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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 音楽室をはみ出して練習をする合唱部員や管弦楽部員から逃げるように、早足で光梨は階段を下る。腹の中に消化しきれない黒い塊がある。それは粘っこく、ひどく湿っていた。光梨は階段を一階まで立ち止まることなく下る。立ち止まり、荒い呼吸を整えつつ、右手を口に当てる。両手をだらりと下げて立ちすくむことは、ひどく無防備のように思えた。

 光梨は、大きく息を吸う。新鮮な空気が肺の中に入ってくる。遠く、高いところで、奏楽が鳴り響いている。微かな囁き声と足音が、ひどく遠くから聞こえてくる。光梨のいる一階は、傾いだ夕日で翳になり、紺藍に染まっている。ぬるんだ空気が足元に渦巻く。ここは深い滄溟の底。遥か高みでは、堂々たる魚たちが活発に泳いでいる。光梨のいるところにまで、光は届かない。溟く、静かな海の底。その底で僅かに生を繋ぐ惨めな深海魚。

 光梨はすっかり冷えてしまっていた。もういい、今日は終りだ。今日という一日は終わったのだ。光梨は海の底を這うように登下校口へと向かい始める。

 校舎中央の生徒ホールに出る。最上層までが吹き抜けになっており、周囲をギャラリーに囲まれている。上層階からは音楽が鳴り止まない。光梨はその音楽の鳴る方を振り仰ぐ。遠い。光梨にとっては余りに遠い。上層階は薄暮の太陽で琥珀色に染まっている。光梨には辿りつけない眩しい世界。

 もういい、帰ろう。光梨はそう思い、視線を戻す。気がついた。最上階のギャラリーにちらと人影が見える。視界の端に、瞬間、目に入った。何かがおかしかった。光梨は妙に気にかかった。何だろう。この違和感は。光梨は、再度視線をその人影へと戻す。

 そこには、射しこむ西日の中、屹立する一人の女子生徒の姿があった。その体躯は梓弓のようにしなやかに張りつめ、その輪郭からは内なる緊張感が伝わってくる。

 光梨の目に何よりもまず留まったのは、彼女の身に着けている白だった。彼女の右目は、白の眼帯に覆われている。彼女の右手は白い手袋がはめられており、その先には、長い棒が伸びている。杖を手にしているのだ。彼女は杖を支えに、傲然と上半身を反らしている。その態度は、まるで天に叛逆した暁のルキフェルのごとく。傲慢さが憧憬の対象に変わるまでの、ある種の崇高さすら兼ね揃えていた。眼帯に覆われてはいるが、その顔立ちはその傲慢さにつり合うまでに整っている。濡れ輝く黒髪に、黒曜石の瞳。瞬間ではあるが、光梨の眼にそれは確実に収められた。光梨は熾れる琥珀の間に天使を見た。畏るべき影。眼帯の天使。悦びだ。光梨は胸に甘い光が満ちるのを感じた。

 彼女が頭を動かす。光梨は驚いた。明らかに光梨を確認しようとしている。光梨は慌てて、海底の魚が驚いて逃げるように、回廊の影へと入る。後のことなど確認しなかった。できなかった。光梨は恐怖に憑かれ、琥珀の間を振り返りもせず、登下校口へと駆けた。

 光梨は登下校口に入ると、壁を背にして、息を整える。持っている鞄を両の手で握り、身体を縮こませる。光梨は生徒ホールの方を伺う。誰の視線も感じない。背中はもう預けた。光梨は安堵する。あれは、なんだったのであろう。光梨は、息を継いだ後、自問する。制服を着ていたから生徒には違いない。彼女は、事故にでもあったのであろうか? そうであろう、それが妥当だ。最近のライトノベルにあのような眼帯をつけるフィクションもあるがフィクションはフィクションにすぎない。だけれど、あれは。どうにも、美しすぎる。琥珀の間の天使。

 光梨の中の光輝が収束していく。世界は紺藍に冥く染まっていく。だが、登下校口の床は西日で琥珀色に燃えたままだ。光梨は、冷たくなってきた身体を引きずり、外へと向かう。風が澄んだ空気を運んでくる。光梨は大きく吐息すると、帰宅の道についた。


