表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
腐肉の女王  作者: 資治通鑑
22/28

22

 しばらくして部員たちが天文台の見学から戻ってきた。部長の雪子と顧問の文子が代表して見舞いに来た。可知子は横になったまま対応した。心配する二人に、可知子は横たわったままとはいえ、常のような毅然さをもって接した。二人が立ち去るときに、光梨にも同行するよう告げた。光梨は異議を唱えたが、可知子の言葉は強かった。可知子の部屋には入れ替わりに女性看護師が入った。

 部員たちと合流した光梨は、一同と共に夕食を作ることとなった。秋子と絵里、涼子からは可知子の容態について問われたが、光梨が答えるより先に雪子が問題ないと答え、光梨もそれに合わせた。

 夕食の席は比較的静かなものであった。可知子は別個に部屋で食事をとっていた。夕食の席では今晩の観測目標について、簡単に確認し合った。地学部が今回用意したのは、それぞれ200mmのニュートン式望遠鏡とカタディオプトリック式望遠鏡である。どちらも天体ナビゲーション装置のついた赤道儀に取り付けられる。また、ノートPCが一台用意され、天文シミュレーションソフトによって望遠鏡を制御する。

 今回最大の目標とされたのは、可知子の望んだクエーサー3C273であった。視等級12.9度と暗いため、冥志舘の地学部にとっては初挑戦となる。時期的にも外れであるため、厳しいだろうと見込まれていた。だが、可知子がそれを望んでいるということで、部員たちの士気は盛んであった。他にも幾つかのメシエ天体、惑星、そして可知子のもう一つの望みである海王星が目標とされた。実務的な内容になると、部員たちの話し合いも熱のこもったものとなった。飛び交う専門用語に、光梨の理解はついていかなかった。

 七時前には日も沈み、森の中にある宿舎は闇に染まりつつあった。食事も終り、部員たちは後片付けをはじめる。光梨もそれに加わっていたが、七時を過ぎたところで可知子の様子を見るため可知子の部屋へと向かった。可知子の点滴は既に終わっており、光梨が来ると半身を起こして出迎えた。可知子の顔色は良く、光梨は安堵した。光梨は、女性看護師と二人で可知子を着替えさせる。そして男性看護師によって抱きかかえられていつものように車椅子に着座した。部員たちは可知子の元気そうにしているのを見て、安心の念を面に出し、あるいは口にした。

 観測場所は宿舎の駐車場である。南面が開けており、障害になる木立もない。光梨は可知子の車椅子を押して駐車場に出た。雲の欠片もなく、空の状況は万全であった。眼前に広がる星空は、光梨を驚愕させ、ために車椅子を押すのを止めて立ちすくませるものであった。そこには、まるで宝石のよう、という言葉すら陳腐化するような圧倒的な星空が広がっていた。深淵の闇に、無数の光輝が、なお圧倒せんとする暗黒の中から、自己の存在を訴えていた。光梨は空にこれほど多くの星があるのを知らなかった。このように数えられないほどの星が散らされた空を見るのははじめてだった。天の川すらしっかと見たのはこれがはじめてであった。それは縹渺としつつも輝ける霑気の川であった。あまりに未知なものであったため、光梨は恐怖すらを覚えた。可知子もしばらくは星空に見蕩れていたが、光梨があまりに立ち尽くしているので、光梨を叱責し、車椅子を進めさせた。

 望遠鏡の設営は津川の輔けもあり順調であった。特に彼が赤道儀を二基同時に持ち上げるのを見て部員たちは歓声を上げた。部員たちは赤道儀に鏡筒を取り付け、更にカタディオプトリック式の望遠鏡にはノートPCが接続された。機器の調整は秋子と顧問の文子が指揮を執っていた。秋子の活躍を見て光梨は意外さを口にしたが、可知子はこの手の手腕に一番長けているのは自分を除いたら秋子だと口にし、更に光梨に、今後は彼女に技術的指導を受けるようにと告げた。それはもはや可知子からその技術を伝えられることがないという事実を意味し、光梨を僅かに涙ぐませた。可知子は次いで今見えている星座について概観を述べた。だが光梨にとっては星が多すぎるのも却って混乱の原因になり、教師である可知子をうなだれさせた。

