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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 それから一時間弱で、バスは清里高原にある冥志舘の宿舎に到着した。宿舎は周囲を森に囲まれており、他の宿泊施設などとは隔絶した環境にある。八ヶ岳南麓の、見晴らしの良い場所にあり、南の星座を観測するのに適した立地であった。建物も近年改築されており、ちょっとした旅館並みの施設である。

 部員たちも宿舎につくと幾らか緊張も解け、口数が増えていった。林間を渡る風は涼やかで、空気も軽やか、湿気も控え目だ。バスを降りた面々は、バスの中に比べれば暑いとはいえ、「灼熱の外界」との違いを口にした。一同揃って宿舎の管理人夫妻に挨拶する。可知子と光梨を除いた部員たちは、そのまま食堂に向かい昼食の席についた。可知子は昏睡したままであったが、津川と看護師によって部屋に運ばれた。光梨も一行から離れてそれに従う。事前の連絡により、部屋には既に管理人によって布団が敷かれていた。

 顧問の文子は可知子が横になったのを確認すると他の部員たちの元へと向かった。津川も荷物の運び出しやバスの駐車などのために可知子を看護師たちに委ねた。光梨は、看護師たちと三人で可知子に付き添った。

 二人の看護師は、布団に横たえられた可知子の衣服を脱がせはじめた。このような事態を想定してのことなのか、可知子の衣服は脱がせやすいものになっていた。光梨は看護師の一人が男性であるということで精神的な抵抗感を覚えたが、そのようなものは可知子の衣服が剥ぎ取られると消し飛ばされた。可知子の身体は、もはや肩や腰に至るまで包帯に覆われており、血が滲んでいた。のみならず既に胸や腹部までも赤く腫れ、傷が走り、化膿し、ケロイド状になっていた。

 だが、光梨の意識が飛んだのは傷ではなく、傷に侵されようとしていた可知子の白い肌であった。光梨は思わず腰を浮かす。可知子の白い肌に目が吸い寄せられる。

 可知子の肌は薄白く、その色は血液の不足を若干思わせたが、それでも健康的な肌の色を十分保っていた。滑らかで、肌理が細かく、光梨にとっては以前可知子と見た青磁茶碗の肌面を思わせるものがあった。だがそれは無機質さとは無縁で、呼吸で微かに内面の筋肉によって収縮しており、その肌からは確かに生命としての力が放散しているのが見て取れる。のみならず、皮膚はほんの僅かに汗に濡れ、熱によって色を持っていた。それは可知子が肌の下で痛みと鬩ぎ合っている証左であった。だが、その肌は、今や傷に、膿に侵され、破れ、ひきつっている。糜爛し、腐敗し、破壊されようとしている。その光景は、光梨の身体を熱くし、精神を高みへ昇らせる衝動となっていた。光梨は大きく揺さぶられていた。冷や汗をかいていたにもかかわらず、その内面は煮えた釜のように滾っていた。光梨の精神は膨張し、破裂しようとしていた。光梨の頭の中では音楽が流れ始めていた。可知子の傷口に口付けした時の、昏い音楽。ヴァーグナの「トリスタンとイゾルデ」だ。

 だが、光梨の内面での鬩ぎ合いなどとは無関係に二人の看護師は処置を続けていく。女性看護師が手早く下着をはずしていく。光梨の目に否応もなく飛び込んだもの。それは可知子の右の乳房であった。傷は乳房のほとんど半分を覆わんとしていた。それは深いものではなかったが、可知子の乳房は、赤く腫れ、あるいは細かに傷となり、四割近くケロイド化していた。左の整った乳房と比べれば、その変形は明らかだった。完璧さの缺落。毀たれたもの。傷。光梨の脳髄に鉄の棒が突き立てられた。それは熱く、もしくは冷たい。その棒は光梨の身体の芯まで貫いていた。

 衣類を全部脱がせたところで、体温の低下を防ぐため、そして患者への配慮のため、可知子の半身を毛布で覆った。光梨の思考、いや、内面の衝動はそれによって中断された。突き立てられていた棒は失せた。看護師たちは手早く作業を進めている。包帯が解かれはじめた。今や光梨はすっかり内省的になっていた。先程までの膨張は逆転し、光梨の精神は急激に収縮していた。身体が汗で冷たい。だが、脳髄は今だに痺れていた。そして身体の奥底には、溶けた鉄の入った坩堝が沈んでいた。坩堝からは熱が沸き起こっている。

