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可知子はそのまま東京大学医学部附属病院に搬送され、入院した。A棟14階の特別病室。それは光梨の思い描いている病室とはまったく違っていた。病室はベッドルームと談話室の二部屋からなっていた。テレビや洗面所、シャワーまであった。物珍しげに視線を動かす光梨に、可知子は呆れつつも笑っていた。また光梨は、これなら宿泊可能なのだから宿泊してここにいたいというようなこをも言ったが、可知子は基本的には昼間だけでいいので、夜には家に帰る様に、と告げた。とはいえ可知子も病状次第、とは口にし、光梨もそのような事態は念頭にあった。
その病室で、可知子の家族と対面した。可知子の父である清友はこれが二度目の対面だった。光梨の父と同じ世代であるというのに、実に重厚な人物で、可知子の威厳や気品は確かにこの父親から受け継がれたものなのだなと光梨は改めて認識した。
可知子の母の三江、弟の清晟、そして祖母任子のとははじめての対面であった。三江は清友のまさに「影」といった人物で、控え目で物静かな、可知子とはまさしく正反対の人格の持ち主に見えた。清晟は、まだ小学校に入学したばかりの少年であったが、その歳とは考えられないほどしっかりしていた。
光梨は清晟に「光梨様は可知子姉様のお友達なのですか」と聞かれ、返答に詰まった。可知子はすかさず、「そうよ、光梨は姉様の大切な友達なの」と答えた。光梨は、それが幼い弟に対しての「言い回し」ではあろうと思いはしたが、それでも心のどこかで何か違和感を覚えた。だがそれを知ることもない清晟は、真っ直ぐな瞳で光梨に「光梨様、可知子姉様のことをどうかよろしくお願いします」と告げ、頭を深々と下げた。光梨は戸惑い、愛想笑いを作りそうになったが、それを自制し、真剣な表情をして「はい、可知子様のことはお任せ下さい」と答えた。
最後に、可知子の祖母である任子と挨拶した。光梨は緊張した。目の前にいるこの老婦人は、まさに「やんごとなき方」、皇籍を外れたとはいえ元内親王であり皇族なのだ。だが、任子はどこまでも物腰柔らかな、微笑みを絶さない老婦人であった。任子は光梨の両手を取ると、「可知子さんをよろしくお願いしますね」と頼み、光梨が諾と頷き答えると、何度も何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
光梨はベッドルームから離れ、談話室で可知子の家族と更に会話をした。学校での可知子のこと、合宿での出来事、それらを話した。三江はきっと可知子にとって光梨は家族以上の存在なのでしょうと感想を口にし、改めて可知子のことを頼まれた。これは交通費、ということで光梨に封筒が渡された。一万円札が二十枚入っていた。光梨はこんなに受け取れないと恐縮して述べたが、今まで世話になった分も含めて、と言われ、改めて可知子のことを頼まれ、光梨もそれを受け取った。
光梨が可知子の家族と面会を終えて後、可知子はその日のうちにデブリードマンの手術をうけることになっており、光梨は可知子の家族に先立って帰宅した。
翌日、光梨は病院に赴き、右腕を完全に切除された可知子を見た。驚きはしたが、努めてそれを面に表さないようにした。可知子も、それについて何も言わなかった。
可知子の世話、といっても、衛生的あるいは医療的なことはすべて看護師が行った。光梨にあてがわれた主な役割といえば、可知子の傍らに座って可知子の読みたい本を朗読すること、あるいはページをめくること、それからノートPCを操作して主にインターネットの見たい記事を見せることであった。
だが可知子の病は、表層の皮膚や筋肉から既に腹部・胸部、可知子の臓器にまで達していた。実際のところ、合宿の時には既に消化器の一部にまで炎症は到達していた。入院から四日、五日後には炎症は消化器、そして胸部、肺の一部に達した。可知子はほとんど常に右半身の内臓の炎症に痛みを覚えるようになっていた。光梨にはもはや朗読などしている余裕があるとは思えなかった。だが、可知子はなるべく平常にあるように務めた。顔はしかめていても、額に脂汗を浮かべていても、光梨に対して本を朗読するよう命じた。
