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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 翌日。登校の道にあった光梨は自分の心が踊っているのを否定できなかった。これでは、可知子の運命を喜んでいるみたいではないか、不謹慎だ、と、光梨はその自覚を予感し、それを否定しようとした。違うのだ。心が震えるのは、それは可知子の人柄故なのだ。彼女の心の、あの昏い炎。彼女の瞳の、あの峻厳さ。それは冷たい翳となって光梨の胸に射し込む。甘い刃となって光梨の胸を切り裂く。

 いや、光梨はもっと正当な理由を欲した。可知子という人間に惹かれる。それはいい。だが、彼女の側に寄り添う決定的な理由が欲しい。同情などという言葉は実に安っぽく冒?的だ。光梨は名目を探していた。だが、光梨は思い至る。名目、そのようなものを見出そうということすら卑しむべきだ。そう、ただ可知子という存在に惹かれる。他に何がいるであろうか。それは光梨にとってはじめてそれだけの熱量を持った思いであった。憧れ。心の底で熾るものがある。それは脳に染み入る薔薇の精油。心臓を焼きつくす氷の劫火。光梨は自己の計画に溺れた。


 登校してからも、光梨の目は注意深く、執念深く、可知子の像を求めていた。だがその姿はついぞ見られないでいる。いや、見る前に、あの特長ある杖と義足のもつれた足音がするはずであった。その音は一向に聞くことができないでいた。足音の時点でわかってしまうのだ。視線で追わずともわかってしまう。光梨は目ではなく耳で可知子を探した。注意深く耳を澄ました。光梨は休憩時間が終わるたびに何もないことに安堵し冷や汗にまみれた自分を見出した。

 光梨の外の世界でいつもと違うことがあったとすれば、それは絵里が朝の挨拶をしてきたことだった。だが、光梨の心の可知子に傾ぐことが明白な今や、絵里という人間は実に疑わしい存在であるように思えていた。もちろん光梨はそのような感情を表に出さなかったが、挨拶には熱がこもってはいなかった。

 昼休み、食事を終えてから、光梨は昨日雪子から渡された入部届を机に広げていた。入部届を広げる、といっても、B5サイズの藁半紙に過ぎない。数少ない記入項目は埋められている。氏名、学級、部活名。昨日の夜、黙示録でも書くかのような大仰な精神で書き上げたのだ。たった三つの項目を。

 光梨がその紙を見つめていると、人影がよぎった。光梨は、虚を衝かれ、反射的に頭を上げ、息を呑む。見てみれば、誰ということはない。礼子と郁美であった。

「光梨さん、部活決めたのね」

 礼子は両の手を合わせ嬉しそうにしている。

「ひとまずよかったわ。ええ、」

 郁美も、安心したような笑顔を見せる。

「あ、うん、ありがとう、」

 光梨は、二人の好意的な様子に少し戸惑いつつも、そう答えた。

「ええ、よかった。光梨さん、編入だし、一人でいることが多いから、ちょっと心配だったの」

「あまり差し出がましくするのも迷惑だし、どうしようかなと」

「あ……あ、どうも、」

 礼子と郁美の言葉は光梨にとって意外であった。目も小刻みに踊り、二人を正視できない。光梨はこういう好意には不慣れであった。

「地学部にしたのね」

 礼子が紙に目を落としていた。光梨は見られたことが気恥ずかしい。紙を隠したい思いに駆られる。

「なんだか地学部は大変だそうだけれど。どこかしら決まったのなら、ね」

 そう言って郁美は礼子と視線を交わしたりしている。光梨はといえば、照れるという感情そのものに戸惑いを覚え、とるべき表情もわからず、愛想笑いを浮かべているうちに、その愛想笑いそのものがふさわしい表情のように思えてきていた。

「光梨さん。」

 後ろから声がした。この声は絵里だ。光梨は背中を叩かれた思いがした。礼子と郁美にとっても唐突なものであったらしく、顔に動揺が見られた。光梨は後方にいるであろう絵里の姿を確認する。