「だからあの赤いのが火星。そこから東に行って、ちょっと陰気くさいのが土星。惑星は瞬いていないからわかるでしょう?」

「はい、惑星は多分わかりました」

 光梨は頷いたが、可知子はそれを確認するでもなく空に左腕を伸ばす。

「いいわ。スピカもわかるわね?」

「ええと、あの白っぽいのですよね」

 光梨は可知子を失望させまいと自分の中での答えを確定させようとする。だが、星の多さに、光梨にはわずかに明るい星も一等星のようにすら思えてしまう。

「そう。で、戻るけれど、土星ね。土星があるのが天秤座。ひらがなのくの字が逆になっている。土星のすぐ横が天秤座のα星」

「ええと、え、あ、そのα星は多分わかったかと思います」

 可知子は一応指をさすのだが、星空を指で指し示すのは誰であろうと難しいことである。可知子もそれは承知していたので、光梨の曖昧な答えにも軽く溜息をついただけだった。

「まあいいわ。星座の見方はあとで雪子様に星座早見盤を借りて教わりなさい。まったく、あなたもなんで地学部に入ったのだか」

「申し訳ありません」

 可知子は再度軽く息を吐いた。光梨は謝りつつ、自問した。何故地学部に入ったのか。それは、それこそ、今ここにいる可知子のためである。光梨は、しかし、自分の出した答えに奇妙な感覚を覚えた。光梨にとって自分が地学部にいるのは、何の疑いもない、もうずっと前から決まっていた当たり前のことだと思えていた。だが、それは、数カ月前の奇遇と決断の結果であるということを、ここに来て今更ながらに知った。可知子という特別な存在。それは、光梨にとって、もはや当然のこととして認識されていた。

「ああ、そうね。私目当てで入ったのだっけ、あなたは」

 可知子の言葉は、つぶやきに近かった。光梨は、答えを見つけられなかった。

「あれから三ヶ月、かしら」

「はい」

 可知子のつぶやきに、光梨が頷いた。可知子は、漠然と望遠鏡を操作する部員たちを見ている。光梨はその可知子の頭部を、なんとはなしに見ている。光梨は、自分の掌中に可知子があるように感じた。可知子の頭部は、右耳は缺落しており、項から頬に至るまで傷に覆われている。髪も、左側はボブカットなのに、右側は短く刈り込まれている。光梨は、遠くまできたのだと、感じていた。時間が、ひどく引き伸ばされている。可知子という存在はいつの間にか光梨の世界を構築する当然の要素となっていた。ほんの、ほんの束の間のうちに。三ヶ月前、光梨は一人の、友人も碌に作れないでいた、何の取り柄もない陰気な編入生に過ぎなかった。今や光梨は、深井可知子という最も強い光輝を放つ恒星系の一員として、彼女とは分かちがたい存在となっている。僅か三ヶ月の間に。光梨の世界は転変していた。だが。光梨の胸に風がさし込む。この世界は、更に僅かな時間で、終焉が約束されている。春に可知子に出会い、夏が訪れ、そしてその夏を越えることはない。今眼の前にいる彼女は、この夏を越すことなく命を落とす。世界の秩序は終りを迎える。光梨は、その先の世界など、考えてもいなかったし、考えたくもなかった。

 見上げると、見知っているはずなのに、その星の多さから、見知らぬといっていい星空。遠い。恐ろしいほど遠い天体。絶対零度の無限の彼方。視線を下ろすと、可知子の頭部。歪な耳。走る傷跡。目の前の頭部。光梨は安心を覚える。この頭部を見ていると、心の中に、甘くて穏やかな光が灯る。身体の芯が温かくなる。今はこれでいいのだ。光梨は自分に言い聞かせた。今は可知子様がいればいい。それでいいのだと。だが、背中に滲んだ汗は冷たく、光梨はその冷たさを無視するができなかった。

