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光梨は様々な天体を目にした。雪子に星座早見盤を借りて、基本的な星座の見方を教わった。その間にも二基の望遠鏡が活動し、光梨は肉眼では見えないようなものを見ることができた。黒眼星雲、回転花火銀河、子持ち銀河。リング星雲、鷲星雲、オメガ星雲、三裂星雲、干潟星雲。そして火星、土星。写真画像としては見たことがあるものでも、実際にこうして望遠鏡を覗くとまったく印象が異なった。それらは光梨の精神を圧倒しようとしていた。恐ろしい虚無が光梨を飲み込もうとしていた。果てしなく遠いというのに、幾千、幾万の星々が確かな輝きをもって語りかけてくる銀河。虚空にあって輝きを放ち、真空の中だというのに千万の色の光に煙る、とらえどころがないというのに圧倒的な姿を見せる星雲。もはやただ一点の輝きなどではなく、厳然としてその場に、生の姿として目に映る惑星。光梨は無力感を覚えた。圧倒的な闇の中にあって存在する天体。それだけの存在感を持つ天体をなお圧する無限の虚無。それに恐怖しない人間などいるのであろうか? それは隔絶した力を持ったものへの恐怖、有限な精神しかもたざるものの恐怖であった。だが、光梨は見た。それは可知子との約束であった。だから、光梨は、目を凝らした。
望遠鏡を見ていない間、光梨は雪子に星座の見方を教わっていた。光梨は、雪子の説明が一段落したところで、尋ねた。
「雪子様」
「なにかしら?」
雪子は少し不意をつかれたが、いつもの笑顔で応えた。
「雪子様は恐ろしくはないのですか? 空の、えと、」
「ああ、可知子の話?」
雪子は少し愉快げな笑みを浮かべた。光梨は自分の質問の妥当性に自身を持てない。体温が上がり、汗が浮かぶ。
「可知子様もなんですけど、えと、私もやっぱり、怖い。のが。あって」
光梨は自分の意志を出すこともまた、自信がなかった。
「そうね。んー。怖いって思うことも、あるわよ。私も」
雪子は優しげな笑みを浮かべた。
「でも、可知子の場合、そうね。彼女の場合は見えすぎだと思うの。あの子は感受性が強い、というのかしら」
雪子は顎に手を当てた。光梨はなにか安心したものをもって彼女の顔を見ていた。
「彼女は病気になる前から、なった後と変わらないくらい、つまり最初から怖いって思っていたわ。いつもはあんなに自信家なのに」
「そうなんです、か」
光梨はややぎこちなく答えたが、可知子と同じであるということに心に温かくなった。
「正直なところ、余り話は噛み合わなかったの。私は、そうねえ。普通に綺麗に思っちゃう、っていうのが強くって。他の部員ともちょっとそのことを話したけれど、同じような感じ。彼女がそう思うのは、一つには宇宙についての知識が彼女、豊富だから。可知子が発案しなかったら、クエーサーなんてきっとうちの部で見ることはなかったわ。24億光年っていわれても、多分みんな実感ないんじゃないかな。彼女は予備知識がある分も含めて、怖いって思うのだと思うわ。それに、彼女には独自の哲学があるわけだし。あの子はね、繊細なのよ」
そう言って雪子は光梨に笑顔を見せた。その笑みは柔らかかったが、瞳にはどこか寂しさがあるように思えた。
「なるほど、そうなんですね」
光梨は口にした自分の応えが妥当なのか、自信がなかった。それでも光梨は得心が行った。ただ、光梨の恐怖もまた確かなものであった。
「あなたも怖いのなら、そうね。よかったのかもしれない。可知子は可知子と同じ思いをできる人と出会えたのだから」
雪子は、右手を伸ばすと、光梨の星座早見盤を握っている右手をとった。光梨はその行為に混乱した。その温かさに緊張した。雪子はそのまま右手をとると、開いていた左手とで光梨の手を包む。光梨の体温は上がり、汗がでる。
「彼女のことだから、あなたにも直視しろ、なんて言ったのでしょうけれど。できたら、彼女に付き合ってあげてほしいわ。彼女のことだから、頑張ってその恐怖を見つめているのでしょう。いえ、きっともっと恐ろしいのだわ。だから、彼女を一人にはしておかないで。彼女の傍らにいて欲しい。これは、安積雪子としての、お願い」
雪子の目は、確かに潤んでいた。光梨は微かに息を呑んだ。身体の芯が熱くなる。それは、あの熱した蜜の湧き上がる感覚ではない。それは光であった。胸に射しこむ一条の光であった。光梨は、自分の左手を雪子の右手に重ねた。それはとても正当な行為に思えた。
「はい、約束します」
「ありがとう」
雪子は手を解いた。光梨も手を解いていく。雪子の目尻は微かに光っていた。雪子は再び南天の空を見上げる。
「では、続けるわよ。あなたにも、可知子並みの観測眼を持ってもらわないとね」
「はい」