 看護師二人は手早く包帯を換えていった。光梨の精神は収縮したままであった。視線は夏用の白い毛布に漠然と落とされたままであった。だがそれは虚無ではなかった。光梨の身体の奥底からは静かに熱水が滾々と湧いていた。それはあの蜜のようなものなのだと光梨は心の片隅で思っていた。だが今の光梨は甘さを感じていなかった。それでも、脳の痺れる感覚は続いていた。

 包帯が巻き終わり、女性看護師が可知子に療養用の寝間着を着させていく。光梨の精神はなおも焦点もなく放散されていた。着せ替えが終り、看護師に点滴のために移動するよう求められて、ようやく光梨の精神は再び現実の地平へと降り立った。

 光梨は可知子を見た。可知子の胸は規則的に上下し、呼吸は穏やかであった。ただ幾らか痛みが走るのか、顔をしかめることがあった。額には汗が光るほどに滲んでいた。女性看護師が汗を拭き取るのを見て、光梨はそれは自分でもできることだと思い、布を受け取った。可知子の眼帯は外された。眼窩には眼球がなく、落ち込んだ瞼が縫い合わされ、皺になっている。光梨も眼帯を外したところは余り見かけることがなかった。以前にも見ているとはいえ、心に闇が滲み出る。だが、その次の瞬間には、それすらも可知子に惹かれる点だと思う自分を光梨は発見した。


 夏の長い日が傾ぎはじめ、陽光に黄色みが射し込む。可知子はゆっくりと瞼を開けて意識を取り戻す。即座に目を見開くと真っ先に目に入った光梨に問い詰めようとした。

「ひかっ! ッ!」

 可知子は光梨の腕を掴もうとし、左腕の異物感に気づき、顔をしかめる。左腕には点滴の針が刺さっていた。

 光梨もすぐに可知子が意識を取り戻したこと、左腕を動かそうとして顔をしかめたこととを確認した。

「可知子様、点滴の針が」

「深井さん、動かないで」

 光梨と看護師とが声をかける。可知子は自分の左腕を確認し、すぐに光梨を睨めつける。その視線は鋭く、光梨は緊張した。

「光梨、時間は?」

 光梨は僅かに間を置いて現在の時刻を問われているのだと気づき、自分の腕時計を見る。

「四時過ぎです」

「そう、」

 可知子は安心したように瞼を閉じ、大きく吐息をした。

「まだ夜ではないのね」

「はい」

 可知子は顔から険を消し、深く呼吸する。

「他の皆は?」

「野辺山、の国立天文台に」

「ああ、電波天文台ね」

「はい」

 可知子はそれだけ話すと、目を閉じて全身から力を抜いた。寝たり、意識を失ったわけではないのであろうと、光梨には見えた。

 ややあって、可知子は再び口を開いた。

「光梨」

「はい」

 可知子の口調は穏やかで、光梨は安心した。

「いい、万が一私が寝ていても、昏睡していても、七時半には必ず起こして。必ずよ」

「わかりました」

 光梨は可知子の眼に強い決意の光を見て、頷いた。だが、可知子の言葉には、強さが欠けていた。明瞭さが乏しかった。光梨の胸に冷たい空気が流れる。

「深井さん、無理はなさらないで下さい。体力的にぎりぎりなのですから」

 女性の看護師はそう口にしたが、可知子は軽く頷いただけだった。可知子は再び瞼を閉じると、長く吐息して、口を開いた。

「しばらく静かに休みたいので、看護師のお二人は席を外して下さい。何かあったら呼ばせますから」

 二人の看護師は、互いに視線を交わす。そして可知子に無理はしないように、と言葉をかけて、部屋から退出した。二人が部屋から出て少しして、可知子は噛みしめるように口を開いた。瞼は閉ざされたままであった。