「可知子、光梨さん。できたわよ」

 呼んだのは、秋子であった。秋子と顧問の文子が、カタディオプトリック式望遠鏡の傍らにいる。

「光梨、行くわよ」

「はい」

 光梨はゆっくり車椅子を押す。動くと、余計に背中の汗の冷たさが気になった。

「にしても、土星が蠍座にあるのはなんだか気に入らないわ」

「天秤座ではないんですか?」

 可知子の唐突な言葉に、そしてその内容が先の言葉と異なることに、疑問を抱いた。

「占星術の区分は実際の星座の位置より東に偏っているのよ。占星術が成立した当初より地球の歳差運動で春分点が移動しているの。だから正確にいうなら、土星が天蠍宮に位置している、というべきね。そもそも、十二宮というのは、星座は象徴にすぎないのよ。元来天蠍宮の象徴は鷲であり水であり聖ヨハネであった。ただ、天蠍宮のあるべき場所に蠍座があったから天蠍宮という名前になった。そういうことよ」

 可知子は滔々と語ったが、光梨の理解はまったくついていかなかった。

「はははっ、可知子の星占い講義を聞かされているのね」

 秋子が光梨に笑いかける。

「別に講義というほどのものではないですわ、秋子様」

 可知子はどこか不満気な声を出す。光梨は、そのやりとりを聞いて、ふと閃いた。

「あの、もしかして、ポスターにあった『星占いに詳しい部員います』って可知子様のことなんですか?」

「そうよ」

 秋子が即答する。光梨の脳は真空になってしまった。可知子という硬質な存在と星占いという言葉のメルヘンチックな響きとがまったく重ならない。

「ただの過大広告よ。あんなもの。私はホロスコープを作って読むくらいのことしかできないわ。今日の運勢なんてわかりはしない」

「はあ、」

 光梨は曖昧に返事する。可知子の言葉の内容も中途半端にしか理解できないし、可知子の印象と占いの概念も繋がらない。

「そもそも私自身が占いなんて信じていないし」

「え、そうなんですか、ではなんで?」

 可知子が占いを信じていない。それは確かに可知子らしいと思えた。

「ただの趣味よ。知的好奇心。理解すれば面白いのよ。四千年もの歴史があるのだから」

「ああ、」

 ようやく光梨は納得がいった。知的に貪欲な存在としての可知子。それは光梨の見てきた可知子の存在に合致している。

「で、可知子。多分だけれど、3C273の星像を捉えられたわ」

「本当ですか!」

 秋子の言葉に、可知子は強い言葉で応じた。その語調、喜びの吐露に光梨は驚きを覚えた。可知子がこうも生の感情を表す場面は、光梨であってもそれほど見覚えのないことであった。可知子がそれほどまでに楽しみにしていたのか、と思うと光梨もまた喜びを共有できたかのように感じられた。同時に、その喜びが秋子の言葉によるものであったことが、光梨の心に何か黒い塊を生み出した。秋子は、あれほどに可知子と対立していたというのに、その秋子の言葉に可知子が喜ぶ。心の中の黒い塊は瀝青であった。胸はつかえ、感情は粘ついた。何かが許せなかった。それは秋子であり、可知子であり、自分であった。

「ええ、深井さん。多分これだと思うのよね。真ん中の二つ並んだ暗い星。シミュレータの赤緯赤経とも一致しているし」

 望遠鏡を覗いていた文子が、接眼レンズから目を離して可知子の方を向く。

「光梨、望遠鏡の方へ。少し離れてもいいから、三脚に当てないように注意して」

「はい」

 光梨は慎重に車椅子を押す。秋子と文子は後に下がり、道を開ける。

「ここでいいわ。光梨」

 光梨は立ち止まり、慣性で僅かに進もうとする車椅子のブレーキを握った。可知子は車椅子が完全に止まったのを確認して、接眼レンズに顔を近づける。可知子はほうと一つ息を吐いた。微動もせずに望遠鏡を覗いていた。そのまま時間が過ぎていく。光梨には、それがとても長い時間のように感じられた。遠い天体、それに先程の秋子とのやりとり。光梨の胸は黒く塗りつぶされたまま、空洞のようになっていた。心は冷たく、湿り気を帯び、重くなっていた。

