11輪 砂糖の薔薇の密談
ロザリーは扇を口元に押し当て、目の前に置かれた薔薇模様の縁どりのある皿を見下ろした。
皿の中央には、砂糖細工でさらに緻密な薔薇の描かれたクッキーが秩序よく並んでいた。それにすぐには手をつけず、ロザリーは無言のまま正面へと目線を上げる。そこでは、蕾の膨らんだ蔓薔薇を背景に、美貌の皇太子が満面の笑みで座っていた。
皇太子ジェイデンがロザリーを呼び出したのは、前回と同様、水晶宮の四阿だった。今後も彼と二人で会うときには、この薔薇の香気が満ちる温室にくることになるのだろう。
大抵の女性は立ちどころにのぼせてしまうだろう皇太子の笑顔を見据え、ロザリーはわざと相手に聞こえるよう大げさなため息をついた。
「……そのだらしのないお顔、やめていただけますかしら」
ロザリーが眉間に不快感を表すと、ジェイデンはむしろさらに笑顔を輝かせた。
「楽しい気分のときに楽しい顔して悪いことはない」
「彼女と話せて、たいへん機嫌がよろしいのはよく分かりましたわ」
「あの時分に彼女があそこにいたのは、君の差し金だろう?」
確信のこもった問いかけに、ロザリーはお茶を口に含んで沈黙を貫いた。ジェイデンは誰をも魅了する笑顔のまま、相手を探る剣呑さを瞳にちらつかせた。
「わたしの公務日程を君に流したのは、彼かな」
「だとしたら、どうなさいます?」
「公表されている以上の内容を漏洩したとなれば、処分は免れまい」
至極真っ当な皇太子の言にロザリーは怯むことなく、牽制の微笑を湛えて見詰め返した。
「でしたら、仕方ありませんわね。彼は諦めて、わたくしは彼女が二度とあなたの目に触れぬよう、手元で大切に囲うことにいたします」
ジェイデンは片眉を跳ね上げた。
「囲いから連れ出す力が、わたしにないとでも?」
「殿下がご自身の流儀を曲げて行動されるのであれば、わたくしも相応の対処をするだけです。それで彼女が喜んであなたの手に入るとは、到底思えませんけれど」
脅しには脅しで返す。互いにその手札を持っていることを、ジェイデンが分かっていないはずもない。案の定、彼は軽く鼻を鳴らして簡単に引き下がった。
「本当に厄介な女性だな、君は」
降参の証しに両手を軽く上げて、ジェイデンは肩をすくめる。
「彼も情報の内容は吟味しているようだし、ひとまずは見て見ぬ振りをしていよう。それで彼女との接触機会が増えるのであれば、わたしにとって悪いことではない」
「ご理解いただけて嬉しいですわ」
ロザリーは目を細めて極上の笑顔を作った。ジェイデンは眼差しの険を絶やさず、「ただ――」とつけ加えるように続けた。
「彼女を使いにやる先にあの店を選んだのは、意図あってのことかは問いたい――皇王の膝元であのような差別が、いまだに公然とまかり通っているとは」
皇太子の笑顔で厚塗りした不機嫌さの原因が分かり、ロザリーは胸の内で、やはり、と考えた。
ミンディのようすから、外出先でなにがあったかの見当はついていたが、これで裏づけがとれた。
彼女が頑なに隠したのは矜持や悪意からではなく、個人の問題でロザリーをわずらわせたくなかったゆえだろう。そのいじらしさが可愛くはあるが、ロザリーとしてはもう少し甘えて欲しいとも思うのだった。
作り笑顔を引っ込めたロザリーは相変わらずクッキーには手を伸ばさず、お茶で喉を潤した。
「あそこ店主は北部のご出身ですものね。北の方は頭の固いお年寄りの皆様がまだまだお元気ですし、フィーユの離島からも地理的に遠いですから。差別も強くなりやすいのでしょう」
「それを分かっていて彼女に行かせたのだとしたら、わたしは君を支持しない」
ジェイデンが批難がましく言うのが、ロザリーにはなんだかおかしかった。彼がこれほど分かりやすい形で心情を見せるなど、非常に希少だ。
ロザリーは愉快さを苦笑に隠して、「まさか」と低く返した。
「分かりはしませんわ。価値観や意識は個人によりますもの。出身地である程度の傾向が出るのは事実ですけれど、それによって別の先入観が生じれば、また偏見と呼べるものになりますわ」
ジェイデンの顔から表情が消えた。細められた目の奥に浮かぶ批判の色が、濃さを増す。
けれど、どれほどジェイデンに睨まれようとも、これはロザリーの嘘偽りない思いだった。
だが彼の求める返答でないことも分かっているので、さらに言葉を継ぐ。
「彼女はいずれ、ノヴァーリス中から注目される女性になります。そうなる前に、越えるべきものに目を向けなければなりません。彼女の存在と居場所を守るために。いつまでも、わたくしが守れるわけではありませんもの」
