9
週が明けた月曜日。光梨はいつもより三十分前に登校し、鞄を教室の机に置くと、学校の正面玄関に赴いた。正面玄関は敷石が皓く照らされ、眩しく、目に染みた。そこは他にはどのような表情も見せない場所だった。人がいなかった。生徒たちはほとんどが敷地の東西にある通用門を使っている。ここを使うのは教員だけだ。光梨は数名の教師と挨拶を交わした。光梨が授業で目にしたことのある教師はいなかった。光梨の心はすくんでいた。何故自分が正面玄関にいるのか問い詰められるのではないかと、恐れていた。人が歩いてくるのが視界に入るたびに光梨は憂いを募らせ、言い訳を捏造し、弁明を頭に思い浮かべた。光梨は誰かが接近し、挨拶をせざるを得ない状態にいよいよ追い込まれると、視線をその人物の斜め上に飛ばし、定形の挨拶のみが送られてくるのを願い、待った。実際、定形の挨拶しか返ってこなかった。そのたびに光梨は安堵し、そして新たな人影に怯えた。
光梨が正面玄関にいるのは、可知子に命令されたからである。彼女の家の車で登校してくるのを出迎えるよう言われたからだ。可知子からの命令は光梨にとって新鮮であり、晴れがましかった。敬意を抱くべき人物からの命令というものがこれ程までに心に甘くあることを、光梨は半ば驚きをもって歓迎した。光梨の世界は輝きだした。にも関わらず、こうしてその朝を迎える段になると、ひどく自分に自信を持てなかった。
手が汗ばむのを感じ、光梨は何度か手を握り、開いた。そうしている間に、一台の自動車がエンジン音も低く、光梨が目の前にしている正面玄関に滑り込もうとしてくる。光梨は注視した。車は黒塗りのトヨタ・センチュリーである。光梨はその車種などわからなかったが、車から伝わるどことないいかめしさは否応にも見てとれた。可知子様だ。光梨は直感した。自動車は滑らかな動きでロータリーを半周する間に、光梨には光景が浮かんだ。そう、この車は、ニュースなどで総理大臣や天皇が乗っているのと同じ車だ。車は光梨のほとんど目の前で止まった。
後部座席には可知子がいた。可知子は光梨を一瞥するが、すぐに興味のなさそうな顔で前を見つめる。重い音を立てて運転席の扉が開く。光梨の父親よりやや若いくらいの年齢の、体格の良い男性が姿を現す。男は黒いスーツに身を包んでいた。男は光梨の存在を確認すると、三十度の角度で黙礼した。それは実に完璧なものであった。光梨は緊張し、挨拶の言葉を半ば漏らしかけ、結局何一つ言えないまま黙礼を返した。男は車を周って左後部の扉の前に立つと、光梨が映画の中でしか見たことのない動きで扉を開けた。
臭いがした。光梨の胃が暴れる。だがそれも僅かの間だ。光梨の中で臭いは実存の証へと変わる。光梨は心が落ち着くのを感じた。扉を開けた男性は座席の方に回りこむ。
「いらないわ、津川」
可知子の声が聞こえた。可知子らしい凍った声に光梨は一瞬酔い、そして僅かに遅れて驚いた。可知子が、中年の男性を呼び捨てにしたことに対してだ。彼は可知子の、本当の「使用人」なのだ。可知子に仕える人間。個人として人間を使うことのできる地位。可知子の地位はそれほどまでに高く、貴い。光梨の脳髄に電流が流れる。可知子は本当の貴族なのだ。自分はもはや貴族に仕える身なのだ。
「失礼致しました、可知子様」
津川と呼ばれた男は、慇懃に応えると、再び扉の取っ手を手にする位置に戻った。車の中からは布の擦れ合う音、身体を引きずる音が聞こえる。
「光梨」
可知子の怜悧な声が聞こえる。光梨の身体が僅かに反応する。
「何をしているの。あなたの役目よ」
