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扉が閉まるや、秋子が伸びをしながら声を出す。
「ようやくだわ」
絵里がそれに応えるように口を開いた。
「きついですよねー」
絵里は体を伸ばすような格好をしながら、光梨の方に視線をよこす。
「光梨さんもこんな時に入部ってついてないね。大変でしょ」
「え。ええ、」
光梨は曖昧に返答する。腐敗臭は薄まってきていた。秋子は、肩をすくめるような仕草をし、光梨を見て、口を開く。
「本当、みんなが迷惑なのよね。少しは協調性をもって欲しいわ」
「秋子さん、」
部長の雪子が鋭く口にする。秋子は、分かった、というように右手を振ってみせた。可知子の不在によって、光梨の思考が幾らか進んだ。光梨は、可知子の言葉の意味、示したものに、ようやく手が触れたように思えた。
「雪子様、」
光梨はその疑問を、口にするにはあまりに重い質問を、冷たい汗をかきながら心の底から引き上げようとしていた。
「可知子様の、あの、言葉、困らなくなるとか、ていうのは、」
雪子は微かに吐息して光梨の方に向き直り、光梨を正視した。微かに彼女の瞳が震える。光梨は自分の導き出そうとしている言葉の予感に慄然する。冷水の下から氷塊が浮かび上がってくる。いや、浮かび上がってくるのは、可知子の像だ。
「光梨さん。可知子はね。半年以内に、死ぬの」
光梨の脳髄が痺れた。言葉が冷たい電流となって光梨の身体を駆けた。
「可知子の病気、ええ、いわゆる不治の病、なの。根本的な治療法がない。一生、それこそ一生、無菌室にいれば進行を止められる可能性があったそうなのだけれど、彼女はその絶望的な牢獄を拒否した。半年ほど前に発病して、今も身体は壊死し続けている」
光梨の頭には、雪子の言葉の意味が、怜悧なメスとなって静かに侵襲していく。そのあまりに完璧な切開は光梨にいささかの痛みをも与えなかった。むしろその冷たさは、光梨の蒙昧であった官能を目覚めさせた。光梨は瞠目した。心に闇が滲む。甘い。その闇はなんと甘いことか。
「彼女は無菌室ではないにせよ入院という選択肢もあったのだけれど、学校に通い続けることを選んだの。残された人生を人間らしく生きたいと。だから、光梨さんにはちょっと大変かもしれないけれど、受け入れてあげて欲しいの」
雪子の両眼が光梨に訴えかける。光梨の心は決まっていた。それは栄光に満ちた選択肢だった。選ぶまでもない。
「はい、地学部に入部します」
光梨は雪子の目を見て、そう宣言した。西日の輝きが部室を照らしていた。
帰宅の電車の中で、バスの中で、帰ってからも、光梨の頭の中は沸騰、というよりは発酵していた。可知子という人物は前に聞いていたように苛烈であるようだし、皮肉屋でもあるようだった。実際、彼女に会って、自分の人生のどうなるというのか。そもそも彼女と自分とで意志を通わすことができるのか。光梨には可知子と心を通わせることは非常に困難なのではないか、という危惧が湧いていた。自分はどうしたいのであろうか。慥かにあの「天使」には出会えた。だが、その先は? 光梨は、自分の行く手に道は見いだせず、寸分の先のこともわからない。可知子に会って、どうしたいというのであろうか。何も確たる答えが導けそうにない。光梨はその思考を抱えたまま、夕食の支度をする。その日は彼女の父である史彦も早く帰ってきた。
光梨にとって父というのはさほど彼女の世界に歓迎すべき人間でもなかったが、新たな世界の展望を手に入れたことを誰かしらに伝えたい気持ちが、父親を疎む心に勝り、そのことを夕食の席で口にした。
「部活、入った」
平静にして無関心なような口調で、浅漬けの胡瓜を箸で挟みつつ切り出した。味噌汁をすすっていた史彦はやや瞠目した後椀を食卓に置く。
「そうか、よかったな。何部だ?」
史彦はそれが非常に喜ばしいことだと思いはしたがそれ程の感情を出さずに、とはいえ喜ばしさをいずれ声音に乗せつつ、口にした。
「地学部」
光梨は、胡瓜をたっぷり咀嚼して飲み込んでから、応えた。
「地学? お前、天文とかそんな興味あったっけ?」
史彦は、驚きを隠すことなく訊いた。光梨は、芋と人参を口にし、それを飲み込むまで回答を保留した。史彦はそれを待った。
「まあね。ネットとかで、色々。それに、まあ、面白そうだったし」
「そうか、」
