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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 宿舎に戻った光梨は、照明の下で可知子の姿を確認し、一度に体温の下がる思いをした。可知子の顔は夜空の下で見ていたのよりもなお蒼白であった。可知子は看護師や津川の手によって先程の部屋に移された。先程一組だった布団は二組になっていた。

 横たえられた可知子の服は脱がされ、包帯も替えられる。脱がされた服を見て、光梨は背中を冷たくした。可知子の服は汗で、見てわかるほどに濡れていた。可知子は、自分が包帯を替える間に光梨に入浴と洗面をするように指示した。光梨は可知子を見守りたい気分はあったが、可知子の指示でもあるし、入浴しないというわけにもいかないので、浴場へと向かった。実際のところ光梨も全身、冷たい汗にまみれていた。可知子のことがあったので焦りながらシャワーを浴びた。光梨はしかし、自覚もしていたが、可知子が心配というよりも、自分のいない間に可知子がまた気を失ってしまったり、寝てしまったりすることが気にかかっていた。光梨はもっと可知子の言葉を聞きたい。もっと可知子の傍にいたい。この夜の間に、もっと可知子と話をしたい。その思いで、光梨は素早くシャワーを浴びた。浴槽に浸かる余裕はなかった。

 そのまま急いで歯磨きをして部屋に戻った光梨を出迎えたのは、ほとんど全裸の可知子と女性看護師だった。布団の脇には湯の入った盥が置かれ、可知子は半身を毛布で覆われつつ、女性看護師に身体を拭かれていた。包帯も巻かれていなかった。傷口も露なままだ。光梨はその光景に混乱した。また気を失っているのでは、という恐れを持っていた光梨にとって、身体を拭かれているといういわば日常的な行為は緊張を弛緩させるものであった。

 だが、転瞬のうちに光梨の弛緩は逆転した。可知子の傷口が目の前に晒されている。肉は赤く腫れあがり、皮は白く剥けかかっている。肉に穿たれた穴からは青灰色の骨が覗き、腕の末端は暗緑色に腐っている。光梨の心は既に幾らか慣れていた。彼女の傷口を見るのも、学校で包帯を替える際に幾度も見ている。それでも、健康な肌と患部の対比を見ると、光梨の中で何か得体のしれぬ渦が巻く。

 光梨を出迎えた何知子の挨拶は至極あっさりとしていた。光梨も、それを聞いて普通に応えてしまった。傷が露になっているというのに、何故かそこには日常感があふれていた。

 可知子は新たに包帯を巻かれ、療養用の寝間着に着替えた。そして布団に横になる。可知子の意向によって看護師は退室した。光梨も寝る準備を済ませ、灯りを落とし、布団に横になる。光梨が可知子の方を向くと、可知子もまた光梨の方を向いていた。光梨の心は穏やかで、温かさに満ちていた。可知子もまた、穏やかな表情で光梨を見ていた。

「光梨」

「はい」

 可知子の声は、無何有郷にでもいるかのような、穏やかな、それでいて力の抜けた声であった。光梨は、その力のなさに、僅かに心騒いだ。

「手、握って」

 可知子の左腕が、光梨の方に差し出されていた。可知子は笑んでいた。その顔には、あの覇気も、傲岸さもなかった。光梨は寂しさを否定できなかった。

「はい」

 光梨は右腕を伸ばすと、可知子の手に重ねた。その手はひんやりとしていた。可知子が微かに光梨の手を握る。温かい。光梨は、可知子の手が、その芯が、温かいのを感じた。

「よかったわ。この三ヶ月、楽しかった」

「可知子様、」

 光梨の心は、可知子の言葉の不吉さに波打っていた。

「光梨の手は温かいわね」

「いえ。はい、」

 可知子は笑っていたが、その笑いには、その背景の寂しさが、影絵として映しだされていた。光梨の心は不吉な影に覆われた。涙腺は乾いていたが、それはむしろ、恐れているが故に乾いていた。

「この三ヶ月。いえ、四ヶ月。長かったのか、短かったのか」

「はい、」

 この春からの出来事が、光梨の胸中に浮かび上がる。可知子に出会って。可知子に出会って、自分の人生は一変してしまった。それはなんとも、なんとも愉しく、喜びに満ちたことであった。

「あと、僅かね」

 光梨は答えなかった。答えられなかった。可知子も答えを要求してはいなかった。可知子は、横たわって、ただ微笑んでいた。

「あなたと会えて、よかったわ」

 光梨はその言葉を耳にして、何故か喉元に刃物を突きつけられた気がした。可知子は、そのまま光梨の回答を待つこともなく、左手をつないだまま、天井を見つめる。光梨は可知子を凝視した。可知子の左目は潤んでいるように見えた。可知子は静かに目を閉ざす。目尻から、一条の涙が、光って落ちたのを、光梨は確かに目にした。


 翌朝の朝食時、可知子も他の地学部員と席を連ねた。そこでは穏やかな会話がかわされた。声は尽きなかったが、静かな朝食の席であった。誰しもが、自分の発する、あるいは誰かの発する、そして可知子の発する言葉を、貴重なものとして取り扱った。

 食事が終わってからも、しばらく和やかな会話が続いていた。目を潤ませるものはいたが、誰も泣かなかった。

 午前中にストレッチャー搬送車が宿舎に到着した。合宿は三日目まであるが、可知子と光梨はこのまま病院へと向かうことになっていた。可知子は光梨の手により車椅子で宿舎の外にでる。部員一同も外へ出る。写真の撮影会がはじまった。幸い、カメラマンには困らなかった。部員たちはそれぞれのスマートフォンやデジタルカメラを津川や看護師たちに預け、写真を撮影してもらった。

 津川、もう一人の運転手、それと看護師たちは、ストレッチャーの準備をし始める。その横で、可知子は、部員一人一人と挨拶を交わした。絵里と秋子は謝った。絵里は可知子だけでなく光梨にも謝った。秋子は泣きながら謝った。可知子は咎めなかった。そして絵里には光梨のことをよろしく頼むと言い、秋子には逆に自分の我侭を詫すらした。

 雪子には、可知子の方がほとんど謝ったといった様相であった。だが雪子は、微笑みを絶すことなく、自然に可知子と言葉を交わした。そして雪子は、最後に可知子の頭を抱くと、その右頬に軽くくちづけした。

 最後に、涼子が可知子の前に立った。二人は互いに視線を交わした。しばらくそうしていていたが、やがて可知子が口を開いた。

「すまなかったわ、涼子。めいわ、」

「可知子」

 涼子は可知子の言葉を遮った。

「私は可知子の友達として一緒にいられて、楽しかったわよ」

 可知子は、深く息を吸い、そして短く吐いた。

「私も楽しかったわ。涼子」

「うん」

 涼子は、頷くと、左手を可知子に差し出した。可知子は、左腕を伸ばし、手を握った。少しの間、握り続けていた。やがて、どちらからともなく、手を解いた。

「じゃあ、さようなら」

「さようなら、涼子」

 次いで、可知子は他の部員たちの方を向く。

「さようなら、みんな」

「さようなら、可知子」

「さようなら、可知子様」

 秋子と絵里は完全に泣いていた。雪子も、目を拭うのをやめなかった。涼子は、軽く目尻を拭った。

「行くわよ。光梨」

「はい」

 光梨は車椅子を押した。顔が、目が、熱かった。だが、泣くわけにはいかなかった。自分はまだ可知子の側に、見送られる側にいるのだから。

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