 その日の夜、光梨は琥珀の間の天使を記憶の奥底に閉じ込めていた。それは意識してというのもあるし、テストの追試と、何より合唱部の冷えた記憶が頭にあったからだ。光梨の頭の中は合唱部への誘いをどう断るかについて模範解答を探すことで占められていた。

 翌日起きると世界は変わっていた。目覚めてすぐに琥珀の間が頭に浮かぶ。どうにも夢に出てきたようなのだ。夢の内容は全く覚えていない。だがあの光景は光梨の心に確実に憧憬の焔を灯していた。あの光景は光梨の心にひどく甘い陶酔をもたらしていた。あの光景から光梨の心は逃れ得ぬように思えた。光梨は思い出す。あの眼帯、あの白手袋、あの傲然とした白皙。何より忘れられない黒曜石の瞳。琥珀の煌きの、陽光の波の中で厳然としてそこに存在する鮮烈な瞳。琥珀色に溶解していく世界の中で、それに抗い確固として輝きを放つ一つの星。光梨の意識が外に向かおうとしても、あの光は一つの重力源として光梨の憧憬を吸い込む。その僅かな瞬間にあの梓弓のように張られた体躯が、その輪郭が脳に焼き付く。それは光梨にとって実に冷たく甘い焔であった。

 光梨は登校のための列車車内で、すでに神経を尖らせはじめた。昨日見た、あの天使が生徒たちの中に混じってはいないか。駅を降りてから、より一層光梨は神経質になった。あの天使はいないか。杖の少女はいないか。白い眼帯は見えないか。光梨は視線を同じ制服の少女たちに這わせた。杖も白い眼帯も見つからなかった。光梨は彼女と接触できる可能性を思うと、息が詰まったように苦しくなり、視線はますます近視眼的になっていった。

 光梨は登校しても、学舎の中でもあの姿がいないか、震える視線で探したが、その影は見つからなかった。教室に入ると光梨は安堵した。少なくとも教室には彼女はいない。

礼子と郁美が光梨の席にやってきて、挨拶する。それは、毎朝大抵そうであった。光梨にとってこの「習慣」は完全な孤立を避ける一縷ではあるのだが、どうにも不本意な現状だと光梨には思えていた。

 大した話題もなく、その日の課題の話などが漫然とされていた。その流れが途切れたのを見計らって、光梨は口にする。

「あの、眼帯の。この学校に、眼帯と杖の女の子って、いる、よね?」

 礼子と郁美は、僅かに虚を衝かれたような顔をすると、互いに視線を軽く交差させる。そして礼子が口を開く。

「ええ、いるわ。二年の深井可知子様ね」

 その通り、とばかりに郁美は頷く。

「二年生の。深井様。その、どんな、えと、怪我か何か。事故にでも?」

 誰か特定の他人のことを様づけして呼ぶのは始めてであると、光梨は認識する。それは実にぎこちなく不慣れであるが、彼女への呼称としては相応しく思える。深井可知子。それが、あの天使の名前。光梨はその名前の響きがもはや甘い。唾液が滲む。

「深井様は、」

 そう言って、礼子は息を呑む。

「可知子様は、ご病気だそうよ。詳しくは知らないのだけれど」

 礼子の口調は慎重で、作り物のようで、言葉を選んでいることが十分に窺える。

「なんというのかしら、かなり珍しい病だと聞いたわ。人に移るようなものではないのだそうだけれど、治療が難しいとか」

 言い終えて、礼子は、何か畏まったような顔をしている。郁美も、顔に何か作ったような表情を浮かべている。光梨は光梨で、話を聞いて、呆けたように口を開いていた。視線をどこに合わせたらよいのかよくわからなくなってしまった。光梨は、数秒間視線を宙に彷徨わせると、礼子に尋ねた。