光梨の足元に火がつく。後部座席に駆け寄って腕を差し出す。
「すみま、ぁ、し。失礼致しました可知子様」
「あっははっはははは」
可知子が笑い声を上げた。光梨の視界が白い影に包まれる。光梨は自分が何を見て、何をしようとしているのかわからなくなる。ただ可知子の笑い声が鈴のように透明なことだけが喜びとして感じられた。
「別に津川の真似をしなくていいわよ」
「はい、」
光梨の視界は元に戻ったが、今度は顔が熱い。可知子は左腕を軽く差し出す。光梨は間違うことなくそれを両手で掴む。布があり肉があり骨がある。質量を実感する。温かい。それは光梨にとって福音であった。光梨が腕を支えると可知子は体重を載せて動いていく。可知子は車外に出ると扉から離れる。可知子の体重が光梨の手に、腕に、身体に感じられる。温かく、重い。可知子の身体。光梨はその存在を嬉しく思えた。人間がいる。一人の人間が確実にここにいる。
「もういいわよ。歩くのは平気よ」
光梨の視界が再び白く翳る。可知子の左腕を掴んでいた手を放す。
「すみません」
「いいわよ。それより」
可知子は左腕をつきだした。手には鞄が握られている。
「従者なら鞄くらい持ちなさい」
「はい、わかりました」
光梨は鞄を両手で受け取る。光梨は自分がまったくそういった気が利かないことに恥ずかしさを覚えていた。同時に、実感した。本当に自分は可知子様の従者になったのだと。それは新しい人生における座すべきところであった。光梨は今や世界において何らかの地位に就いていた。ただの女の子ではない。それ以上の何者かなのだ。
それから光梨と可知子は校舎に入ると、実に目立たないところに設置されたエレベーターで可知子の教室へと向かった。可知子の教室のあるフロアを進んでいく。二人を見た第二学年の生徒たちは明白な驚きを見せ、奇異の視線を送ってきた。その視線は、光梨の心に築かれた、栄誉ある地位によってもたらされたはずの自尊心を冷たく蚕食していった。だが、前を向けば、可知子が歩いている。杖の音を響かせ、上体を張り、大胆な歩みで、歩いている。いささかの視線にも妨げられず、よどみもなく、歩いている。光梨は彼女の従者なのだ。可知子を見ていると光梨の中に力が湧いてきた。
昼休みには再び可知子の教室へと向かった。可知子は教室では食事をしない。可知子のためには分割教室が一室割り当てられていた。無論それは臭いが問題であるからであった。可知子はこの条件を受け入れていた。可知子にあってもそれはいたしかたのない事情だとわかっていたからだ。
やがて放課後になった。可知子は光梨に迎えに来るよう指示していた。地学部部室に向かうためである。可知子は教室の外で光庭を見つめていた。光梨が来ると、可知子は光梨にまた鞄を持たせ、部室へと向かった。
午後のクラブ棟は、ホームルームが終わって間もないからか、生徒たちの往来があった。彼女らは皆可知子の臭いを認めるや、顔をこわばらせ、足を止める。最初光梨は何か申し訳がないような思いをしてしまった。可知子はいつもと同じように迷うことなく進んでいる。それでも光梨には惑いがあった。
可知子が部室の扉の前で立ち止まる。静かに光梨に目線を送る。
「堂々としていなさい」
可知子は静かにそう告げた。光梨は言葉を飲み込めない。
「あなたは私の従者よ。そのあなたがおろおろして情けない姿を晒していては私の名前に傷がつくわ。いい?」
光梨はようやく理解した。自分が、可知子様の従者である自分が惨めな姿を晒していては、可知子様の不名誉になる。可知子様は全てが完璧でなければならない。それはその付属品である自分も含めてなのだ。光梨の腹に重石が乗せられた。光梨は背筋を伸ばした。
