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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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3

 それからも光梨は灰色の日々を送っていた。礼子と郁美は二人でボランティア同好会に入ったためか、二人だけで話す機会が多くなった。光梨との会話が途絶えたわけではなかったが、減っていった。綾音ともあの後何があるというわけでもない。彼女としゃべる機会が、光梨に特別もたらされるようなことはなかった。

 そのうち春の大型連休のことが、教師や生徒たちの口の端に上るようになってきた。光梨は危機感を覚えた。このまま自分がどこに属することもなく、三年という時間が浪費されてしまうのではなかろうかと。

 その日、光梨は数学の小テストで赤点をつけられ、放課後の教室に居残ることになった。放課後の清掃の終わった教室には、他愛もない会話をする生徒が数名。数学の小テストで残された生徒が若干名残っている。人気もまばらな、午後深くの色彩の濃い陽光に満たされた教室には、どことない頽廃感が漂っている。その陽光の眩しさは、かえって廃墟の翳を色濃くする作用をもたらしていた。

 光梨が教室を見回すと、一人の馴染みある顔がよぎる。綾音だ。光梨の心に一瞬隙ができた。綾音は光梨の視線を確認すると、ばつが悪そうな顔をして、軽く手を振ってくる。光梨は軽く息を呑む。綾音はそれに追い打ちを掛けるかのように立ち上がると、光梨の方へと歩み寄ってくる。光梨は、少し慌てた。綾音はその心の動きは知ることもなく、光梨の元へと歩いてくる。隣の空いていた座席に腰掛ける。

「光梨さんも落ちちゃったんだ。いつも残っていないのにね」

 綾音は照れくさそうな笑みを顔にし、光梨に語りかけてくる。

「あ、その、ミスっちゃって。勉強は、してきたんだけどね、」

 光梨は、まどろっこしく言葉を選びつつ、口にする。

「うん、いつも居残ってはいないよね」

「あ、うん、綾音、さんは、残ることが?」

 光梨は、「綾音さん」という言い回しに不慣れさと、照れを感じ、掌に冷たい汗をかく。

「いや、いつもってわけじゃないんだけど」

 光梨はその言葉に、失礼なことを言ってしまったのではと、少し焦りを感じた。

「数学は苦手でさ。油断するとね、」

 綾音は照れ笑いを浮かべ続ける。

「あんまり残されると部の方で怒られちゃうんだけどね、」

 部。光梨は、綾音が何か部活に入っていることをはじめて知った。何部なのであろうか。あるいは、もしかしたら。自分が同じ部活に所属するということも、ありうるのではなかろうか。

 教室の扉が開かれた。光梨の視線も、綾音の視線も、音のした方へと向く。教室の入口には、眼鏡をかけた細面の男性数学教師が立っていた。追試の時間というわけだ。居残っていた生徒たちは、不満気な声をあげながら退室していく。綾音も自分の席へと戻っていった。追試だというのに、光梨の心は喜びに小躍りしていた。それは綾音と話すことができ、追試という理由であれ綾音と時間と場所を共有できるからであった。居残りに対する負の感覚と綾音に対する正の感情とが、奇妙な平衡を保っていた。

 追試はさして問題になるようなものではなかった。だが、光梨にはひどく焦燥感があった。いつまで綾音と時と場所を同じくしていられるか、という焦燥である。それは奇妙な倒錯だった。もし自分が、あるいは彼女が早く及第してしまったら。光梨にとって半永久的に彼女と会話する機会が喪われるとすら思えた。

 光梨は、答案を書き終わる。深く吐息しシャープペンシルを手放すと、汗ばんだ手を握る。シャープペンシルは湿った音を立てて紙の上を転がった。光梨は密かに視線を綾音の方に走らせる。綾音は一心不乱に筆をプリントに走らせている。真面目な表情、彼女のその顔立ちに、微かに心が揺れる。

 テストが終了した。プリントが回収され、教師が教卓で採点する。教師は採点し終わると、生徒たちの名を呼びはじめる。最初に呼ばれたのは伊集院綾音であった。光梨はその名を聞いて、妙に体温が上がるのを感じた。意識しすぎだ。光梨は自分でそう思うが、その自覚が更に体温を上げる。

 教卓の前に赴き、採点されたプリントを受け取った綾音の表情は、明るく輝いていた。光梨の視線に気がついたのか、軽くプリントを持ち上げて笑顔を見せて視線を送る。ああ、素敵だ。光梨は何か満たされるものを感じた。