医師からは鎮痛剤の投与が提案されていた。可知子は医師にあくまで最低限の量のみを投与するよう、強く訴えた。それは意識を常に明晰にしておきたいという可知子の願いからであった。可知子は医師に鎮静剤の作用について詳しく質問し、そして納得の上で鎮痛剤の投与が開始された。
鎮痛剤の投与が始まると、可知子の痛みも緩和された。穏やかな様子で横たわる可知子に、光梨は命じられた本を朗読し、あるいはPCを操作してみせた。
食事は流動食になった。可知子は流動食について散々文句を言いながらも、概ね完食した。可知子にとって食事の面で楽しみなのは、一日一回出されるプリンだけになっていた。
その日も、光梨は看護師から一皿のプリンを受け取ると、ベッドテーブルの可知子の前にそれを差し出した。普通の食事は看護師が準備することになっていたが、プリンは光梨がテーブルに並べることになっていた。それは、可知子にとってプリンというものが、残された僅かな娯楽の一つであり、娯楽は看護師ではなく光梨の職分であるからであった。
「一日の楽しみはこれらけっていうのも情けないかひりね」
可知子は自嘲を顔に浮かべ、ベッドテーブルのプリンを見つめる。光梨は可知子の語調に気づいていたが、何も言わず、ただ控え目に笑い返した。
可知子は左手でスプーンを手にする。そのまま皿の上のプリンを一欠片掬うと、それを口に運ぶ。口を開いてプリンを入れようとする。だが、可知子の下唇は彼女の意に反して、プリンの欠片を受け止めることなく、開いたままであった。可知子は口を閉ざそうとするが、その唇は震え、僅かに持ち上がっただけであった。プリンの欠片は、唇から零れ、そのまま落下すると、可知子の寝間着を汚した。
可知子はその様子を、目を見開いて見ていた。半ば開けられた唇が、微かに震える。光梨の心から余裕が消えた。今何をなすべきか。何かをなさなければならない。だが何もわからなかった。
可知子はスプーンを持った手を口元からゆっくりと下におろそうとした。大きくスプーンが震えた。可知子は左手を下ろすのをやめた。スプーンは震え続けていた。可知子の左手も震えていた。可知子はそれを凝視する。
可知子の手が、腕が、伸ばされた。光梨は何が起きたのか、いや、自分すら失っていた。スプーンがリノリウムの床に落ちる音がした。光梨は自分を取り戻した。可知子が何をしようとしているのか気づく。だが、もう遅かった。可知子の左手は手刀となって猛然とベッドテーブルのプリンの乗った皿に振り落とされた。皿の割れる、硬く、鈍い音がした。
「可知子様!」
光梨は叫び、そして見た。ベッドテーブルに振り落とされた可知子の左手。潰れたプリンに可知子の左手から赤い血が滲んだ。
「ああああああッ!」
可知子が叫んだ。瞬間、可知子の左腕が再び上げられる。光梨はその意図を理解しなかった。光梨はただ見ていた。そして可知子が何をしようとしているのか、気づいた。気づいた時には遅かった。可知子の左手は再びベッドテーブルに落とされた。皿の硬く鈍い音、そしてベッドテーブルの柔らかく鈍い音。赤色の面積が広がる。可知子は再び左腕を上げつつあった。
「可知子様!」
光梨は可知子の胸元に飛び込み、左腕を押さえつける。
「あああッ! フソッ! あああああ! ひはり! ひはり、どへッ!」
可知子が叫ぶ。光梨は可知子の左腕を全力で押さえつけつつ、ナースコールの釦を探し、押した。なおも可知子は左腕を振り下ろそうとし、叫び続けた。光梨は可知子に抱きついてひたすら彼女の名を呼んだ。
看護師が駆けつけ、医師が呼ばれた。左手の傷は軽傷だった。可知子は鎮静剤を打たれ、眠りについた。その間に左腕の創傷の治療が行われ、病状について検査が行われた。既に炎症は右脳に達していた。
翌日、可知子の家族と光梨が見守る中、可知子は目覚めた。目覚めた可知子は、しばらくの思考の後状況を把握すると、光梨にだけ耳打ちした。光梨はノートPC を可知子の前に置いた。可知子はPCで、迷惑をかけ申し訳ないというようなことを打鍵した。それ以来、可知子は光梨以外の人間に言葉を発することはほとんどなくなった。ただ光梨にだけ、口頭で、あるいは耳打ちで意思を伝えた。