「これですね。確かに遠い。遠いわ」

 可知子は同じ姿勢を保ったまま口にする。そしてまた望遠鏡に見入る。

「よかったわ」

「やりましたね。カメラ、準備します」

「みんな、こっち見えたわよー」

 文子と秋子が感慨深く口にし、文子が他の部員たちに呼びかける。秋子はそのままPCを地面に置くとカメラの準備を始める。可知子はなお幾らかの間望遠鏡を覗き続けていた。やがてレンズから目を離すと、面を上げ、今まで望遠鏡で見つめていた夜空を、肉眼で眺めた。一息ついて、光梨の方を向く。

「車椅子を下げて、あなたも見てみなさい。私がどこに行くのか」

「はい」

 光梨は車椅子をゆっくりと後退させる。だが、車椅子の取っ手を掴む光梨の手は、冷たい汗で濡れていた。秋子はうずくまってカメラやレンズの準備をしていて光梨と可知子に注意を払っていない。文子は歩いてくる部員たちの方を向いている。光梨はなおも手に冷たい汗が滲むのを感じた。

「この辺でいいわ」

「はい、では見てきます」

 可知子に対しての返答は、どこか無機質になった。車椅子から手を放し、望遠鏡へと向かう。光梨は全身がこわばっているのを感じていた。文子に呼ばれた部員たちが、もうすぐそこまで来ている。早く見なければ。

 望遠鏡の前で、腰をかがめ、接眼レンズを覗く。闇の中に、小さな光輝が幾つか見える。光は微かに揺らいでいる。それは闇の中で燃える焔である。

「真ん中に見える、二つ小さく並んでいるのの、左側が3C273よ」

 脇に立っている文子が口を開いた。光梨は凝視する。真ん中には対になるように二つの僅かな光源がある。それはあまりに小さく、揺らぎ、瞬き、その像は捉え難い。だが、左側の光源は右側のものと揺らぎ方、強さが違う。左側の光源は、微かに強いのに、より一層揺らいで、捉えどころがない。それは、僅かな差であった。遠い。これが遠いということなのだろうか。この揺らぎがそれだけの遠さの証なのだろうか。24億光年。光梨には把握できない距離だった。24億年。自分が見ているのは、24億年前の亡霊なのであろうか。亡霊。いや、もっと恐ろしいものだ。遠い。あまりに遠い。光梨は自分がまさに絶対零度の宇宙空間に触れているのを感じる。恐怖。それは自然な感情だった。光梨は接眼レンズから離れた。

「どう、光梨さん。見えた?」

 その声が光梨にはひどく唐突に感じた。すぐ傍らには雪子がいた。光梨は少しだけ安心して、ただそれでもたどたどしさのある口調で答えた。

「はい、多分、それらしいのを」

 光梨の言葉に、他の部員たちは響動いた。それぞれ、望遠鏡に並ぶように集まってくる。光梨は望遠鏡の場所を譲り、可知子の方へと向かった。背中では絵里が大きく感嘆の声をあげていた。