「昼休みも、部室開いているんだけど、来る?」

 光梨は、即答できなかった。

「ああ、可知子様なら昼は来ないよ。あの人は昼は来ないことになっているんだ」

 光梨の逡巡を絵里は独自に解釈して回答した。光梨にとっての判断基準はまさに絵里の真逆であった。可知子様がいるのなら行きたい。だが、それは純粋な思いではなかった。光梨にとって、可知子に相対するということは、何か自分の人生についての結論を迫られることのように思えた。光梨は逃げたかった。

「先輩とかは昼ご飯食べたりもして……していた、かな。あの人があれだから今は食事しないけど」

「あ、えと、」

「行ってらっしゃいよ」

 足踏みする光梨の背中を押してしまったのは郁美の言であった。

「ええ、私達に構わず」

 礼子も促してくる。だが、光梨はそのようなものは求めていない。光梨は出口を探した。口実だ。この袋小路の間隙だ。

 光梨の右手が机の上の紙をつかむ。これだ。光梨は当たりの籤を引いた。

「これ、出しに行かないといけないから、」

 入部届を絵里に向けて掲げる。これで合っているはずだ。光梨は息を呑んだ。ほんの僅かな間、時間の流れが遅くなる。

「ああ、そか。まだ出していなかったんだ」

 絵里は、「素直に」光梨の言葉を受け取った。

「ああ、そうだったわね」

「ごめん、引き留めちゃったかな?」

 光梨は礼子と郁美の言葉が終わらぬうちに立ち上がる。

「じゃあ、ね」

 光梨は三人の顔色を一周して伺う。三人はそれぞれ納得したような顔をしている。これで正解だ。光梨はそのまま彼女らの表情を確認することもなく教室の出入り口を目指す。彼女の背中では、もう光梨を欠いた三人がそれぞれの行動をとりはじめていた。


 光梨は最初教員室に行ったが、そこには地学部顧問である鈴木文子はいなかった。他の教員の話では地学準備室だろうとのことだった。光梨は地学準備室へと向かった。光梨はそこで文子と邂逅することができた。光梨にとっては初対面である。彼女は三十代になるかならないかくらいの年齢であった。穏やかな笑顔を保った彼女は、光梨には優しそうな女性に見えた。地学準備室は雑然とした部屋で、片付いていないというほどではないにせよ、物が溢れている。微細な粒子が窓からの光梨を反射して光の柱になっている。部屋には砂岩の乾いた臭いが漂っていた。

文子に勧められ、光梨は準備室の椅子の一つに座す。彼女は更にコーヒーを勧めてきたが、光梨はいつもの臆病さによってそれを断った。

「部員が入ってくれて嬉しいわ」

 文子は当然あり得べきことを口にした。ただ、それにしても光梨にはそれがひどく実感の籠った言葉であるように感じた。

「深井さんにはもう会ったかしら?」

「はい」

 やはり彼女のことが話題に挙がるのか、光梨は半ば予想していたことを確認し、小さく頷く。文子は少し寂しそうな顔をして続ける。

「ちょっと大変だとは思うのだけれど、受け入れてあげて欲しいの。彼女は最後まで学校に通っていたいって、彼女の意志なのよ。新入でいきなり大事に付きあわせてしまって、それは申し訳ないのだけれど」

「いえ、それは全然」

 光梨は確信を持って否定する。

「本当はそんなわがままな子じゃないのよ。でも、病気も病気だし、周りもそうね。やっぱり、全てが以前と同じように、とはいかないもの。でも彼女は卑屈になるくらいだったら我を通したいと思ったのよ」

「はい」

 光梨の心に微かに明かりが灯る。そうだ、自分は可知子の助けになればいい。これは正当な理由だ。正当な動機だ。

「できたら、彼女の助けになって欲しいのだけれど、でも、無理は言わないわ。ただ、彼女を受け入れてあげて欲しいの」

「いえ、大丈夫です。きっと、はい」

 光梨は確信を新たにした。

「ええ、では、よろしくお願いね」

 文子は、少しだけ翳のある笑顔で、そう言った。光梨の胸は熱を持った。それは使命感の熱であった。

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