表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
腐肉の女王  作者: 資治通鑑
5/28

5

 ホームルームが終り放課になる。光梨は結局絵里と話すことはなかった。休み時間、廊下に貼られていた地学部のポスターを確認した。都合がいいことに今日は活動日に当たる。時間を経るごとに、光梨は、自分の計画の、あの天使、深井可知子と出会うという策謀の、甘い海へと溺れていった。

 掃除当番であったために、光梨の行動は僅かに扼された。光梨はその短い時間、期待に身を切られる思いをしていた。万能ぼうきを用具入れに放り込むと、自分がとても自由になったような気分になった。自分は、これから可知子様と出会うという運命を選択する。光梨は自らの人生を俯瞰していた。地学部のあるクラブ棟へ、走るのを抑えた程度の早足で向かった。

 クラブ棟は学校校舎の脇、木立の中に佇む、古びたモルタルの二階建ての建物であった。クラブ棟は校舎の整然さとはかけ離れており、使い古された雑駁とした衣を被っていた。それでいて、クラブ棟からは微かな人の声や物音が放散されていて、それは活気を予感させた。光梨がクラブ棟の玄関に向かう道すがら、五名の生徒とすれ違った。光梨は、クラブ棟から熱が発せられているのを感じた。人の熱。活動の気配。渦巻く情熱。光梨はその熱と一体化する夢想に、次第に浸潤されていく。特別な建物。ここに入る人間は特別な人間のみなのだ。そして今、自分もその特別な存在に列を連ねようとしている。光梨は昂揚した。自分が特別な「何か」になるのである。

 クラブ棟の中は思ったより翳っていて、光梨は湿り気のある涼しい空気を感じた。微かに、人の体臭を予感させる空気。時折くぐもった喋り声が聞こえる以外は、意外と静かだ。地学部の部室は二階にある。光梨は入ってすぐにある階段を昇る。階段はその面積の狭さから急で、昇りにくい。昇り切ったところが二階の廊下の端であった。そこは陽光に照らされていて、日向の独特な匂いが漂っている。廊下は静かで、翳の中に沈んでいた。

 光梨は、「特別な存在」になるための一歩を、着実に踏み出す。どの部活の扉も、その周囲の壁も、実に雑多に何かが貼り付けられている。ポスター、それも、生徒の手書きであるような新勧のポスター。スポーツ用具メーカーの洗練されたポスター。色とりどりである。光梨は、確実に特別な場所に来たのだと、確信した。

 背後で、扉の開く音が聞こえる。光梨の心臓が跳ねる。振り向くと、一つの扉が開かれ、生徒がやや慌ただしく出てこようとしている。彼女は光梨に気づくと、笑顔を見せる。

「ごきげんよう」

 光梨は背中に冷たい汗を感じる。

「ごきげんよう」

 口の端に出た言葉はたどたどしくなった。だが、彼女は光梨の存在に構うことなく、そのまま階段の方へと消えていった。光梨は、思わずそれを見守ってしまった。時が経つのが、ひどく遅く感じられた。光梨は、彼女の、特別な存在への変貌の行軍を再開した。


 数十秒の長い行進を乗り越え、光梨は今、地学部のものと思しき扉の前にいる。扉には硝子が嵌められていたが、その硝子の上には無秩序にポスターが貼られていた。

「地学部にようこそ! 一生ものの星空をあなたに! 星占いに詳しい部員います!」

「コニカミノルタプラネタリウム 満天 特別上映・ニューホライズンズの軌跡」

「星の輝きをあなたに ニューエントリーモデル ビクセン ハーシェルIII」

 ポスターに遮られ中の様子は伺えない。光梨は、息を呑んで心構える。この扉を、この扉を開ければ、そこには「新しい世界」が待っている。さあ、まずは、扉をノックしよう。そこが全ての始まりだ。

