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それから数日、可知子の容態は安定しているように見えた。時折苦痛に顔をしかめることはあったが、気分がいい時はベッドの角度を変え上半身を起こして過ごすこともあった。ただ、この頃には消化器の炎症のために流動食すら食べることができなくなっていた。
可知子は光梨が本を朗読するのを聞いて過ごすことが多くなっていた。実際のところ可知子には自分でページをめくる余裕も、PCを扱う余裕も乏しかった。その日、光梨は可知子に指示され、安部公房の『笑う月』を朗読していた。
「『すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか。』
『鞄を手放すなんて、そんな、あり得ない仮説を立ててみても始まらないでしょう。』」
光梨は先程から読んでいて奇妙な気分になっていた。内容は頭の中に入ってくるのだが、その内容が奇妙なのだ。それは、光梨が読んだことのある小説とは何か根本が異なっているようにも思えたし、それに何より、その内容がひどく納得できるように思えるのだ。
「『分からないね。なぜそんな無理してまで、鞄を持ち歩く必要があるのか……』
『無理なんかしていません。あくまでも自発的にやっていることです。やめようと思えば、いつだってやめられるからこそ、やめないのです。強制されてこんな馬鹿なことが出来るものですか。』」
光梨は何かがわかってきたような気がするのだが、一体それが何なのか、わからなかった。
「べつに不安は感じなかった。ちゃんと鞄が私を導いてくれている。私は、ためらうことなく、何処までもただ歩きつづけていればよかった。選ぶ道がなければ、迷うこともない。私はいやになるほど自由だった。」
一つの章を読み終えた。「選ぶ道がなければ、迷うこともない。私はいやになるほど自由だった。」の部分にペンで線が引かれている。光梨の頭の中で、自分の中の奇妙な感覚の答えが宙吊りになっていた。そう、これは何かの答えなのだが、光梨にはそれを明確にすることができなかった。
可知子は静かに聞いていた。その顔は安らいでいた。だが、光梨が何かを考え、読むのを中止している様子なのを見て、口を開いた。
「つひを」
「はい」
光梨は、再び『笑う月』を手にとった。
「公然の秘密
なかば埋めたてられた掘割に、古いコンクリートの橋がかかっている。しかし、その橋と平行に新しい道路が建設され、今はもう使われていない。」
光梨は読み進めていった。しかし、この本の文章は、どうにも何か奇妙なものを光梨に運んでくる。光梨の心は落ち着かなかった。
「腹が立ちはじめた。無邪気すぎる。誰ひとり仔象を泥の中に突き落とそうとしないのは、ほんのちょっとしたはずみに過ぎないのに。こういう愚鈍さにはまったく我慢がならない。仔象の行為が見逃されているのは、見物人がつい呼吸を合わせる機会を失したという、偶然のせいに過ぎないのに。」
光梨は不吉な予感がしてきた。何が不吉なのかわからないが、とにかくこの文章は不穏なのだ。
「仔象は小さな口で食べつづけ、ぼくらは待った。何を待っているのか、はっきりはしなかったが、とにかく待ち続けた。仔象は無邪気に食べつづけ、ぼくらの間には、しだいに殺気がみなぎりはじめていた。当然だろう、弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。」
光梨は瞠目した。「当然だろう、弱者への愛には、いつだって殺意がこめられている。」の部分にもまた、ペンで線が引かれている。
「やがて仔象は、古新聞のように燃え上がり、燃えつきた。」
光梨は僅かに声を震わせ、残りの一文を読んだ。光梨は恐ろしくなっていた。何が恐ろしいのか、自分ではわからなかった。いや、わかりたいと思わなかった。冷たい汗が背中を伝う。光梨は可知子に、今の自分がどのような表情をしているのか、見られるのが恐ろしかった。本からゆっくり可知子の顔へと視線を移した。可知子の眼は閉じていた。胸が上下している。
「可知子、様?」