雪子の誇大な言葉を、光梨は自然と肯定した。そして自分は地学部員なのだと、改めて実感を得た。
望遠鏡で様々な天体を観測していったが、可知子は一度もそれを見なかった。光梨は可知子のところへと幾度か訪れたが、可知子は今は肉眼で見るだけでいい、あるいは休みたいと言うだけだった。可知子にとってやはり銀河や星雲を見ることは、恐怖を伴う、精神に負担がかかることなのであろうか。光梨は少し思ったが、それは可知子らしくないとも思えた。ただ、体力を消耗しているのは事実なのであろうと、心が騒ぐものはあった。
時間は午後十一時になろうとしていた。光梨は秋子に呼ばれた。海王星を望遠鏡で捉えたから可知子を呼ぶように、とのことだった。光梨は可知子の元へと行った。可知子は車椅子を押すよう指示した。3C273の時と同じように、車椅子を三脚へ近づける。可知子は、望遠鏡を覗いた。可知子は、そのまま、望遠鏡の向こうの海王星を見つめていた。それは、光梨には長い時間と思えた。光梨があまりの長さに何か声をかけるべきかと悩み始めたところで、可知子は顔を上げ、深く溜息をすると、車椅子の背もたれに背中を預けた。光梨は瞠目した。可知子の顔は夜であっても青褪めているように、疲労しているように見えた。
「可知子様」
「可知子」
光梨と秋子が声をかける。可知子は返答の代わりに左手を上げ、そのまま呼吸を整えているようであった。ややあって、可知子は口を開いた。だが、その口調に力はなかった。
「いえ、大丈夫です。少し疲れただけ」
「あまり無理しないで、もう戻りなさいよ」
秋子が声をかける。光梨も同じことを思ったが、口にはしなかった。
「ええ。もう戻ります。でも、光梨」
「はい」
名指しされた光梨は緊張感を覚えた。
「戻る前に海王星は見ておきなさい」
「わかりました」
光梨は車椅子を後退させる。冷たい汗が流れる。
「ここでいいわ」
可知子はわずかに後退させた場所で指示した。そしてそのまま口を閉ざす。光梨は、車椅子から離れると、望遠鏡の方へと向かった。
望遠鏡を覗きこんだ光梨の目には、青い球体が映った。青い。それは、青という言葉の定義がこの星の青さを元にされているのだと思えるほどの青さであった。その青が、その球体が、そこにはあった。光梨は、海王星の画像など写真集などで見ているはずであった。だが、今目にしている海王星の図像は、それ以上のものであった。虚無の闇の中から浮かび上がる青の球体。僅かな大きさでしかない球体の青は、だが背景の黒と、まったく妥協することも交わることもなくそこに存在していた。それは、本当にその望遠鏡の向こうに、宇宙の闇の向こうに、確実に存在している。
光梨は、可知子の言葉を思い出していた。可知子は、月や惑星が空に浮かんでいるのを見ると、それらの位置が、自分と、自分の立つ地球と、月や惑星、そしてそれを照らす太陽の位置とが、俯瞰してわかるという。虚空に浮かぶ太陽と惑星。光梨の中にその俯瞰図が浮かび上がろうとしている。光梨は慄然とした。だが、思考の停止は許されない。光梨の頭の中には、確かに虚空が広がっていた。海王星は、今見ている海王星は、確かにそこに浮かんでいる。
「光梨、見えるでしょう」
後ろにいる可知子が背中越しに話しかけてくる。
「それが海王星。私たちが直接目にすることのできる最も遠いもの。さっきのクエーサーも、他の恒星や星雲も、それらが発する光が宇宙間物質によって瞬いた光の反射、揺らめきにすぎない。でも、あなたが今目にしている海王星は、海王星そのもの。44億キロメートル先に確かに存在する海王星そのもの。でも宇宙はそれより遥か先に広がっている。夜と闇は永遠。永遠なの」
光梨は、やや少しの間海王星を見つめていたが、立ち上がり、可知子の方を向いた。
「はい、可知子様。確かにこの目で見ました」
可知子は満足気に頷いた。だが、その顔は青白く、眉は険しく、何かを我慢しているのは明確だった。
「可知子、もうこれでいい?」
秋子の言葉は、幾分か潰れていた。感情で潰れていた。
「はい」
可知子ははっきりとそう答えた。
「もう、見るものはないのね」
秋子の言葉は僅かに震えていた。光梨は微かに驚き、そして、その意味を理解し、顔が熱くなるのを感じた。
「もう見るものはありませんわ、秋子様」
「そう、」
秋子は短く応えると、可知子に背中を見せ、地面に置かれたカメラに手を付けた。
「光梨さん、可知子を宿舎に送ってあげて。私たちは観測を続けるけれど、可知子はもう休まないといけないから」
「はい、秋子様」
光梨の胸に風が吹き込んだ。秋子の声は明らかに震えていた。光梨は可知子の車椅子の取っ手を掴むと、ゆっくりと宿舎へと歩いて行く。背中で、小さく歔欷く声が聞こえた。
 