 光梨の手がまさに扉を打とうとしたその時。中から、扉に嵌められたガラスも割れんばかりの音声で叫ぶ声が聞こえた。

「だから私はニューホライズンズのがいいと言っているのよ!」

 光梨は電撃に打たれた。脳が痺れた。その声は鋭く光梨の身体を切り裂いた。氷のように冷たい声。中で何が起こっているのであろうか。ともかく、尋常なことではない。地学部では何か切迫した事態が起きている。そのようなことは私とは関係ない。光梨は思った。これは地学部の出来事だ。自分とは関係ない。光梨は、辺りを見回した。誰も、いない。ならば、逃げよう。これは自分と関係がないのだ、逃げて何の不都合があるであろうか。

光梨は、脚を動かそうとした。その時。ドアノブを回す鈍い音が聞こえ、異臭がする。臭い。何の臭いか、とにかく、鼻が曲がるという表現そのままだ。腐った臭い。生ゴミ、肉の腐った臭い。食道がひしがれる。胃がえぐられる。えぐられて胃の中身が吐き出されそうになる。臓物が飛び出しそうな感覚にすらなる。

「あら、ごめんなさい。ええと、あの、大丈夫かしら?」

光梨の僅か前方から声が聞こえる。光梨は暴れる胃を抑えながら、ゆっくりと前方を確かめる。彼女の目の前には、扉を開けかけたまま止まっている、一人の女子生徒の姿がある。温和そうな顔立ちで、少し驚いたような顔をしている。

 だが。なんだ、この臭いは。肉の腐敗臭だ。なんでこんな臭いがするのか。ここはゴミ捨て場じゃない。光梨は鼻と口を右手で塞いだ。

「涼子さん? どうしたのかしら? もしかして新入生の方?」

 中から、柔和な声が聞こえる。

「ふふっ、よかったじゃない。歓迎するわ、それに足る忍耐をお持ちでしたら」

 続いて、笑みを含んだ声で、鋭い声が聞こえる。先程の怒鳴り声の主だ。光梨は恐れた。なんで、扉は開いてしまったんだ。

「あの、あなた、入部希望なのかしら? ええと、ごめんなさい、その、取り敢えず慣れていただけるかしら? 臭い、ね」

 目の前の生徒がそう話しているのを、光梨はなんとか理解した。右手を口から離す。臭いは、先程より拡散されたのか、それとも慣れたのか、幾分気にならなくなっていた。

「大丈夫? それで、入部希望、だったりするのかしら?」

 目の前の彼女が右手を光梨の肩に乗せる。光梨は、それでようやく彼女が光梨に向かって話しかけてきていたことを認識する。はじめて対面して彼女の顔を見た。やはり優しそうな顔立ちだ。ふっくらと、身体の線も含めて、丸々としており、大柄な生徒だ。

「っは、はい、」

 光梨は、今の今まで暖めていた言葉を、ほとんど言葉にならなくもようやく発し、頷くだけ頷いた。

「じゃあ、取り敢えず入って頂戴」

 彼女は右手を離すと、そのまま壁際に身体を引く。光梨の眼前に地学部部室の姿が明らかになる。部室は、縦長に狭い五畳ほどの空間である。部室の奥の窓は南面しており、陽光が降り注いでいる。電灯はつけられておらず、部屋の隅に闇が残滓となって溜まっていた。壁にはメシエ天体のカレンダーやポスターのたぐいが貼られている。向かって左側に机が並べられている。その上には、時間の変性を受けた雑誌や書籍、紙がぎっしりと詰め込まれており、その更に向こうには一台のデスクトップPCが置かれていた。

光梨は、思わず息を呑み、そしてその臭いに再び呼吸を止めようとした。光梨の目の前には、地学部部室の一番奥の席には、確かにあの琥珀の間の天使が、深井可知子が、白い眼帯も白い手袋も女子高生に不釣り合いな杖も揃えて、鷹揚に座していた。光梨は何かを手に入れたはずだった。だが、なんなのだ、この臭いは。光梨は、自分の居所を喪っていた。ここが学校の敷地内の一施設であるなどと思えなかった。