光梨は問いかけたが、返事もなく、可知子の表情も動かない。ただ、胸だけがゆっくりと上下している。光梨は、本を閉じて、静かにサイドテーブルに置いた。
その日の深夜、可知子の容態は悪化した。強く痛みを訴え、歯を食いしばり、左手でシーツを掻きむしるほどだった。可知子はうわ言のように光梨の名を呼んだ。もはや深夜で、公共交通機関は止まっていた。光梨が就寝していることも考え、三江は光梨に連絡しなかった。可知子は医療用麻薬の投与を拒否していたが、三江の判断で投与が開始された。これによって可知子はようやく入眠した。
翌早朝、光梨の元に三江から昨晩のことを知らせる電話があった。光梨はその表情を凍らせ、そして病室に泊まりこみで付き添ってほしいという三江の依頼に即座に応じた。平日であったので、光梨は出勤支度をしていた文彦にそのことを告げ、衣類などの支度をした。文彦もこうなるであろうことは知らされていたので、娘を督励してその背中を見送った。文彦の脳裏では、その光梨の姿に、かつて幼い光梨を抱いて入院中の妻の元へと向かった自分の姿が、容易に重ね合わされた。そして大切な人間の死と向き合わねばならない娘の心情を思い、背中を震わせた。
光梨が病室に到着した時、可知子はまだ眠りについていた。光梨は、いつも通りに、可知子の枕元に座った。可知子の寝顔は、しばしば苦痛に歪んだ。光梨は思わず可知子の左手を握った。温かい。可知子の左手は温かかった。光梨が可知子の手を握ると、心なしか可知子の表情は穏やかになったかのように見えた。
可知子が目覚めたのはその日の昼過ぎだった。可知子は目を開けると目を見開いた。可知子は光の色に、その色が午後のものであることに、気づいた。光梨と三江が可知子の顔を覗き込む。可知子は、光梨の方を向いて、口を開いた。
「ひはひ。今、しかんは」
「時間、ですか?」
光梨の声は震えていた。可知子の顔にはかつての威厳はなく、ただ眼だけが熾って輝きを放っていた。
「ほう」
「午後二時です」
可知子はそれを聞くと、何かを観念したかのように眼を俯せた。
「はやく、ほ、ま、や、く、を、すはったのね」
光梨と三江は、身を乗り出して可知子の言葉を聞くと、顔を合わせた。光梨にはその答えを告げていいのか、わからなかった。三江が、口を開ける。
「はい、可知子さん。お医者様にお願いして、医療用麻薬を使っていただきました」
可知子は何も答えず、軽く頷いた。そしてしばらく目を伏せていた。
「ひはり」
「はい」
光梨は再び身を乗り出して可知子の言葉を待った。
「ひらりへ、繋いでいれ」
「はい」
光梨は、可知子の左手を両手で握った。それが痛みを安らげられるのなら、永遠にだって握れると、光梨は悲痛さと何か甘さをもって心中で言葉にした。
「あららはい、」
可知子は瞼を閉じた。光梨は、可知子の瞳が確かに潤んでいたのを見た。
その後、可知子は不定期的に、眠りに就くのと痛みにより苦しむのとを繰り返した。苦しい時、可知子はしばしば光梨の名を呼び、左手を差し出した。三江と光梨は交代で可知子を看ていたが、三江が看ている時でも可知子が苦しむと光梨が呼ばれた。光梨が可知子の左手を取ると、幾らか可知子の苦悶は薄らいでいった。
夜の七時を過ぎた頃だった。可知子が目覚めた。目覚めると同時に、可知子は眉をしわ寄せ、左目を閉じ、歯を食いしばり、微かに呻き声を挙げた。光梨が気づく。嬉しさと、痛みへの共感とが心の中で混在し、弾ける。
「可知子様!」
光梨は可知子の左手を握る。
「あ、ああ、」
可知子は身体を伸縮させ、痛みに耐えようとする。もはやこの光景を見るのも幾度目かだが、決して慣れなどはしない。光梨は心で悲鳴を上げる。心臓が冷たい手で鷲掴みにされる。片手を可知子の手から放し、ナースコールの釦を探す。
「待て、待って、」
可知子が口にする。
「え、でも、」
光梨は困惑して、釦を手に取る。
「いいから。らめ。それよい、あえ、」
可知子は光梨の手を解き、ベッドテーブルに置かれたPCを指さした。光梨はPCを可知子の腹部に置いた。
「ええ、ええ、へっこう、」