「ええと。どんな方、なのかな? その、パーソナルな。個人情報というか」

「ああ、苛烈な方よね」

 答えたのは郁美であった。それは全く正直な見解らしく、光梨の問に対して即座に返された。礼子は、同意するように、相槌を打つ。

「中等科で可知子様が三年生の時だったかしら。生徒総会の時に、総務委員の方たちを相手に舌鋒鋭く追求されていて、委員会の方々が圧倒されていたわ」

「あれは聞いている私達もなんというのか。そら恐ろしいというのか」

 二人は視線を交差させ二人同時に軽く息をつく。光梨は、その情報にいささか驚きはしたが、むしろ彼女のあの傲然とした姿に相応しく思える。

「あの方。可知子様」

 口にして、光梨は呼吸を整えた。光梨にとっては人の下の名前を、それも様と敬称をつけて呼ぶのに違和感を覚える。それでも光梨は、あの琥珀の間の天使を様づけで呼ぶのことがむしろ誇らしいように思えてきた。彼女は様づけで呼ぶべきだ。光梨にとってそれは悦ばしい教義と化しつつあった。

「可知子様は、部活とか、やっていないのか、しら?」

 光梨はぎこちなく尋ねる。部活なら、あるいは。学年の違う可知子と知り合う機会があるかもしれない。光梨の心は急いていた。何としても、彼女と接点を持ちたい。このまま、あの瞬時の邂逅で終わらせたくはない。彼女の、名前すらわかったのだ。であるとすれば、彼女の知己となることも可能なはずだ。なんとなれば、これは運命なのだ。あの天使と知り合うことができるという、運命なのだ。

「可知子様の部活。何だったかしら」

「どなたか、部活が同じだって言っていた方がいたわね」

 礼子と郁美は顔を見合わせる。光梨は、祈っていた。可知子との再会を祈っていた。だが、光梨は恐れてもいた。本当にあのような天使に謁するなどというのは、あまりにその事柄は輝かしいことで、直視しがたいものであった。光梨は希望と畏れの混じった心情で二人の言葉を待つ。

「ああ、絵里さんよ。同じ部活で、その。大変だとか。いえ」

「そうね、絵里さんだったわ」

 郁美が答えにたどり着く。それを確認して礼子は頷くと、二人は先程の畏った顔を復活させる。

「絵里さん、」

 光梨は、その情報をうまく飲み込むことができず、上ずったような口調で口にする。

「ええ。竹中絵里さん。地学部だわ」

 郁美はやや情熱に欠けた口調で認める。光梨は地学部という聞きなれない言葉を自分の中で反芻する。光梨は可知子と、その地学部という土埃に塗れたイメージとが合致しない。

「ああ、地学部というのは天体観察をする部活よ」

 礼子は光梨の疑問を推し測ったのか、回答を投げてよこした。天体観察。それならば、あの天使に似合っている。光梨は納得した。

「ええ、絵里さんに、紹介とか、しましょうか? まだ、来てないようだけど」

 郁美が、逸らし気味の視線で、躊躇いがちな口調で、光梨に尋ねてくる。

「あ、いや。自分で行くから、うん、大丈夫」

 光梨は郁美にそう告げた。竹中絵里とは同じクラスとはいえ全く接点がない。それに、少なくとも今ある知識だと、彼女はクラスでも派手な方で、いうならばクラスの中でも違う集団で、自分と合わないものを感じていた。そのような存在に可知子との関係をあるいは一任するのは、不安というよりは、何か矜持において許しがたいものを覚えていた。

「ああ、そう、なら、うん。本当は、絵里さんってあまりお話とかしたことなくて、」

 郁美は戸惑ったような顔を見せつつも安堵の息をつく。

「そうね、私もあまり接点がないわね」

 礼子も同じように口にする。光梨は、二人の態度に、恐らくは似たような心地を覚える。なんであれば、このことに、あまり他の人間を介在させたくない。特に、そう。あの天使と、可知子様との間に竹中絵里のような人物を挟むなど、考えたくない。二人は、そのまま竹中絵里の属する集団について話題にしている。光梨は、それに馬耳東風としていた。ただ少し思ったのは、この二人がクラスの他の生徒について、否定的な話題を口にするのは珍しいな、ということであった。

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