表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
腐肉の女王  作者: 資治通鑑
28/28

28

 その後、可知子は長い眠りに入った。時折顔をしかめることもあったが、多くの時間は穏やかに眠っているように見えた。だが、医師は既に可知子が危険な状態であることを光梨と三江に告げた。三江は家族に連絡を取り、清晟が深井家の使用人に連れられてやってきた。清友もその日の夜には病院へ向かうことになった。

 可知子は三江と光梨が交代で看ていた。午前中、光梨は眠りについていた。地学部の皆で遊ぶ夢を見た。夢は曖昧模糊としたもので、地学部のメンバーのはずなのに、礼子や郁美、綾音も出てきたように思えた。そして、可知子の姿がなかった。

 光梨は目覚めた。何故夢の中に可知子はいなかったのだろう。ぼんやりと頭のなかでそう思っていた。時計を見ると一時近かった。交代の予定は十二時だった。清晟と深井家の使用人は部屋にいない。光梨は慌てて目覚めて、可知子のベッド―ルームへ行った。

 三江は、落ち着いた様子で可知子を看ていた。光梨は交代の時間を寝坊してしまったことを三江に詫た。三江は咎めることもなく、笑って交代した。


 可知子がゆっくりと目を開けた。午後二時頃。光梨はそれに気づき、小さく口にした。

「可知子様、」

 可知子は薄っすらと笑んだ。そして左手を差し出す。光梨はその左手をとった。可知子が何か口にしようとする。光梨は、可知子の口に耳を近寄せた。

「みす、みす、」

 光梨は吸い飲みを可知子の口にあてがった。可知子はそれを幾らか口にすると、口を離した。光梨は、吸い飲みを戻した。可知子は痛みがないのか、その表情は穏やかであった。それは、光梨にとっては、入院してからはじめて見るほどの穏やかさだった。光梨は安心したが、心の底で、何かが揺れるものがあるのもまた感じた。

「ひはり」

 可知子が口にした。

「はい、可知子様」

 光梨は可知子が話しかけてくれたことが、それだけでも嬉しく思えた。

「はえて、いいへんきね、あの日みはい」

 光梨は窓の方へ目を向けた。この日の東京は快晴で、太陽は銀色に燃え上がっていた。ベッドルームの窓からは、南中を過ぎた陽光が、眩しいくらいに滲んでいた。

「いい天気ですね」

 可知子は白く滲んだ陽光を見つめていた。あの日とはいつのことだろう。光梨は思った。

「ひー、かー、りー、」

 可知子が一語ずつ、ゆっくりと口にする。光梨は少しだけ驚いた。可知子が「ひかり」と確実に言ったことが久しぶりのことに思えた。そのことに喜びもしたが、だが、驚きのほうが大きかった。

「うーたー、うはっへ」

「歌、ですか?」

 光梨は聞き返した。何かが心に影射していた。

「そー。うーた。あの日みはいに。あの日」

 あの日。あの日とはいつだろうか。光梨は知っていたが、答えは上ってこなかった。

「ひはりのひはまふら、あははははった。みろりの、こはへ」

 光梨は可知子の顔を見た。可知子は柔らかく笑んでいた。光梨は、答えを心の中で口にした。それは確かな正解であった。だが、胸につかえるものがあった。

「ひはり」

 可知子が口にする。そう、あの時は命令された。だが、今はどうなのであろう。光梨は決心した。あの歌を、歌わないといけない。

「では、歌いますね」

 光梨は、可知子の左手を握った。可知子も、僅かな力で握り返した。光梨の心に、また影が射した。だから、光梨は可知子に「注文」をつけた。そんなことは、はじめてであるように、光梨には思えた。

「ちゃんと、最後まで聞いてくださいね」

「うん」

 可知子は頷いた。光梨は、小さな声で歌い始めた。


 ある日パパと二人で 語り合ったさ

 この世に生きる喜び そして悲しみのことを

 グリーングリーン 青空には小鳥が歌い

 グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がもえる


 光梨は淡々と歌った。可知子の方を向いて、可知子の目を見て、可知子のために、歌った。涙は流さなかった。僅かに涙腺の奥で湧いた涙を、努めて抑えつけた。僅かに声はかすれ、ゆらいだが、それだけのことだった。


 あの時パパと約束 したことを守った

 こぶしをかため胸をはり ラララ ぼくは立ってた

 グリーングリーン まぶたにはなみだがあふれ

 グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がぬれる


 光梨は約束した。可知子に約束した。涙に溺れることなく、可知子の旅路を見つめるのだと。だから、泣かなかった。それは、必死の事だった。僅かなバランスで涙は出てしまうだろう。だから、光梨は可能な限り平静として、穏やかに歌った。


 やがて月日が過ぎゆき ぼくは知るだろう

 パパの言ってた ラララ 言葉の意味を

 グリーングリーン 青空には太陽わらい

 グリーングリーン 丘の上には ララ 緑があざやか


 今はもう、光梨は知っている。今起きていることの意味も、これから起きることの意味も。だから、太陽は笑っている。緑も鮮やかに、どこまでも続いている。


いつか ぼくもこどもと 語り合うだろう

この世に生きる喜び そして 悲しみのことを

グリーングリーン 青空には かすみたなびき

グリーングリーン 丘の上には ララ 緑がひろがる


 光梨は可知子を見つめて歌い続け、歌い終わった。可知子も、光梨の方を向いて、笑んでいる。可知子が、僅かに口を開く。光梨は、急いで可知子の口元に、耳を近寄せた。

「ひぃ、かー、りぃ、」

 何故、こうも可知子は光梨の名をちゃんと呼ぼうとするのであろうか。光梨は怖かった。それは、非常な恐怖のように、思えていた。

「あ、りー、が、とー」

 その言葉は光梨の胸に刺さった。それは可知子から聞いた、はじめての感謝の言葉だった。

「可知子、様」

 光梨は恐ろしさに支配されつつ、彼女の名を呼んだ。

 何も返っては来なかった。繋いでいた左手が、あっけなく解ける。光梨は可知子の顔を見た。姿を見た。正面から見た。可知木の目は閉ざされていた。胸は僅かにも上下していない。光梨は可知子の左手を再度手に取る。可知子の左手は何も応えず光梨の手からこぼれていく。手首に鼓動は見られない。身体のどの部分も、微かにも動いていなかった。感謝の言葉など、聞きたくなかった。