可知子は顔を歪ませながら、キーボードに手を伸ばし、僅かに上体を起こす。瞬間、可知子の身体が収縮し、可知子の喉から声が絞り出される。光梨は思わず眼を閉ざしかけ、だが閉ざすことなく、可知子を見た。可知子は仰け反るように頭を枕に沈める。
「駄目です、釦、押します」
「らめっ、」
光梨は釦を押した。光梨ははじめて可知子の命令を破った。可知子は光梨を睨んでいた。光梨の背中は冷たくなる。だが、可知子は視線をPCのモニタに向けた。左手を、キーボードに伸ばそうとする。
「可知子様!」
光梨はどうしていいかわからず、声を上げた。可知子はなおもキーボードに手をのばそうとしている。光梨は今できることに気づいた。光梨はノートPCを持ち上げ、可知子が打鍵しやすい位置に置き直した。
「そう、そう、それれいひ、」
可知子はそう口にし、だが光梨のことを一瞥もすることなく、モニタを睨んでいた。そして左手で打鍵を開始する。
「さんかいの」
それだけ打鍵して、可知子は大きく呼吸した。額には汗が滲んでいた。光梨はその汗を拭う。足音がする。駆け足だ。扉の方で声が聞こえ、短くノックされた後、扉が開いた。
「どうしましたか」
扉の先には、医師が看護師を伴って立っていた。その後ろには、三江の姿も見える。医師は可知子の姿を見て、口を開く。
「駄目ですよ、可知子さん。無理せず、」
「らまって!」
可知子は医師を睨みつけると、叫んだ。その視線は鋭く、思わず医師は半歩後ろに下がった。可知子の眼には涙すら浮いていた。そしてそれは大きい声ではなかったが、可知子の出せる限りの絶叫だと、誰にもわかった。
可知子はモニタに視線を戻すと、打鍵を再開した。
「あまたの」
医師は、それでも、可知子に近寄り、身体を戻そうと腕を伸ばす。
「可知子さん、駄目です、安静にして。今すぐ鎮痛剤を、」
可知子は僅かに悔しそうに左眼を細める。涙が一条落ちる。可知子は打鍵した。
「じせいのく じゃまするな」
医師は息を呑んだ。モニタを注視していた光梨も息を呑む。胸に即座に冷水を注ぎ込まれる。こめかみの辺りににも水の湧く感覚がした。脊髄に冷たい針が突き刺さる。光梨は可知子を見た。肩で息をしつつ、可知子はモニタを睨み、震える左手を動かす。三江もモニタを覗き込み、可知子の意図を理解した。
「先生、少し、少しだけ、可知子のしたい通りにさせて下さい、お願いします」
三江の言葉に、医師は頷いた。
「わかりました、お待ちします」
そして医師は状態を元に戻すと、看護師に鎮痛剤の準備だけするようにと指示した。可知子はそれにもはや関心をもつこともなく、キーボードに指を落としていく。
「くさり たちき」
そこまで打鍵したところで、可知子は半身を収縮させ、僅かな声を上げた。
「可知子様!」
「可知子!」
光梨と三江が悲痛な声を上げる。だが、誰も可知子に干渉はしなかった。光梨も、三江も、医師も、それを見守った。
「りて われはあそぶ」
可知子は大きく息をする。半身は痛みをこらえようと歪められている。可知子は目をきつく閉じた。大粒の涙が零れた。
「可知子様、」
光梨は、左手を伸ばし、可知子の左手に重ねた。可知子は僅かに頷いた。可知子は左手をキーボードに落としていく。光梨は、その邪魔にならぬよう、それでいて可知子の左手に触れるよう、慎重に左手を可知子とともに動かしていく。
「ほしのわたつみ」
そう打って、可知子は改行キーを押し、起こしていた頭を、枕に沈めた。呼吸が荒く、肩が上下している。額は汗に濡れ、涙はそれと一緒になって滲んでいた。医師が即座に措置をはじめる。光梨は可知子が横になったのを確認してから、医師の邪魔にならぬよう後ろに下がった。そして可知子の腹部に置かれていたPCをデスクに戻す。光梨の背中では、医師と看護師が切迫した空気の中で、措置を施している。光梨はモニタを見た。
「さんかいの あまたのくさり たちきりて
われはあそぶ ほしのわたつみ」
光梨は全身に汗をかいていた。後ろではせわしなく医療措置が施されている。光梨は身体の内側に黒い墨が垂れ流れるのを感じた。それははじめて可知子の命令を破ったからなのか、はじめて辞世の句というものを見ているからなのか。光梨にはわからなかった。