 横から声をかけられる。聞き覚えがある声。同じクラスの竹中絵里だ。

「ああ、国分さんだっけ? 下の名前忘れちゃった」

彼女は一応の儀礼、というような笑顔を浮かべ、手前の椅子に座っている。顔立ちは本来素直そうなのであるが、世間ずれした空気が漂う少女である。その言葉を受けて、絵里の横に座る生徒が口を開く。

「ああ、絵里の知り合い?」

先程のおっとりした声の主とは違う。やはり、どこか素直な笑顔とはいえない顔をしている。整った顔だが、かといって生真面目そうにも見えない。

 絵里はもう光梨から目線を離していた。

「いえ。同じクラスってだけです」

 絵里はそれだけといった具合に、さほどの興味も見せず口にした。絵里と対面して座っている生徒が、笑顔を、先日の合唱部部長のような完璧なそれを見せつつ、先ほど聞こえた柔らかな口調で光梨に話しかけてきた。

「まずは、歓迎するわ。地学部にようこそ。私は部長の安積雪子。高等科三年生。絵里さんとクラスメイトなのかしら? 自己紹介、してもらえる?」

「ぁ、はい、」

 光梨は雪子に促され、臭いに呼吸の管理を惑わされつつ、言葉を口にする。

「高等科一年の国分光梨です」

「光梨さん。お見かけしたこととかないのだけれど、高等科から編入かしら?」

 雪子は柔らかな声で尋ねる。光梨はようやく雪子の顔に焦点が合う。雪子はやや丸顔で、目も丸い。穏やかな声が似合う顔立ち、と光梨は思う。その頭を、僅かにかしげて微笑む姿などは、下級生の光梨であってもかわいらしいと思えた。光梨はその視線を雪子に限定することにした。可知子の存在も、その視線も、過敏なまでに感じていた。だがそれに、逆光に翳るその姿に、向き合えそうになかった。慥かに目の前には琥珀の間の天使がいる。だが、なんなのであろうか、この異様な事態は。光梨は現実への整合性を失っていた。

「はい、高等科からの編入です」

 雪子が笑んで光梨からの答えを受けたその時、あの鋭い声が、可知子の笑い声が、狭い部室に響いた。

「ふふ、ははは、物好きな子もいたものね。この臭いに対する健闘を祈るところだわ」

 可知子が手元の杖をもてあそぶ。リノリウムの床材が杖に衝かれて硬く、どこか湿った音を出す。光梨は違和感を覚えた。右手の動きが不自然だ。一度目が行ってしまうと、光梨の視線は急速に可知子の観測に費やされはじめる。顔が、赤い。いや、顔の左側は白いのだ。だが右側、眼帯のある方、頬から眼帯の下までが、赤く腫れ上がり、一部はケロイド状に引きつっている。顔面だけではない。ワンピースまでの首筋も、同じ具合だ。

「可知子」

 雪子は可知子をたしなめる。

「そうね、失礼したわ、光梨さん。私は深井可知子。高等科二年生、この臭いの元凶よ」

 光梨は、何を言われたのかわからなかった。そもそも、あの天使が自分の名を呼んだことすらよく認識できていなかった。ましてや、臭いの元凶といわれて、どういう意味なのか。光梨の中では可知子の発した言葉は氷のごとく解氷できずにいた。この臭いが可知子のもの? 光梨は、腐爛した彼女の像を微かに感じた。可知子は、遠くで笑っている。その表情は、どう見ても、愉快そうである。

