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放課後、光梨はクラブ棟へと向かった。活動日以外でも開いていることがあると雪子から聞いていたからだ。どこかの部室から管弦楽が聞こえてくる。演奏しているわけではなく、録音を流しているのであろう。そんなことを思いながら、光梨はクラブ棟へと入っていく。午後のクラブ棟は、相変わらずどこか水底にように静かであった。二階にある地学部部室の扉の前まで来ると、微かに音楽が聞こえてくる。外から聞こえたのは部室から聞こえた音だったのであろうか。光梨は軽く扉をノックした。
「どうぞ」
声が聞こえる。可知子の声だ。光梨は息を呑む。心臓が踊る。光梨は心の準備を何一つしていなかったことに気づく。だが、もう遅い。中の可知子は応えてしまった。光梨は運命を抛って扉を開いた。
扉を開けると壮麗な管弦楽の音色とともに、腹の底が突き出るような腐敗臭が飛び込んできた。胃が跳ねそうになる。光梨は顔をしかめそうになるのを全力でこらえる。が、顔に余計に力が入って表情がひどく作り物らしくなってしまった。
「あら、昨日の一年生? 今日なら間違いよ」
可知子は部屋の奥、PCの前に座っている。光梨の姿を確認して、半身を光梨の方へと向けている。音楽は続いている。金管の天に伸びるような音色が高々と鳴り渡る。弦楽と木管がそれを追いかけていく。
光梨は、慣れない臭いに身体を緊張させつつ、後ろ手に扉を閉めると、口を開いた。
「間違い? ですか?」
「ええ」
可知子は少し楽しそうな笑顔を浮かべ、両腕を組み、算段するような目で光梨を眺める。
「毎週金曜日は私しか来ないの。私専用の日。といっても、誰も来たがらないだけなのだけれど。教えてもらっていなかった?」
光梨は言葉に出して否定しようとしたが、声にならず、首だけ振った。
「そういうわけ。誰も来ないし、来てもしかたがないわよ」
音楽が止む。可知子は光梨を無視するようにPCの画面を見ると、マウスを操作する。また先程と同じような音楽が聞こえてくる。光梨の知らない曲であるが、多分先程までと同じ曲であろう。トランペットの伸びのある音色が天を衝くようで印象的であった。
「いえ! 今日は、」
光梨は、自分で自分の声に、その大きさと強さに、驚いた。可知子も僅かに驚いたような顔をして光梨を見ている。音楽が鳴り響く。伸びのある弦楽と木管が絡み合い旋律を奏でている。
「可知子様に。会いに。……」
光梨は、その前の言葉の強さとは対照的な消え入るような声で、なんとかそれだけ口にした。可知子は何か納得したような顔をしているようにも見える。が、光梨は可知子の顔を直視できないでいた。
「とりあえずかけなさいよ」
可知子はそう言って杖で彼女の前の椅子を指示する。光梨はのろのろと部屋の奥へと進んでいくと指示された椅子に座る。光梨はちらと可知子の顔を窺う。可知子は興味深そうに、隻眼の視線を光梨に投げかけてきていた。その視線は見るものを切り裂く鋭利さと、液体窒素の冷たさとを持っていて、光梨の心は慄いた。
「この曲は知っている?」
可知子が尋ねてくる。光梨は可知子を真っ直ぐ見ることができず、視線をPCのモニタへと這わせる。映っているのは動画サイトで、動画には金色の円盤だけが映しだされていた。甲高くトランペットが歌っている。
「いえ、知らない、です」
光梨はかろうじてそう答える。真実なのではあるが、可知子の視線の前に、何か自分に虚偽があるような気がしてしまう。
「ブランデンブルク協奏曲第二番。探査機ボイジャーに積まれたゴールデンレコードに収録されているわ。今でもボイジャーとこの曲は虚空の深淵を彷徨っている。太陽系を脱出した、星の光も僅かにしか届かない闇の中よ」