光梨は、虚偽しか口にしなかったが、それに何の躊躇も持たなかった。そもそも、虚偽と呼ぶにしてもあまりにぞんざいな回答であった。光梨は答えてからその後しらたきと牛肉を口にしてその脂の甘さを堪能しつつ白米を食べ味噌汁をすすり、時間を開けてから、ためらいの僅かにある口調で父に尋ねた。
「部活で、深井先輩っていう先輩がいたんだけど、なんか重い病気でね、」
そこまで言って光梨は麦茶を一口飲む。
「すごいお嬢様らしいんだけど、」
「ああ、」
史彦は光梨の予想よりはるかに早く応えた。光梨にとっては全くの意外なことであった。
「聞いたことがあるかもしれないな」
「そうなの、」
光梨は、言葉を迷う。
「深井清友氏の娘さんで。名前は知らないけれど、冥志舘だと思う。重い病だけれど、それでも学校に通いたいっていう、あれは何で見たのだったかな」
「へえ、」
光梨は平静さを僅かに崩した。父親からこのように情報を得られるとは思わなかった。それは光梨の欲している情報かもしれない。しかし、光梨にとって父親を経由するというのは心外な道筋であった。
「深井、清友?」
「日本防災協会の理事だったかな。深井家は結構格の高い華族で……あれは雑誌のインタビューか何かだったかな。深井清友氏本人が語っていたような」
「ふうん、そうなんだ、」
光梨は、自分が平静であり、なおかつそれにさほどの関心も持っていない、というような事を主張するために、限りなく感情の起伏もなくそう口にすると、食事を再開した。史彦もそれに口を挟むこともなく食事を再開する。だが、光梨の中では深井家というものに対して、好奇心が夏の入道雲のように湧きおこっていた。光梨はそれを調べたいという心から食事を急いだ。
食事を終え、食器の片付けを済ませた光梨は、自室のパソコンの前にいた。ブラウザを立ち上げると、検索バーに「深井清友」と入れる。最初に出てきたのはウィキペディアの記事であった。光梨は軽く息を呑んだ。ウィキペディアに独立した項目が立てられている。本当に有名な人物なのだ。光梨は「深井清友」という項目をクリックする。
深井清友
現深井家当主。橘氏長者。財団法人日本防災協会理事長。曽祖父は深井清理内大臣。母は佐保宮堯仁親王の長女任子内親王。……
本物だ。光梨はトランプを引き当てた。本物の「やんごとなき」人だ。皇族。皇族である。つまり深井可知子の祖母は皇族ということか。もうテレビやアニメなどといったフィクションの設定すら超えている。いや、まだ、深井可知子が深井清友の娘と決まったわけではない。光梨は、余裕のない眼球を何とか動かして記事の続きを読む。
2013年、雑誌Japan Tribune誌の取材で長女が不治の病(ボーマン氏病・進行型壊死性筋膜炎)であることを告白。
これだ。これであろうか? 深井可知子に言及しているのは。慥か、彼女自身も「ボーマン氏病」と言っていた。そんな特殊な名前の病気を聞き間違うはずがない。光梨はブラウザを最小化すると、意味もなく腕を組み、吐息し、咳払いをする。光梨の内面は情報の渦に圧倒されていた。不治の病。皇族。肉の腐敗臭。財団法人理事長。壊死。佐保宮。腐り落ちる身体。内親王。半年後に死ぬ。半年後に、死ぬ。
光梨は自覚した。光梨は手に入れたのだ。それは自身の運命である。光梨の蒙昧は取り除かれた。光梨はそれを手にしなければならない。これは運命なのだ。光梨にとってもはやそれは黄金の輝きを持つ人生の鍵である。「約束の時」が来た。天軍の喇叭がはるかに響き渡る。国分光梨は、この運命の糸を掴まなければいけない。
可知子を知りたい。深井可知子という人間の運命に触れたい。自分の人生を彼女の人生と交差させたい。光梨の心はもはや深井可知子という存在に囚われていた。心の奥底から、深井可知子という人を知りたい。光梨はそう冀う。可知子。いや、可知子様。その名前の響きにもはや光梨は甘美さを覚えていた。可知子様。可知子様。可知子様。それはエゼキエルが口にした巻物と等しくあった。可知子様。不治の病の少女。蝕まれた身体に宿る、あの苛烈にして不羈なる魂の持ち主。あの湿った声。あの声に籠った彼女の内奥の翳。彼女の声に光梨は寂滅の予感をみてとった。彼女に寄り添いたい。光梨はそれがどのような由来なのか自覚しなかったが、ただ、寄り添いたい、そう思った。心の底で渦巻くものの正体はわからない。だが、ただそれだけを冀った。可知子様。可知子様。可知子様。