「こちらが先になったから説明しておくわね。光梨さん」

 雪子の声が聞こえる。

「はい」

 光梨はぼんやりとした返事をした。雪子の声自体、ぼんやりとしか聞こえていなかった。

「可知子はね、病気なのよ。あくまで突発的なものよ。人に移ったり、つまり感染とかするものではないそうなの。それで、」

「雪子様、自分で説明しますわ。それくらい、自分の身体のことですもの、私が責任をもって伝えます」

「可知子」

「光梨さん」

 可知子の声が雪子のものに取って代わる。可知子は呼びかけた後、十分時間を置いてから、言葉を続けた。

「私はボーマン氏病という奇病に罹っているの。化膿連鎖球菌という細菌がいて、これは健康な人でも誰でも持っている細菌なのだけれど、これが私の体質の異常でね。免疫異常が起きて、私はこの細菌への免疫がほぼないの。細菌は私の身体を壊死させていく。腐らせていくのよ」

可知子の声は自信に満ちていた。それは冷水となって光梨の心に浸入していく。光梨はようやく可知子という存在を彼女の世界に受け入れはじめる。心を震わせて可知子の言葉を耳にし、その声の主をその目に収める。

「人食いバクテリアって俗称でも知られているわね。本来それなら症状は極めて急速に進むのだけれど、私の場合僅かずつしか進まない。一応進行型壊死性筋膜炎という呼び名もあるわ」

語りかける左の瞳は、あの時見た黒曜石の鋭さを持っている。やや釣り上がり気味の大きな目は彼女の雄弁さに相応しい。眉は勇壮な直線。全体の顔立ちはどこか攻撃的な印象が漂うものの、整っており、それは精悍ですらあるように見えた。濡羽色の素直な髪は首筋の長さで切り揃えられているが、腫れの見える右半身の側が明らかに短く、そこに病の翳が見て取れる。座っていても存在感があるが、見ると上背がある程度あることがわかる。ワンピースから覗く脚は黒タイツに覆われているが、よく見ると、右脚が不自然である。義足なのであろうか。

「つまり、私の身体は生きながらに細菌に食われ、右半身から腐り落ちていっているの。腐るたびに切除しているけれど、もう追いつかない。いずれ、腐敗は臓器に達するわ。そうなれば、ここの皆が困ることもなくなるのだけれど」

「可知子!」

 最後の可知子のおどけたような口調に、雪子が緊迫した声を出す。可知子は軽く肩をすくめてみせた。光梨は、可知子の言葉の意味するところがよくわからないでいた。

「深井可知子の自己紹介はこれで終り」

 可知子は僅かに冗談めかして、自分の言葉を切り上げた。

「ごめんなさい、光梨さん。色々、訳ありで」

 雪子が申し訳のないような表情で口にする。

「いえ、いえ」

 光梨はそれだけ口にする。まだ、光梨は可知子の存在を脳に受け入れすることができないでいた。光梨の頭は今しがた受け取った情報を整理収拾するのに精一杯であった。

続けて雪子が口を開く。

「では、秋子さん」

 雪子が視線を向けたのは、絵里の横に座る生徒であった。秋子と呼ばれた彼女は光梨に笑みを見せてはいたが、それはどことなく作られたようなものであった。

「私は大林秋子。三年生。地学部の副部長よ」

 いつの間にか可知子に並び座っている、先程入口で出くわした少し大柄な生徒が、口を開く。

「私は持明院涼子。二年生。地学部の会計。よろしくね」

 彼女は人好きのする笑顔を浮かべていた。愛嬌のある顔で、それを補強するように輪郭も丸みを帯びている。ただ、光梨が気になったのは、左頬に数条の青あざがあることであった。

 最後に平静ではあるが笑顔というほどのものでもない顔をした竹中絵里が口を開いた。

「私は竹中絵里。同じクラスだから知っているよね。地学部に興味があるんだったら、一言声をかけてくれればよかったのに」

「ごめんなさい」

 光梨は恐縮して反射的に謝罪を口にする。しかしながら、光梨の大脳の半分は先程の可知子の言葉を理解しようと努めていた。可知子を除く部員たちは、新入部員が入ってよかった、などといったような話に興じはじめていた。