 やがて教師が光梨の名を告げる。光梨はもう綾音が席に戻ってしまったというのに、意識が綾音の笑顔を見せた空間に固着し、教師の声にいささか不意を衝かれた。光梨は立ち上がり、確実さのない歩調で教卓の前へと向かう。教卓の前にたどり着くと、教師はプリントを差し出した。そこには、赤いペンで90と書かれている。綾音と一緒に帰れるのでは。光梨の中に、微かにその発想が、暗中の光として射しこんだ。が、光梨はすぐにそれを否定した。綾音は何か部活動をしているはずだ。

 まあいい。どちらにしても今日は帰れる。光梨は鞄に教科書やプリントをつめ込む。視線がちらと綾音の方に流れる。光梨は奇妙に思った。綾音は、もう支度を整えた様子なのに、机の傍らにおり、あまつさえ光梨の方に視線を投げかけているかに見える。見られているのであろうか? 光梨は、焦りを感じた。光梨は綾音の存在が気になって仕方ならない。その視線から逃れるために、急ぎはしなかったが心中慌ただしく、出口へと向かう。同時に綾音も同じ出口へと歩み始める。なんという事か。光梨は確信した。綾音は自分に用事がある。光梨の胸は予感で満ちた。苦しいほどに。

 二人で同時に教室を出る。放課後の廊下はどこか賑やかであった。散発的な生徒たちの歓声。ざわめく話し声。それより目立つ、奏でられる音楽。くぐもって鳴り響く管弦楽の音色。遠くに聞こえる少女たちの合唱。辺りは音に満ちている。

 光梨のすぐ傍らに綾音がいる。光梨は息を呑んだ。綾音は光梨の視線を確認し、笑顔を浮かべると、教室の扉を閉めた。

「行こっか」

 綾音は自然に口にすると、廊下を歩き、光庭の階段の方へと歩き始める。光梨の脳内では、綾音の行動への疑問が渦巻いていた。何事なのであろうか。何故綾音が共に行動しているのか、その意図は何なのか。尋ねようか、尋ねるべきなのか。

「光梨さんさあ」

 綾音が口を開く。光梨の機先は制された。これから自分は何を聞かれるのであろうか。

「何、かな」

「部活はもう入ったの?」

 光梨は、まだ混乱していたが、問いへの答えは明確であった。

「ううん」

「入る予定は?」

 僅かな間、話しながら歩いているうちに、光庭の階段の傍らまで来ていた。綾音はそこで足を止め、光梨にしっかと向き合う。光梨も、足を止める。綾音とこうも直に対面するのははじめてだ。光梨の胸は予感で満ちていた。綾音は素直な視線で光梨を見ている。だが光梨は自身の視線の素直さに自信を持てない。

「ない、よ」

「じゃあさ、」

 綾音の口調は確信と期待に満ちている。声が華やいでいる。彼女が、自分に期待を寄せている。自分の彼女との間で、喜びが巻き上がろうとする予感を、互いに共有しあっている。光梨にとって類稀なる幸福な事象のように思えた。

「合唱部おいでよ。ね、一緒にやろ?」

 光梨の中で、歓喜が弾けた。胸が詰まって言葉に窮した。光梨は、それでも、肯定の意を伝えようと、軽く頭を縦に振り、震える声で口にした。

「うん、あ、その、誘ってくれるなら、」

 だが、そこで満たされていた歓喜の潮が微かに引いていく。心に静粛と余裕が戻る。合唱部。合唱。自分は、音楽をやったことがない。光梨はその基礎的問題に気がついた。音楽の授業は並の成績。合唱コンクールでも同級生の影に隠れるように歌うだけであった。

「あ、でも、私、音楽は並の成績だし、」

「大丈夫だよ。高等科からはじめた初心者の人もいるし、きっと光梨さんも歌えるようになるって」

「あ、うん、」

 光梨は、綾音の、その輝いた瞳に、その期待に満ちた声に、抗えそうになかった。彼女の喜ぶ声を聞きたい。その瞳の希望の輝きを見ていたい。その欲求に、心が雪崩れ込んでいく。光梨に光明が射していく。

「最初はさ、見学だけでいいからさ。ちょっと、来てみない?」

 光梨にとって、「見学」という言葉は、合唱部というものの敷居を、あるいは部活を決めるということの、あるいは綾音とともにいるということの敷居を、下げてくれるものに思えた。それはとても便利な言葉であった。