「開けなさい。あなたの役目よ」
光梨の撥条が弾けた。速やかに扉を開ける。中には二人以外の全部員がいて、扉の方を、可知子と光梨を注視した。光梨はそのまま部屋に滑りこむと、扉を押さえて身体をそらし可知子のために道を開けた。ゆっくりと可知子が部屋へと足を踏み入れる。
「ごきげんよう、可知子、光梨さん」
雪子が微笑みを浮かべ挨拶する。全く日常的な光景であった。
「ごきげんよう、雪子様」
部室の空気が動く。いつもの挨拶。残りの部員も、可知子への親密さに応じた温度の挨拶を送る。光梨は扉を閉めた。手には二人分の鞄が抱えられている。
「光梨さん、可知子と鉢合わせしたのかしら」
光梨はそれに答えようとし、だが、その間違った質問にどのように答えたらいいのかわからず、口を中途半端に開く。
「いいえ、雪子様。光梨には私を迎えにこさせたのです」
部室の空気が揺れる。部員たちが息を漏らす。雪子と涼子は概ね素直な驚きを、秋子と絵里はそれ以上の複雑なものを、顔に顕していた。
「あら、そう。仲良くなられたのなら、いいけれど」
ややあって顔を笑顔に戻した雪子は納得したように応えた。その口調は軽く、取り繕ったものであった。可知子は何も応えず、部屋の奥の「いつもの席」へと向かった。光梨もそれに従って奥へと向かう。
「光梨さん、席ならここにあるわよ」
涼子がそう言いながらパイプ椅子の座面を軽く叩く。光梨の足が止まる。自然と涼子の申し出の通りそこに座ろうという思考が働いた。だが思った。自分は可知子の鞄を持っている。自分は可知子に仕える身なのだ。可知子の指示を仰ぐべきか。光梨の視線は可知子へと向かう。すでに椅子に腰掛けつつあった可知子は、光梨をしかと見ていた。視線の鋭さは、睨んでいるといってもいいものであった。光梨の足元が崩落していく。光梨は舌をもつれさせながら口にした。
「あ、あの、あ、いえ、私は可知子様のところに、」
「は?」
光梨の言葉を遮って、思わずといったように口にしたのは絵里であった。光梨と、可知子を除いた他の部員の視線が絵里に集まる。絵里は自身の声に惑いを見せ、咳払いをする。
「席があるんだから。座りなさいよ」
幾分かの沈黙の後、秋子が低く、若干の怒気をはらんだような声を出す。光梨は伝わってくるその怒気に恐れをなす。中空に張られた綱の上を歩く気分であった。再度可知子に視線を送る。可知子は光梨を睨んだままだ。光梨には、それは刀を突きつけられたかのように恐ろしいものだった。光梨の視線は思わず床へと落下する。
「私は、その、」
光梨は肺を搾り取るようにして、弱々しい声を出す。
「光梨」
可知子が、低い声で呼ぶ。光梨は、可知子の元へと歩みはじめる。その歩みは重い。光梨の眼球は冷たく重くなり、重力の井戸へと落ち込んでいた。その足元もまた奈落へと吸い込まれそうになっていた。心の中では可知子へ付き従うということへの義務感と、秋子の言葉を無視するということへの不安とが、膨れ上がっていた。自分は何故可知子に従うのか。光梨は対外的な名目を欲した。可知子に付き従う。それはよい。だが、それをどのように説明すべきか。何の考えもなかった。
「可知子。どういうことかしら?」
雪子が尋ねる。その声は硬く、表情もこわばっていた。他の部員も、緊張した面を可知子に向ける。光梨の足は可知子の元に到達することなく、止まった。
「光梨は私に個人的忠誠を誓っているのですわ」
雪子はわずかに息を呑んだ。