「光梨さんは何故この部に?」

「天体観測とか、興味があって、」

「中学の頃は何部に?」

「え、と、茶道部に」

「本当、新入部員が来てくれて助かったわ」

「どうもです」

光梨は、勧められたパイプ椅子に腰掛けて、部員たちの問いかけに、半ば上の空で答えていた。光梨の脳は先程可知子が口にした言葉の理解のために傾けられていた。だが、可知子のことは直視できなかった。視線は何か口を開いていた部員に曖昧に向かった。それに、可知子は一言も口を利かなかった。

 部員たちと光梨との話題が、谷に落ち込んで静まった時。涼子が、可知子に話しかけた。

「可知子、」

「何?」

 可知子の声は不機嫌そうであった。涼子は可知子の方に向き直って更に続ける。

「さっきみたいな言い方はやめようよ」

「さっき?」

 可知子は声も視線も冷たく返す。

「可知子の病気のこと。私達が困らないとか、そういう、ね、」

 涼子の言葉を遮るかのように可知子は右手を上げると、涼子の頬に横から打ち付ける。

「っあっ、」

 涼子が思わずといった調子で声を上げる。鈍く硬い音がする。涼子は、僅かに身をのけぞらせたが、可知子の手は軽く頬に触れていた。室内にいる全員が二人に注目する。可知子は右手を収め、涼子は右手で軽く頬をさすりつつ口を開く。

「可知子、右手はなしにしよう、右手はなし、ね」

 可知子はそのようなことに関せず、とばかりに腕を組んで、涼子と逆のほうを向く。光梨はそれを見て息を呑んだ。可知子の目の、その鋭さが、恐ろしく思えた。それがいつか自分の方に向けられはしないか。それこそが恐ろしく思えた。

「可知子さん! 右手はやめなさいって言っているでしょう?!」

 雪子が、彼女の穏やかそうな顔に険を見せてたしなめる。可知子は、ますます尖った視線を壁に投げかける。

「わかりました。努力します」

 明らかに不本意というような声を、可知子は半ばうめくように出す。

「お願いよ」

 雪子は溜息混じりに口にする。言われた可知子は、だが、雪子の顔を見ようともせず、横の壁を睨んでいる。光梨は根拠もなく恐れを感じ、視線を落とす。自分はどこに来てしまったのであろうか。ここはどこなのであろうか。

 不意に光梨は鋭い視線を感じた。可知子だ。光梨は直感した。恐る恐るその直感を確認するために視線をわずかに彼女の方へと向ける。だが一瞬であった。一瞬確認できただけであった。その怜悧な視線。怖い。光梨は自分の状況を受け入れられないでいた。琥珀の間の天使を追ってここまで来た。彼女は目の前にいる。だが、光梨は何もできずにいた。

「部長、さっきの話の続きは?」

 秋子が少し大きな声を出し、沈黙を打ち崩す。光梨は彼女にあまり親しみを持てる気はしなかったが、この場面においては彼女の言葉は救いだった。光梨は秋子の方に注目した。

「ああ、そうね。新入生もこうして入ったわけだし」

「そうそう。新入生の意見を聞かないと」

 納得したような表情の雪子に、間を置かず秋子が、光梨に問いかけるかのように言葉をかぶせる。そして二人は光梨へと視線を向けた。光梨は事情を飲み込めず困惑した。そして少なくとも自分に注目が集まっていることに緊張を覚えた。

「光梨さん。地学部では毎年春に新歓、新入生の歓迎のために、池袋のプラネタリウムに行くのだけれど、未だ今年プラネタリウムのどのプログラムを見るか決まっていないの。ええと、なんといったかしら、」

「Psy-chsです」

 雪子の疑問を絵里が埋めた。

「そう、そのサイクスの音楽のプログラムにするか、あとニューホライズンズのプログラムを考えているのだけれど、どちらにするかまとまらなくて。秋子さんと絵里さんはその音楽のプログラムがいいと言うのだけれど、可知子がどうしてもニューホライズンズのを見たいと言ってね、」