「ああ、うん、見学だけなら、そうだね、そうしようかな」

「じゃあ、行こう、ちょうど今練習やっているからさ、」

 綾音は光梨の右手をとる。柔らかな、わずかに湿気を帯びた感触。光梨の体温は上がる。手を握られたくらいで体温が上がるなど、駄目だ。彼女に伝わってはいけない。そう意識してしまうと、余計手が汗ばんでしまう。

 綾音は光梨のそのような心情など意にとめずに光庭に面した階段を上がっていく。光梨にとっては、綾音が光梨の感情に気がついているかどうかだけが、重要なことだった。

「光梨さん、音楽は全然?」

 綾音は、振り返ると聞いてくる。

「ええと、授業でやったくらいかな、あとがっしょ、合唱コンクール」

 光梨は自分の舌が上手く回らないのに、もどかしさを感じる。

「そっかー。まあ、大丈夫だと思うよ。高等部からの初心者も結構いるから。光梨さんは声域広そうだし」

「せいいき」

「うん」

 せいいき。それは光梨にとって未知の言葉であった。無論、漢字で書けば「声域」であろう。容易に想像できる。だがそれにしても。光梨にはとても専門的な単語であるかのように思えた。自分は未知の専門家集団に加わろうとしている。冥志舘合唱部。これは本当に自分の人生なのであろうか。何かが、現実になりかけている。

 階を昇っていくと、楽器の音や歌声が大きくなってくる。聞こえてくる音色は全てが違ったもので、全く別個の音楽に聞こえる。しかしそれらが総合して耳に入ると、一つの調和した音楽を予感させる。

 階段を昇ってすぐ近くに、第二音楽室がある。周囲には、何語かわからない歌を重唱する生徒たちや、何かしら楽器などを演奏する生徒たちがいる。綾音はそのまま第二音楽室の扉に手をかける。光梨は心の準備ができていない。だが、綾音は扉を開けた。光梨は渦巻く歌声の波に包まれる。旋律が怒涛のように押し寄せる。

 目にとまったのは、音楽室の教壇の前に立っている生徒であった。気の強そうな眼差しに、意志の強そうな口元。髪はセミロングで、耳にかかる部分を後ろで束ねている。彼女は扉を開けた綾音に気づくや、腕組みをしたまま強い口調で綾音を叱責する。