「可知子様、可知子様、」

 光梨は可知子を呼んだ。可知子の身体は僅かにも動かない。光梨の身体は真空になった。涙も、感情も、真空に押し潰され、潰れていった。残ったのは、虚無の恐怖だけだった。

「可知子様!」

 光梨は叫んだ。光梨の世界は白く焼き付いた。




 深井可知子は2014年8月7日14時24分、多臓器不全により死亡した。




 *




 午後になってから急激に気圧が下がり、東京は積乱雲に覆われ豪雨に見舞われた。護国寺桂昌殿の堂内にいても、湿度の変化、豪雨の雨音は伝わってくる。光梨はその桂昌殿の一角で、制服に黒い喪章をつけて、座っていた。

 祭壇の中央には、可知子の遺影が掲げられていた。それを可知子の、と、いってもいいのなら、可知子の遺影であった。顔の右半分に傷はなく、右目もそのまま。そして、光梨の記憶しているそれに比べるとやや幼い。病気にかかる前の写真。それは光梨の知る可知子ではなかった。光梨には、それが可知子であるとは、思えなかった。

 祭壇の前には管弦楽団が配置されていた。僧侶の読経の前に指示した音楽を演奏するようにと、これは遺言による指示であった。

 アナウンスの後、指揮者が管弦楽団の中央に歩いてゆく。光梨は、どの曲を演奏するのかと、頭の中で思っていた。ヴァーグナであることは間違いないだろう。ただ、「ジークフリートの葬送行進曲」であるか、「トリスタンとイゾルデ」であるか、どちらか。多分「ジークフリートの葬送行進曲」であろうと、予測していた。

 指揮者がタクトをゆっくりと上げる。僅かな時間をおいて、指揮棒が振られた。流れてきたのは、縹渺としたヴァイオリンと木管の音色だった。聖杯だ。光梨は自分の誤りにわずかに悔しい思いをした。流れてきたのは「ローエングリン第一幕への前奏曲」であった。だが、光梨は思った。可知子の葬儀に、この曲こそが最も相応しいと。可知子は帰っていくのだ。聖杯とともに、紫雲棚引く天上へ。

 曲が終わると、遠雷が聞こえてきた。


 参列者はその多くが一定年齢以上の男性か、家族を連れた男性であった。可知子くらいの「名家」ともなれば、親戚づきあい、あるいは社会的な関係も多岐にわたるのであろう。

 式の最中、雷が鳴り続け、読経の声もかき消さんばかりであった。これももしかしたら可知子の「悪戯」か何かなのだろうか、などと光梨は思った。

 冥志の生徒も、数名は見かけた。地学部員のうち雪子と涼子は確認できた。ただ、焼香を上げて挨拶を済ませたら、会場を後にしてしまった。席はほとんどが深井家の関係者らしき人々で占められていて、それ以外の参列者は焼香と挨拶だけして式場を後にしていた。

 焼香と、可知子の家族への挨拶を済ませた光梨は、しばらく席に座っていた。雪子や涼子を確認しはしたが、気軽に話しかけられる状況でもなかった。式もだいぶ経ってから、席を離れ、桂昌殿のエントランスホールに佇む。可知子の家族とは、いずれ可知子の話を聞かせてほしい、いつか家に遊びに来たらいい、などと話しはしたが、具体的に約束したわけでもない。

 雨はほとんど止んでいた。光梨は桂昌殿のエントランスの、御影石の柱にもたれかかって、それでもまだ重そうな灰鼠の曇り空を眺めていた。

 車の音がした。光梨には聞き慣れた音だった。トヨタ・センチュリーだ。式場に来る時も、同じ車を何両も見かけた。ただ、今やって来たセンチュリーは光梨の目を惹いた。今まで見てきたセンチュリーとはどこか違うし、何よりナンバープレートがない。ナンバープレートがあるべき場所には、金の菊花紋が取り付けられていた。

 センチュリーが止まると、助手席から白手袋をした黒いスーツの男性が出てきた。後部座席の扉を開ける。また光梨は目を見開いた。普通の自動車とは逆の方向に扉が開いた。

 扉から出てきたのは、見知らぬ男性だったが、ついで出てきたのはあの「淳仁」氏であった。淳仁と男性はそのまま真っすぐ式場を目指し歩いて行く。光梨に気づくことはなかった。観音開きの扉が閉じられる。光梨は、センチュリー・ロイヤルの菊花紋を見つめた。菊花紋。光梨は、ずいぶん遠くまできたのだな、と実感した。ここが、東京都の中であることすら作り事のように思えてきた。光梨の知らない可知子の写真。この式場も、どこか架空の場所なのではないか、そう思えてきた。可知子の家族も、まるでその存在自体がフィクションみたいだ。

 だけれど。光梨は思い出す。あの臭い。血と、膿と、腐敗臭。あの声と、左手の温もり。深井可知子は確かに存在していた。光梨の目の前に。

 光梨は、歩き始めた。もう、雨は上がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