 雪子は視線を、秋子と可知子とに等分に向ける。

「私と涼子さんはどちらでも構わないのだけれど」

「私は嫌よ。そんな下らないプログラム」

 可知子は何か汚物でも取り扱うかのような表情をして不機嫌に言う。

「二対一なのだから、多数決でしょ。従いなさいよ」

「下らないものは多数決だろうが何人支持していようが下らないです」

 秋子の不満な声に、可知子はそれが心底嫌だというような軽蔑の籠った声で対抗する。

「まあ、二人とも。光梨さんの意見も聞かないと」

 雪子と秋子の視線が光梨に向く。だが可知子は一瞥もしなかった。

「あ、え、と、」

「ああ。そうね。入ったばかりなのにいきなりこんなこと決めろと言われても無理よね。ごめんなさい。ええ、パンフレットを渡すから考えておいて頂戴」

 雪子は机から彩色された紙を取ると光梨に向けて差し出した。

「はい、」

 光梨は曖昧に頷くとその紙を受け取った。それは今しがた見た、地学部部室の扉に貼られたものと同じ内容であるようであった。光梨は紙面に視線を落とす。そこには慥かに「Psy-chs 星空に響く音楽」と「ニューホライズンズの軌跡」と書かれている。Psy-chs は光梨だって知っている。有名なバンドだ。ニューホライズンズが何なのかは知らない。パンフレットをぱっと見た限り、冥王星の探査衛星であるらしい。光梨単独であれば、音楽プログラムを普通に選ぶことであろう。だが、可知子は探査衛星の方を推している。光梨の考えは宙に浮く。

 光梨がそうして漠然と考えていた時、涼子が可知子に話しかけた。

「可知子、新入生も来たわけだから、ね」

「何だというの」

 可知子は涼子の方を向いて、刺々しいというよりは、刺そのものといった口調で応える。

「もう少し、変わろうよ、」

 可知子はそれを鼻で笑うと右手を肩の高さまで上げ、元に戻した。しばらくその右手を見つめていたが、やがて左手でワンピースのポケットをまさぐった。出てきたのは銀の懐中時計であった。可知子は龍頭を押して蓋を開く。

「時間ね。もう帰るわ」

 口にしつつ、右手の杖を支えにしてゆっくりと立ち上がる。その姿は、明らかに不自然で多大な労力を費やしているように見えた。彼女は立ち上がると、涼子に半身を向けて、湿った声で口にする。

「悪かったわね」

 そのまま彼女は机に置かれた鞄を左手に取り、右手の杖を支えに昂然と上半身を反らせた姿で、右脚を引きずりつつ、出口の方へと向かった。両の脚と杖と、三つの音をさせて可知子は進む。光梨は彼女に道を開けるべく、椅子を引きずる。一瞬、上向きに反り返った彼女の眼光が飛び込んでくる。光梨はその光におののき、視線をそらせた。腐敗臭が強くなる。慥かに彼女は腐敗している。光梨の呼吸は中途半端に止まった。彼女の気配が光梨の横を過ぎていこうかというその時。光梨の右肩に、重いものが乗せられた。光梨は僅かな時間を使い感じ取る。それは可知子の右手であった。右手なのだが、硬く、冷たい。指が、硬く、冷たい。金属だ。光梨はわかった。義指なのだ。

「よろしく」

 可知子は先程涼子に告げたのと同じような湿った声で口にした。光梨は可知子の方を振り仰ぐ。可知子は一瞥もくれない。右脚を引きずるように扉へ向かい、それを開く。光梨は、今度ははっきりと可知子の方を向いた。後ろ姿の可知子の右耳は、その輪郭は、僅かに、だが確かに欠けていた。光梨の心の底で、何か甘いものが湧きだした。光梨は自身のその心の働きに、微かに驚いた。

ややあって扉は、乱暴に閉められた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