髪にも肌にも馴染み過ぎてまるで映えない。君の美的感覚に一致するものでは到底あるまい。それをあえて選んで身に着けているのならば、美意識を上回るだけの価値があるということだ」
流暢な論理展開に、ロザリーは押し黙った。すべて図星だった。他人に思考を読まれるのは元々好かないが、ジェイデンにここまで見抜かれるのはことさら気に食わない。
ロザリーの批難がましい眼差しを受け、ジェイデンはさらにおかしがって喉をくつくつと鳴らした。
「彼には、もう少しまともな色彩感覚を教え込むべきかな。自分の瞳と同じ色だと分かっているかも怪しいところだ」
背もたれについた腕を曲げ、ジェイデンは上体を屈めた。片耳を覆っているロザリーの手をつかまえ、こめかみに唇を寄せる。
「君は怒った顔が一番そそるな」
「わたくしをやり込めたのが嬉しいだけなのでしょう、あなたは」
ロザリーが横目に睨み据えると、ジェイデンは吐息を震わせて笑った。
「君は、わたしが二人と親しくするのが気に入らないようだが、そもそもこの協定が君の発案であることを忘れているのではないか。そうやって嫉妬するくらいなら、久しぶりに君もわたしと恋人のおこないでもしてみるかい」
背もたれに置かれていたジェイデンの手が滑り、肩口から体の前へと伸ばされた。指先は蜂蜜色の石が光る耳の縁を数度撫でてから、ロザリーの顎の線を辿る。細い顎先をつかんでロザリーを仰向かせ、ジェイデンはさらに上体を沈めて顔を寄せた。
唇が触れあう寸前、二人の顔の間に扇が差し込まれた。
「悪ふざけはそれくらいにしていただけますかしら。はしゃぎ過ぎでしてよ」
開いた扇の厚み分だけを隔て、ロザリーはわずかの動揺もなく囁いた。口づけを阻まれたジェイデンは、鼻先を扇のレースに擦りつけて囁き返す。
「恋人のキスは初めてではなかったはずだが?」
「あなたとわたくしが恋人だったことは、一瞬たりともありません」
「婚約者と恋人を同義としないのならばね」
「本当に同義なら、気持ち一つで婚約破棄も容易くできますわね。新春の宴での派手な演出は、なんのためになさったのかしら」
扇のレースが両面から吐息を受けて、ほのかに湿る。レースの上から覗くジェイデンの鳩羽色の瞳に嘲りが混じった。
「キスが恋人だけに許された行為だとでも?」
「恋人のおこないと言ったのは、そちらです」
「それでもわたしがキスをしたいと言ったら?」
「この協定はなかったことに。彼女に害虫が寄りつかぬよう、わたくしが大切に囲うことにいたします」
ロザリーの宣言にジェイデンは噴き出し、身を引いて大笑いした。ロザリーの肩に回していた腕を未練なく引っ込め、向かいの席へと戻る。
胸元に落ちた長髪を背中へ払い、呆れとも落胆ともつかないつかない目つきで皇太子は元婚約者を見やった。
「まったく。男女問わず誰もがこぞってわたしとキスをしたがるというのに、君ときたら。この次は、もっと美辞麗句を用意して臨むことにしよう」
ジェイデンの声音も態度も普段通りに戻った。ロザリーは湿気を払うように扇を振って鼻で笑う。
「無駄な労力を使われるより、こぞっておみえになる方々にキスをして差し上げたらよろしいですわ」
「あいにくと、自分を安くは売らない主義でね」
「同意なくキスをしようとした口からそんな言葉が出るだなんて驚きですわね」
「同意ないキスをしていないのだから、なんら問題はない」
まるで寸前までのおこないがなかったかのように、ジェイデンはしれっと言う。ロザリーは湿った扇を口元に持っていく気になれず、代わりに反対の手で頬にかかる髪を軽く引っ張った。
「そう熟れていらっしゃるのでは、鉄壁との評判も怪しいですこと」
ティーカップを口元に持っていきかけていたジェイデンの手が止まった。
「なんの話だ?」
ジェイデンの声と眉間にかすかな警戒が浮かんだ。
彼の表情をわずかにでも曇らせたことで、ロザリーはいくらか溜飲を下げた。とはいえ、揶揄い侮られた分をやり返せたわけではない。仕返しの機会はまたいずれ窺うことを心に決めて、ロザリーは目を笑みの形にした。
「鉄壁な皇太子とそれを陥落した従兄の噂が、クレイブン校内で再燃しているそうですわよ」
「いまだにそんな碌でもない噂を好んでいるのか、あそこの学生は。まるで進歩がない」
お茶が急に渋くなったかのような顔で、ジェイデンはカップに口をつける。いかにも苦々しそうな彼のようすが、ロザリーには愉快だった。
「悪い評判ではないのですから、よろしいではありませんか。殿下が皇位をお継ぎになったあとに、政治の表舞台に立つのは彼らですもの。今の内から支持を集めておくのは、大切ではありませんこと」
「なおのこと悪い。いつまでも従兄と番いのように語られてはたまらない」
嫌悪感を隠しもせずに、ジェイデンはため息をついた。
「君との婚約破棄のせいだな。まさか、そんなところへ影響が出るとは。どちらにも異性の存在があることを、早めに広く示す必要がありそうだ」
本気で嫌そうなジェイデンの態度が、ロザリーはおかしくてたまらなかった。
寄宿学校という特性上、クレイブン校の内と外とでは広まる話題にどうしても一定の隔たりがある。校内の情報をもたらしてくれた弟に感謝せねばならない。
ジェイデンの苦々しい顔にたいそう満足したロザリーは、これで仕返しは勘弁してあげてもいい気分になった。
「焦る必要はありませんわ。そのために、わたくしたちは手を結びましたのよ」
ジェイデンとは正反対の上機嫌さで言って、ロザリーは小さな耳飾りにそっと指を添えた。
「念願が叶うのも、きっとそれほど遠くありませんわ」
咲き進んで色の抜けた蔓薔薇が、四阿の柱の陰で強く香った。
お読みいただきありがとうございます。
ページ下部のフォームよりブックマーク、☆評価、感想などいただけましたら励みになります。
ぜひ引き続きお楽しみ下さいませ!