「遅いわ、綾音さん」

 彼女は綾音をひと睨みすると、すぐに綾音の連れてきた生徒に気づく。眼差しから険が消え、口元からも緊張が引いていく。

「すみません、部長。小テストでやっちゃいまして」

 綾音は光梨と繋いでいた手を離すと、両手を合わせて謝罪する仕草をする。光梨は手を離すのが、随分と軽く離されたように思えて、微かに複雑な感情を抱いた。

「いいわよ、で、その子は」

 部長と呼ばれた彼女は、今度は眼差しも優しげに、組んでいた腕を解き、笑顔すら浮かべて光梨の方に向き直る。

「同じクラスの子なんですけれど、部に興味を持ってくれて」

「あら」

 そう言うと、部長は一瞬目を丸くすると、穏やかな目つきで、光梨に微笑みかけてくる。

「ごきげんよう。私は合唱部部長、三年の小倉衿子よ」

「はい、よろしくお願いします」

 光梨は若干上ずった口調で口にすると、頭を下げた。

「あなた、お名前は? 私が名乗ったのだから、あなたも名乗るものではありません?」

 光梨は慄然とした。世界が暗転する。目の前の彼女は笑顔を見せてはいたが、その瞳には光梨を責める意志の力を覗かせている。

「すみません、」

 光梨は早口で応えた後、ゆっくり息をしながら続ける。

「あの、国分光梨です、よろしくお願いします」

 衿子は笑みを崩さず、しかしなおも光梨を検分するような目をしていると、少なくとも光梨には見えた。

「綾音とは同じクラスだそうね。あ、綾音はパート練習に加わりなさい」

 衿子は光梨から視線を綾音へと移す。

「はい、わかりました」

 綾音は、衿子に頭を下げると、視線を光梨に向ける。

「じゃあ、また後でね」

 そう軽く言って、綾音は音楽準備室の方へと向かう。光梨は、それを少し名残り惜しそうな視線で見送る。

「ふふ、そんなに怖気づかなくてもいいわよ。光梨さん。音楽の経験は?」

「いえ、音楽の授業だけで」

 光梨は、微かに言葉を震わせながら答える。

「そう。入部希望、ということでいいのかしら?」

「いえ、今日は、あの、取り敢えず見学っていうことで」

「あら、そう」

 衿子は少し残念そうに吐息をつく。光梨は、少しだけ申し訳のないような心地がした。

「では、音楽室の後ろで見学していて頂戴。本当は、色々案内したいのだけれど。手が離せないの。ごめんなさいね」

「はい、わかりました。後ろで、見ていればいいのですね」

「ええ。もちろん、興味があるのなら、パート練習を見てくれても構わないわ」

「いえ、それで」

 光梨は恐縮して教室の後ろへと歩いていく。音楽室では、生徒たちが英語とは明らかに違う言語の歌詞で歌っている。その響きは凛として澄明感がある。何か聖歌なのだろう。だが、光梨が不審に思えたのが、それを歌う彼女らの表情であった。ひどく人工的な笑顔。口は三日月のように弧を描き、目元は半月のようで僅かに下瞼が膨らんでいる。光梨は僅かに恐怖を覚えた。そしてその恐怖は彼女らの顔を見るほど、心に滲んでいく。

 やがてしばらく後ろで見ていると、先程の部長が部員の注意をうながすように手を叩く。

「じゃあ皆。一旦合わせてみましょう」

 衿子の指示に、部員たちは移動を開始する。音楽室にはくぐもった足音と乱雑な話し声が満ちていく。やがてすべての部員が入室したのか、扉が閉められる。彼女らが整列すると、先程までのかしましさも消える。譜面台の楽譜をいじりつつ、静かになるのを待っていたらしい衿子が、口を開く。

「注目。ええ、四月ももう終り。新しいメンバーも少しずつ慣れてきたかと思います。七月の定演にむけて練習しているわけですが、それまでに『新生』合唱部を形にしないといけない。いい、七月なんて先の話だ、なんて思っていると、すぐに来ちゃうから。七月の定演は、冥志の父兄も来られる伝統ある演奏会です。それまでに、我々は一つの合唱団として機能しなければならない。新人の子もそれに間に合わせてもらいます」

「はい!」

 衿子が部員を眺め渡しつつ、堂々と宣言する。部員たちは一際響く声で一斉にそう応える。雷鳴のようだ。もし光梨が入部したのなら、この集団の一員として機能しなければならない。一合唱部員に変身しなければならない。光梨は先ほど見た笑顔を思い出す。人工的な、奇怪にすら見える笑顔。だが一方で、彼女らのあの表情は自信に満ちていた。その確固たる自信を見せる彼女らと、ここで萎縮している惨めな自分と、いかに違うことか。

 光梨が答えの出ない思考を行っている際も、衿子は指示を飛ばしていた。それに対して部員が受け応えをしている。その口調は激しく、それは光梨の知っている文化系の部活動とはかけ離れていた。それを耳にするうちに、光梨は明らかに自分が場違いなところに来てしまったのだと感じはじめた。眩暈のようなものすら覚えた。

 いつの間にか、静寂が訪れた。

「今日は先生がいないので私が指揮をとります。有馬さん」

 衿子が短く、威厳を内包した声色で口にする。衿子が視線を向けた先には、オルガンの席に座した一人の女生徒がいる。彼女は頷くと、オルガンの音を鳴らした。と同時に、部員たちが声高らかにLaの音を発声する。それは空気を確実に震わせ、その震えは光梨の骨格にまで届く。

 音楽室の中央に立つ衿子は、部員たちを眺め渡す。彼女が手を振り下ろす。

「Jubi-Jubilate Deo o-omunis ter- mnis ter-omnis terra,」

 華やかな歌声を光梨は全身で浴びる。それは天空の音色。宇宙を満たす澄明な灝気の奔流。それが骨の髄にまで沁み渡るかに感じる。光梨は圧倒された。このような力を自分も生み出せるのではないか? その可能性に予兆を覚えた。

「quia sic benedicetur homo, qui ti-qui ti,」

歌詞が途切れ、歌声は急速に消滅した。中央で指揮をとっていた衿子の手は降ろされている。光梨の体内を貫いていた澄明な流れはたちどころに褪めていった。

「第二ソプラノ!」

 衿子が鋭く口にする。自分が呼ばれたわけでもないのに、光梨は衿子の空気を震わせる声に身をすくめた。

「第一ソプラノに負けている。両ソプラノの均衡が取れていないわ。二つは車の両輪よ。あなたたちだけで歌ってみて頂戴」

 そういうと部長は軽く両足を開き右手を上げる。

「Jubilate Deo omunis tera.」

 先程より余程少ない、それでいて微かに荒れた歌声が響く。再び衿子は手を下げた。

「今度は怒鳴っているわね。いいわ。一人ずつ、歌ってみて頂戴」

 部員たちが、僅かに響動いた。光梨も、軽く息を呑んだ。一人ずつ、歌う? この大勢いる中で、一人ずつ歌う。光梨は恐れを抱いた。自分が部員になって、この何十人が注目する中、ただ一人歌う。想像するだけで、足元が崩壊していく感覚を覚えた。