「どういう意味、なのかしら?」
「光梨が自発的にしていることなのです」
可知子は流暢に答えると、光梨に視線を送った。雪子をはじめ、部員たちも光梨に注目する。光梨の呼吸は乱れ、視線は部室の床を這う。光梨の胸には重い空気が詰まり、圧縮される。
「光梨」
再び可知子が呼ぶ。その声は冷たく、重く、鋭かった。光梨は息を呑む。ようやく再び可知子を見る。可知子の眼は、銀河を浸す水素の輝きを持っていた。
「そうなの? 光梨さん」
雪子が慎重な声で光梨に尋ねる。可知子の視線は光梨の脳髄を射抜く。光梨の脳髄は切り開かれ、冷たく焼かれる。その傷からは、だが、痛みなどではなく、甘さが溢れてきた。心には闇が沁みてくる。それは闇の彼方から現れ、一瞬で光梨を焼き尽くした。光梨は雪子を見た。
「そうです。私は可知子様に仕えているのです」
光梨は、着実にそのように口にした。雪子が息を呑む。他の部員たちも、息を呑み、あるいは漏らし、驚きを面に示す。秋子と絵里は顔を見合わせ、視線を交錯させる。今や光梨は確固たる大地に足をつけていた。自分の言葉は確かな真実であった。
「どういうこと? よくわかんないんだけど。冗談?」
秋子は腫れ物を扱う時独特の、敬意の微塵もない口調で、可知子と光梨に問いかける。光梨は慄く。可知子は構わず秋子を睨んでいる。光梨の後ろから、秋子を睨んでいる。可知子様がいる。自分には可知子様がついている。光梨の中で、可知子の像が、その光輝を新たにする。そう、可知子様は絶対だ。光梨の心は鋼の強さを備えつつあった。
「ですから、私が、」
光梨の口が僅かにもつれる。光梨は息を吸い、呼吸を整える。
「私が私から可知子様に忠誠を誓ってお仕えしているのです。何の問題もありません」
光梨は弾けるように口にした。秋子は苦い顔をして光梨を一瞥した。
「わけわかんないんだけど」
「これは私と光梨との個人的関係です。先輩とはいえ秋子様には関係のない話ですわ」
秋子はその言葉に侮蔑の色を隠さない。可知子は、冷たく重い口調で応酬する。部室の空気は液化しつつあった。
「それなら、とりあえず」
零下の部室に明るい声が注がれた。その声の主である涼子は、立ち上がると空いていたパイプ椅子を折りたたみはじめる。秋子の視線が涼子によって遮られる。
「光梨さん、とりあえず鞄を置いたらいいわ」
「はい」
秋子の視線が途切れたのもあって、ようやく光梨の緊張が緩む。そして自分が二人分の鞄を持ったまま立ちつくしているのに気がつく。光梨は鞄をテーブルに置こうと手を伸ばす。見ると、可知子も先程までのような厳しい目つきをしてはいなかった。
「お仕えするにも立ちっぱなしじゃ大変よね」
そう言って涼子は、今折りたたんだパイプ椅子を光梨に差し出す。鞄を机に置いた光梨は、パイプ椅子を受け取った。
「すみません、」
光梨は小さく口にする。可知子が僅かに鼻を鳴らす。光梨が見ると、可知子は腕組みして、面白くなさそうな顔をしている。
「椅子は、構わないのでしょう?」
「ええ、別に、構わないわよ」
涼子の言葉に、可知子は溜息しつつ答えた。部屋の空気は常温に戻りつつあった。光梨は受け取ったパイプ椅子を広げると、可知子の斜め後ろに設置し、可知子の顔を窺った。可知子は、面白くもなさそうな顔をしつつも、軽く頷く。光梨は席についた。
その後、涼子に促される形で、「いつもの部活」が再開された。この日はプラネタリウムのプログラム選定について話し合われた。当然のことながら光梨は可知子の計画を支持した。涼子もこれに加わったので、この件は可知子の意見が採択された。