「ふふ、なんだか浮かないような顔をしているわね」

 可知子は彼女独特の傲慢な、愉悦をもった笑みを見せている。いつもの可知子様だ。光梨は、それでようやく緊張が解けた。

「何、こんどはにへらにへらして。変な子ね」

「あ、いえ、すみません」

 光梨は戸惑った。戸惑う表情が的確なのかどうかも戸惑い、中途半端な顔のまま可知子の後ろに回った。

「どう、あれを見た感想は」

 可知子は、顔は正面を向いたまま、静かな声で尋ねた。

「怖かった、です、」

 光梨は小さな声で答えた。その答えは真実であったが、光梨には自信がなかった。

「そう」

 それだけ口にして、可知子は長く一息ついた。しばしの沈黙の後、口を開く。

「怖い、その通りよ。私が地学部に入って、惑星や恒星、星雲や銀河、それらを見るのは、見つめるのは、それが怖いからよ。それはこの病気になる前からそうだった。私は怖い。だから見るのよ。見たいのよ。憧れすらしたわ。そして私は、そこに行くことになった。いいえ、それより遠い場所へ。だから、なおいっそう、見たかった。もはや憧れなのかどうかすらわからない。でも、それだって、私の行く場所には届かない。だから私は見なければならない。夜は永遠よ。私はその彼方に行く。だから恐怖を直視しなければならなかった。だから見るの」

 可知子はそれだけ一度に口にした。そして持っていたペットボトルのジュースで口を潤す。光梨は何も応えられなかった。応えるべき言葉が見つからなかった。可知子が自身の死について述べているのに、涙は湧き出てこない。ほんの少し向こうでは、地学部員たちがはじめて目にする天体に歓声を上げている。だが光梨と可知子のいる場所は、僅かにしか離れていないのに、宇宙空間の静けさだ。光梨は、ただ戦慄していた。畏れていた。

「だからね。光梨。あなたもせいぜい見ておきなさい。これから私が行くところを。知っておきなさい。目を逸らさずに。直視するのよ。あなたは入院してからも私に付き添ってくれるという。ならば目にするかもしれない。その時になって目を逸したりするのなら、私はあなたを拒否するわ。いい、約束しなさい。目を閉ざすこともなく、逸らすこともなく、涙に溺れることもなく、私を見るのだと」

 可知子は言葉を終えた。光梨の心は冷たく乾いていた。涙は涙腺の奥で凍っている。畏れは膨張し、とうに光梨を飲み込んでいた。光梨は膨張する闇の中で自分の寄る辺をほとんど見失いつつあった。自分とは何なのであろうか。深井可知子とは誰なのであろうか。

 光梨は唾を飲んだ。確かに飲んだ。その感覚は事実であり、真実である。目の前には可知子の後頭部がある。刈り上げられた右の髪。缺落した右の耳。疵の走る右の項。そう、それは事実であり、真実である。そしてあの臭いがする。血と、膿と、肉の腐敗臭。それは否定し得ぬ事実であり、真実である。

「約束します」

 光梨は自分が大地に立っているということを実感した。光梨の足は確かにこの大地に立っている。

「そう、」

 可知子は短く応えた。そして左手を上げる。光梨は僅かに驚いた。可知子はそのまま上半身をねじり、光梨の方を向く。顔には強い決意の色を表しており、その左目の輝きは光梨の目を貫いた。可知子は左手を差し出すと、口にした。

「頼んだわよ」

 光梨は微かに息を呑んだ。それは命令ではなかった。対等な立場での依頼だった。可知子の顔には、あの特有の傲慢さはなく、ただ摯実さが露になっていた。光梨は瞬刻動揺した。可知子の言葉は命令ではない。光梨は自由な意思を訊かれているのだ。

「はい」

 光梨は確実にそう述べて、左手を可知子のそれに重ねた。冷たい。光梨は僅かに目を見開いた。可知子の手は、冷たい汗で濡れていた。可知子は、光梨の手を軽く握り返すと、手を解き、前を向いた。

「いいわ。光梨、あなたは皆のところに行って星を見せてもらいなさい。星座早見盤で星座の見方を教わって、あと望遠鏡で色々天体を見せてもらいなさい。私は少し休むわ。一人で平気だから。地学部の合宿なのだから、地学部員としての活動をすること。わかったわね?」

 それはやはり今までどおりの命令であった。

「わかりました。では行きますね」

 光梨は、どこか安心して、車椅子の後ろから望遠鏡の並ぶ方へと歩き出す。後ろから、車椅子の電動音が聞こえる。光梨は、そのまま望遠鏡を取り囲む部員たちの方へと進んで行った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