可知子はそう言って目を細める。光梨はようやく可知子の顔を見る。精緻なバランスの上に成立し、気品と剽悍さを兼ね揃えた顔は、だが右側が腫れ上がっている。ケロイド状の皮膚は引きつり、膿と血が吹き出し、固まっている。顔の右側は寡黙であった。ただ左の顔が、彼女に表情を与え彼女の感情を表している。それは、光梨には寂しさにも見えた。だがそれも瞬間、可知子の目は光梨へと向けられる。視線の矢が光梨に刺さる。
「あなたは何故地学部に入ろうと?」
可知子の平静な声が尋ねる。光梨は怯えた。口を開いて答えを探しつつそれを口にする。
「えと、ネットとかで、星の、星雲とか、絵を見て、そういうのが見れたらいいな、って」
光梨は意味のない笑みを浮かべながらそう答えた。視線は震え、可知子の右目があるべき眼帯の部分を彷徨う。可知子は静かにそれを聞いてから、再びPCに身体を向け、ブラウザを操作した。画面には、半透明の白い球体が二つ結合され、周りに赤いガスの飛散した星雲と思しき絵が出される。可知子は画像を指さして、平静な口調で告げる。
「イータ・カリーナ。竜骨座η星と人形星雲。太陽系近傍で観察しうる最大の質量をもった恒星」
光梨は映しだされた画像に身を乗り出して見入る。宇宙にそれがあると思うと、なんとも奇妙な形と色合いをしていた。
「ハッブル宇宙望遠鏡からの画像を合成したものよ。疑似カラー画像」
可知子は淡々とそう語ると、軽く吐息し、光梨の方に向き直る。
「あなたの本当の理由は?」
可知子はまっすぐ光梨を見つめる。
「え、あの、」
光梨は逡巡する。答えを出すことへの躊躇いが防波堤となって光梨の心はそれを乗り越えられない。
「ぁ、」
光梨は逃げたかったが、可知子の視線はそれを赦さない。光梨の口からは息が漏れるが、それは言葉にならない。可知子は光梨を見つめ続けている。光梨は、答えを、用意されたそれを、引っ張りだそうとする。それは順調に出てきてくれない。可知子の瞳は光梨へと向けられたままだ。
「可知子様に、会いたく、て、」
光梨は言葉を吐き出した。心にあったものを露わした。可知子はますます鋭い目をする。光梨の身体は暗く冷たい泥濘に胸まで埋まっていた。冷たさと逆に、顔は火照っている。目の辺りが熱かった。微かに泪が滲む。
可知子は静かに口を開く。
「たまにいるわ。そういう子が。私の外見の奇異さに寄せられてかしら? 半分は臭いで勝手に退場してくれるわ。もう半分も、義手の右手で殴ればその幻想も崩壊する」
可知子の目はもはや明らかに鋭く、険しかった。光梨にもわかる。そこには憎悪がある。可知子の瞳は絶対零度であった。光梨は憎悪に晒されていた。それは本物の焔であった。つまらない建前や言い訳など焼き尽くされる。光梨の前には焔が壁となって立ちはだかっている。光梨の表皮が焼けそうになる。
だが、光梨は焔に飛び込んだ。光梨の身体は芯から燃え上がり、その言葉は火となって口から出る。
「私は! 私は、本当に可知子様に近づきたくて、可知子様の、傍に、」
光梨はここまで口にして可知子の瞳を正面に見据える。可知子の視線が脳を貫く。それは白い焔となって発火する。だがそれでも光梨は求める。この身体が燃え尽きてでもあの光を掴むのだと。可知子の瞳に宿る星へと至るのだと。光梨は焔の中にいた。精神が発火する。光梨は、生まれてこの方体験したことのない熱量の中にいた。あの星を掴むのだ。可知子の焔は、光梨の中で甘い蜜となった。
「可知子様の傍に、可知子様と一緒にいたいんです!」
光梨は明白に叫んだ。光梨は、光梨の心は、生まれてはじめて真実を口にした。
「そう、」
可知子はその視線から幾らか鋭さを解く。のみならず、視線には好奇の色も映っている。口元は僅かに歪み、笑みを見せている。
「私のここ。どうなっていると思う?」
可知子は眼帯を、眼帯に覆われた右目を指さす。
「ぇ、と、ええ、と、」
光梨は言葉を見つけられない。
「教えてあげるわ」