これは、ロザリーからジェイデンへの投げかけだ。
彼がミンディを妃にと望むのは構わない。しかしそれが実現したとき、ミンディの抱えるものが皇太子にも降りかかることになる。
皇后は通例的に各地方から順番に擁立されるので、フィーユ民族が皇室に嫁いだ例はある。けれどもジェイデンの妃は、習わし通りならばシュラブ地方出身者でなくてはならない。
ミンディはシュラブ地方の子爵家の娘だ。一見して問題はない。家柄が少々劣るくらいはどうとでもなる。だが、フィーユ民族の特徴が色濃い彼女が、シュラブ地方の代表のような妃の地位に立てば、心ない言葉を浴びせる者が必ず現れる。これはどう足掻こうと避けようがない。
実際にそれが起きたとき、誹謗と中傷の渦中に身を投じてミンディを守りきる覚悟が彼にあるか。ロザリーはそれを知りたかった。
「……舐められたものだな」
吐息に紛れるほどの声量で、ジェイデンは呟いた。無表情だった口角が、かすかに上がる。
「わたしはもう少し、君に信用されていると思っていた」
落胆とも失望ともとれる感情を滲ませた皇太子の眼差しを、ロザリーは少しの感慨もなく見詰め返した。
「わたくしは一度たりとも、あなたを心から信用したことなどありません。他人を信用できないお人が、他人から信用されるとお思いなら、虫がよすぎましてよ」
ただの事実として、ロザリーは淡々と告げる。それでかえって開き直ったジェイデンは、目を伏せて笑った。
「返す言葉もない。一番の協力者が、一番の障害とは。なかなかの傑作だ」
「当然ですわね。半端な男性に、彼女を任せられるはずもありませんわ」
「一国の皇太子をつかまえて半端だと言い放てるのは、君くらいなものだ。君には、皇太子よりも侍女の方がよほど重要らしい」
いつも通りのジェイデンの当てこすりに、ロザリーは顎をそびやかして彼を睥睨した。やはりこの皇太子は、どうあってもいけ好かない。
「殿下も、侍衛をずいぶんと手懐けているではありませんか」
「わたしは、なにもしていない」
「彼、わたくしの話をすべてあなたに繋げますのよ」
ロザリーが率直な批難を浴びせれば、ジェイデンの目が愉快げに細まった。
「不満かい?」
「あなたがわたくしに感じていらっしゃる程度には。彼のあなたへのこだわりようは、忠誠心と呼ぶには少し毛色が違いませんこと」
「爛れた関係では困るということか」
扇を顎に当てて、ロザリーはいっそう鋭くジェイデンを睨みつけた。
「笑えない冗談は、おやめあそばせ」
「それこそ偏見だな」
「わたくしは道化役などまっぴらです」
ロザリーが怒りを表したことで、ジェイデンはやり込められた分の溜飲を下げた。皇太子は笑みを絶やさないまま背筋を伸ばし、いささか冷めたお茶で喉を潤す。
「爛れた関係というのは確かに冗談だが、わたしと彼の間に少々事情があるのは事実だ。認めてもいい。そして彼は、呆れるほど長い間それに執着し続けている」
ジェイデンはティーカップを置きながら、テーブルの上へわずかに身を乗り出す。不満たっぷりなロザリーの瞳を覗き込んだ。
「彼の心が欲しいなら、彼の中のわたしに勝つしかない――君にできるかい?」
つかの間、二人は無言で見詰め合った。葡萄酒色と鳩羽色、それぞれの瞳のさらに奥にひそむ感情と思惑を、ただ静かに探り合う。
薔薇の香気が満ちる沈黙の果て、先に目を逸らしたのはロザリーだった。
婉然たる侯爵令嬢は、開いた扇で口元を隠し、深々とため息を吐き出した。
「わたくしの最大の恋敵があなただなんて……本当に笑えませんわね」
「奇遇だな。わたしも同じことを思ったばかりだ」
ジェイデンは身を引いて鷹揚に脚を組み、ロザリーは扇を下ろしてお茶の残りを飲み干した。侯爵令嬢はそっとティーカップを置き、皇太子の美貌を改めて真正面から見据える。
「それならそれで構いませんわ。いずれにせよ彼に相応しいのは、わたくししかいませんもの」
ロザリーが宣言すれば、ジェイデンは破顔した。
「その自信が、実に君らしい」
「これくらいでわたくしが手を引くなどと、あなたも思ってはいないでしょう。それに――」
挑発的に、ロザリーはもっとも自身の顔立ちが映える笑顔を作った。
「わたくしが負けるだなんて、ありえませんわ」
彼女の正面。薔薇の砂糖細工のクッキーが減ることは、ついになかった。
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