一週間後の話(終)
『わざわざ話すような無粋なことはしないよ。と言うか、そんな必要はない。夜の廊下の声は、あいつの部屋からはよく聞こえるんだよ』
廊下から聞こえた言葉に、オズウェルはため息をついた。
ハーシェルの言葉通り、廊下での会話はよく聞こえていた。若い騎士が慌てている様子も手に取るようにわかる。
そして、ハーシェルがどんな表情を浮かべているかも、簡単に想像ができてしまう。
『いくら無骨なオズウェルでも、さすがに気付いているはずだから。万が一、気付いていなかったとしても、気付かせることができるからちょうどいい』
廊下から聞こえる声は、すぐ横にいるであろう若い騎士に対するにしては大きすぎる。部屋の中にいる人間に聞かせるために言っている。
……もっと正確に言えば、自分に対する言葉だ。
オズウェルは苦笑を浮かべた。
忘れ物の件は、正直に言えば始めはすぐには思い当たらなかった。しかし幸いなことに、今は意図があることは気付いていた。
その一方で、あの若すぎる「妻」がそんな手管を使うとも思えなくて密かに首を傾げていたのだが。
副官が白状した言葉によると、どうやら周囲の入れ知恵だったらしい。
「……面倒なことだ」
オズウェルにとって、貴族の女性たちは実に面倒な存在だ。
些細な行動でも、一つ一つ深読みしなければいけない。貴族のご婦人たちには元々好かれていないからと気にしないようにしていたが、まさかエレナがその手の行動をするとは。
だがそれで疎ましくなったかと問われれば、否と断言できる。
貴族らしい手慣れた手段を、どんな顔で受け入れただろうかと想像すると、むしろ微笑ましくすらある。
流されているのか、流れの中でうまく泳いでいるのか、とにかくエレナという少女は、強い意志を示されると気弱な子供のように受け入れてしまうところがある。
今日も、元気なメイドの提案を戸惑いながら受け入れたはずだ。
大きな目を、不安そうに瞬かせて。
苦笑いが消えないまま、髪飾りを手に取った。
小さな宝石が輝くそれを見ていると、ふと昼間のエレナを思い出した。
気弱で大人しそうな令嬢が、突然立ち上がってオズウェルに触れたいと言い出した時。また、誰かに唆されたのかといぶかしんでしまった。
だがあのような強い目をしたときは、自分の意志を示しているときだ。そして、そういう時は驚くほど大胆になる。
緊張した顔で顔に触れてきた時。
そして、額の傷跡におそるおそる触れてきた時。
……あの瞬間、オズウェルは自制というものを忘れかけた。
偽りのない真っ直ぐすぎる不安が、あの細い少女を消えてしまいそうなほど儚げに見せていた。
あの時、廊下の気配に気付いていなかったら。
あと少し、副官が来るのが遅れていたら……自分は何をしていたのだろうか。
「全く、俺は何をやっているんだ」
つぶやいてから、オズウェルはため息をついて髪飾りを盆の上に戻した。
髪飾りに輝く美しい宝石のように、エレナという少女はオズウェルには恐ろしく分不相応で釣り合わない存在だ。
手にすることはできるとしても、似合わない。
大切にすべき存在であり、誰にも傷つけられることがないように配慮しなければならない。
もちろんオズウェル自身も、エレナから遠ざけるべき存在でしかない。
なのに……ふと触れたくなる。
強い光を湛えた目を覗き込みたくなる。
緊張したり笑ったり怒ったりと様々な表情を見せる顔を見つめ、大人気なくからかってはその反応を楽しみ、真っ直ぐな笑顔には笑い返したくなる。
指先が意図せずに小さな唇に触れてしまった瞬間……あの瞬間だけはあぶなかった。
あのまま、小さくて細い体を抱き寄せていたら。
婚礼の日に、震えながら見上げていたエレナの顔を見たとき。オズウェルはこの少女には決して手を触れてはいけないのだと己に命じていた。
だが今日のエレナには、あの時の誓いを破りかねない衝動を覚えてしまった。今はまだ抱き寄せてみたいと思うだけだが、それを踏み越えれば際限がなくなるのは目に見えている。
せめて、成り上がりと見下してくるなり、いかつい外見に怯えてくれるなりしてくれれば、決して揺らぐことがないはずなのに。
あのひ弱そうな少女は、思いがけない大胆さで距離を詰めてくる。
改めて、気を引き締めなければならない。
「……エレナは、難敵だな」
そうつぶやいて、ため息をつく。
目上の軍団長の呼び出しから引き続いた会議で、予想していたより時間を取られてしまった。そのせいで今日終わらせるはずだった仕事がたまったままだ。
残っている書類の確認だけでもしておこうと執務机へと歩きながら、何気なく壁にかかった鏡に目を向けた。
鏡の中のオズウェルは……しかし微笑んでいた。
自分が恐ろしく甘い顔をしていることに気付いてしまい、オズウェルは愕然と立ち尽くしてしまった。