可知子はそのまま右手を伸ばすと眼帯のゴムに指をかける。光梨の全身に汗が滲む。回答が即座に用意されているとは思わなかった。光梨には何の準備もなく、可知子の手を止める術もない。可知子が眼帯のゴムを外すと、右目が、右目のあるはずの場所が露わになる。そこには穴があった。眼窩はほとんど繰り抜かれ、瞼がその奥で閉じ合わせられていた。ミイラだ。光梨の意思はその単語を残して奈落へ落ちる。
「感想でも聞かせてくれるかしら? これでも?」
光梨は奈落へ落ちようとしている自身を、その絶壁に腕一本だけで支えた。ミイラの目。あまりにもあからさまな暴力。だがそれでも光梨の腕は、壁をつかみ、持ちこたえた。
「それ、でも、です」
光梨は今や可知子の右目を注視していた。いつの間にかその右目、その眼窩は何か自分に特権を与えてくれるように思えてきた。奇妙な感覚であった。
「なら、忠誠を誓って。私はお友達は欲しくないの。そんなものいらない。私は私の忠実な従者しか欲しない」
光梨は息を呑む。忠誠。それは聞き慣れない言葉であった。未知の概念であった。だが光梨の答えは決まっていた。答えを決めてから後悔が来た。だが、それでもそれは決まっていたことであった。後悔は漣のように光梨の心に沁みたが、やがてその後悔も、先立っての忠誠という言葉の怒涛に流されていった。
「はい」
光梨は心の底からそう答えた。光梨の目頭は熱くなる。光梨は自分の心に甘いものが滲むのを感じた。光梨が可知子を思って感じてきた、あの甘さであった。ラインの川底から黄金が姿を表す。それは可知子の焔に照らされる。
可知子は、瞬間、驚いたような顔をしたが、すぐに吹き出し、笑った。
「あはは、あなた、ふふ。結構ね。いいわ、なら、」
可知子は左足を動かし、右足に引っ掛け、更に杖を使って、左足の革のローファーを脱ぐと、黒いタイツに包まれた左足を光梨の方へとつきだした。
「足にキスして忠誠を誓って頂戴」
光梨にはそれが実に当然のことに感じた。光梨の心は、今度こそ恐怖などではなく、歓喜のために踊った。自分は成すのだ。光梨にはその行為に憧憬を抱き、それを成そうとしていた。
光梨は椅子を立つと、ゆっくりと片膝をついて腰を下ろす。それは、まるで最初からそうすべき事柄のように思え、光梨は納得できた。光梨は両の手を可知子の左足へと差し伸ばす。黒いナイロンに覆われた可知子の左足は、艶をもち、その光沢は光梨の心を震わせる。唾が湧き出る。可知子の足の姿は彼女の姿にふさわしくすんなりとした流線型で、光梨は自分の忠誠の対象に誇りを持てる気がした。手が可知子の足を掴む。その足は麗しく、それが手のうちにあることで、彼女の裡に熾った焔は自身を滅却した。ナイロンの滑らかな感触と僅かな可知子の湿り気に光梨は身体が熱くなるのを感じる。それはあの熱く甘いもので満たされる感覚であった。いや、それ以上に身体の中枢が熱を帯びていた。
光梨はゆっくりと足に顔を近づけた。可知子の、腐敗した肉とは違う、彼女独特の匂いがする。それは奥深く、燻った、心を安んじる匂いであった。唇が足を覆うナイロンと接着する。光梨はその唇の薄い皮膚を通じて可知子の存在を確実に感じ取った。
急に、左足が光梨の唇から離れた。光梨の左頬が軽く叩かれる。艶やかなナイロンの感覚。可知子が軽く光梨の頬を足で叩いたのだ。
「あなた、結構なものだわ。いいわ。光梨。あなたは今から私の従者よ」
可知子が冷めたような、だがどこか歓ばしそうな顔で光梨を見下ろしている。その瞳に灯る光は、光梨の中で憧憬となって発火する。可知子の顔全てが赫々と輝いているようにすら思えた。
「はい、可知子様」
光梨は満たされた思いでそう答えた。辺りには肉の腐った臭いが漂っている。それは甘みのある、心の安らぐ臭いであった。光梨はその臭いに確固たる自分のあり方を感じる。それは生きているという実感であった。光梨はようやく自分の精神に見合った器を得た。それはこの臭いが保障してくれる。
 