「左端から。いくわよ」

 衿子の断言は部員に他の選択の余地を与えないかのようであった。

「Jubilate Deo omunis tera.」

 衿子の振る手に合わせて部員が歌う。衿子はそれを聞くと軽く首肯した。

「いいわ、次」

 衿子が再び右手をあげる。

「Jubilate Deo omunis tera.」

「あなた、」

 歌が終り、衿子は右手を下げるやいなや、言い放つ。

「それは怒鳴り声よ。歌でもなんでもない」

「はい」

 言われた部員は、僅かに震えたような、惑いの見える声で答える。それは泪を予兆させる。部長は、深く嘆息する。

「あなたのは歌とは呼べない。もう一度、歌ってみなさい」

 光梨は息を呑む。

「Jubilate Deo omunis tera.」

 今度は前に比べるとか細い、という表現のできる歌声が聞こえる。

「あなた、自分の今の歌声をわかっていて?」

「はい」

 彼女の声は、弱く、諦めが滲んでいる。

「廊下で発声練習。喉に手を当ててその喉声を直しなさい。表情もひどいわ。鏡で自分の顔を見ながら練習なさい」

 光梨は目を丸くした。大勢が注目する中、一人で歌わされる。その上で、一時的にであれ追放という措置。しかも自分の顔を鏡で見ながら歌わなければならない。光梨にはその苛烈さが、平穏の中で暮らしている人間への扱いと思えなかった。

 衿子は同様の試問を一人ずつ辛抱強く続けている。光梨の目には執念深いとすら映った。追放は一人では済まなかった。次々に、部員たちが追放を宣告されていた。光梨にとってこの組織はそら恐ろしいものに思えてきた。

 衿子は試問を終えると、更に部員全員に向かって指示を飛ばす。それに対し副部長から意見が出され、更に合唱部幹部たちが意見を交わす。結論が出されたあと、衿子がパート練習に戻るよう告げると、とたんに音楽室は賑わしくなった。部員たちが移動を開始する。光梨は呆然となった。彼女らの動きに焦点を合わせることができない。それは自分の思い描いていた合唱部の想像図ではなかった。その集団主義。合唱部は文化系ではなかったのか。確かに合唱は集団行動だ。だが自分がそれに加わる。光梨は、手に冷たい汗を握る。

「光梨さん」

 目の前で合唱部部長である衿子の声がする。光梨は驚いて、軽く息を呑む。光梨は視点を衿子に合わせる。彼女は、優しげな、完成度の高い微笑みを光梨に向けている。

「は、はい、」

 光梨は息が詰まる。

「今日は、先生もいなくて、こんな調子なのだけれど。先生がいる時はもっときちんと合唱の指導などしてもらえるの。とても楽しいわよ。今週いっぱいは筋トレメインになっちゃうんだけど、興味があったら、来週になったら先生も帰っていらっしゃるし。その後でも途中でも、来てくれないかな? 今日も、このまま見ていてくれても構わないし」

 衿子は光梨の右手を手にとると、両の手で包む。柔らかい。光梨の体温は上がる。何か言おうとしても、言葉が現れてくれない。だが、だがこのままでは私は入部してしまう。それでいいのか? 本当に、自分は一合唱部員に変身するのか? してしまうのか?

「ぁ、考えさせてください、そ、まだ決められなくて」

 震えるような声が腹の底から絞られると、続いてそれだけようやく口から出る。衿子は軽く吐息して両手を光梨の右手から放した。

「ふふ、そうね、いいわよ、好きなだけ考えて。部活ですもの、ね」

「はい、今日は、その、これで、」

 光梨は、なんとかそれだけ口にすると、頭を下げる。

「ええ、また見にきて頂戴」

 光梨が頭を戻す。衿子は相変わらず極上の笑顔を浮かべている。光梨は、今一度軽く会釈する。扉へと機械的な歩調で歩いていく。背中では玻璃のような声で先程の歌が歌われていた。光梨は、その透明さが、自分と同一化する可能性を信じられなかった。


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