「光梨」

「はい」

 可知子はゆっくりと呼吸しながら話しはじめる。光梨は、それを聞き漏らすまいと、神経を可知子に集中させる。

「私が今日ここに来た理由。どうしても見たい天体があるの。二つ、ね」

 可知子は言葉を区切った。光梨は唾を飲む。

「一つは見えないかもしれないわ。とても暗いから。3C273。乙女座にあるからこの季節だと高さもぎりぎりね。あなたにも記事を見せたことがあったわね」

 可知子は瞼を薄っすらと開けると光梨を見た。その動作は緩慢で、瞳の色もどこか昏く、光梨は恐れを、可知子の消滅という観念からくる恐れを抱いた。

「はい、何度か読みました。クエーサーで、一番遠い天体だと」

 光梨の声を聞いて、可知子は僅かに頬を緩ませた。

「光梨、間違っているわよ」

「すみません」

 光梨は恐縮した。だが、可知子の声は、もう叱責と呼べるような力を持っていなかった。光梨は身体にうろが空いた感覚を覚えた。

「3C273は、もっと、も、」

 可知子は言葉を途切らせた。

「水を、頂戴」

「あ、はい」

 光梨は看護師が置いていったプラスチックの吸い飲みを手に取ると、可知子の口に近づけた。可知子は一瞬怪訝な顔をしたが、吸い飲みに口をつけ、幾らかの水を飲んだ。可知子は大きく吐息した。

「情けないわね」

「可知子様、」

 光梨は続ける言葉を見つけることができなかった。胸に冷たい液体が溜まる。

「3C273は最も近いクエーサーで、アマチュア向けの観測機器でも観測できるであろう、最も遠い天体。距離は24億光年」

「はい」

 光梨の返事を聞くと、可知子は瞼を閉じてまた深く息を吐いた。

「もうひとつの天体は海王星。今は水瓶座にあるわ。占星術の伝統に倣うなら魚座かしら。直接見ることができる、一番遠い天体」

「はい」

 遠い天体。その言葉に、光梨は氷の痛覚を感じた。遠い天体。その言葉は胸に沁みる冷たさを持ち、触れるのをためらわせるのに十分だった。光梨の頭の中でそれと避けていた姿が像を結んだ。完全な闇に浮かぶ深い青の半球。あるいは、茶褐色の、疵に覆われた半球。光梨の心は慄いた。

「私はね、光梨」

「はい」

 光梨の返事は、上ずった。光梨は可知子の言葉の続きを知っていた。

「それよりも遠くに。いえ。それですらも届かないところに行く。だから見ておきたいの。自分がどこに行くのか」

 可知子の言葉が終わらないうちに、駄目だ、と光梨は思った。脳は一挙に熱を持ち、それは熱い潮となって光梨の頭部を満たし、涙腺から溢れ出た。光梨は手でそれを拭った。熱い涙はすぐに気化して冷たくなる。拭い切れない分が鼻に落ちる。光梨は鼻をすすった。可知子は溜息をつく。

「まったく、あなたが死ぬわけじゃないのよ。そんなに辛気臭く泣かれたのでは私が心置きなく死ぬことができないじゃない」

 光梨はまた大きく鼻をすすって、鼻紙で鼻をすすり直して、舌をもつれさせながらも、ようやく口を開いた。

「すみません」

「光梨」

 可知子は左手を毛布から出すと、光梨に差し出した。光梨はその意図をすぐには図れなかったが、少しして、自分の右手を重ねた。可知子の手はひんやりとして、僅かに浮かんだ汗も冷たくなっていたが、そこには確かな温度があった。

「温かい?」

 光梨の胸に穏やかな光が灯った。また涙が滲む。

「はい、温かいです」

「ならいいでしょう」

 可知子は穏やかに笑んだ。それは光梨にとってほとんど見たことのない可知子の顔であった。光梨は応えようとし、だが舌は回らなかった。頷いて、頭を下げると、涙が零れた。

「すみません、涙が、」

 光梨は右手を可知子の左手から放して涙を拭い、また鼻紙で鼻を拭いた。光梨は、可知子の、はじめて見たような穏やかな笑顔に、喜びと同時に何か心が騒ぐのを感じた。それは光梨の心にすきま風のように浸透してくる。可知子様は。あるいは。光梨の脳裏に父の言葉がよぎった。可知子様は、自分を遺すことについて、思いいたしているのだろうか。

「ふふ、まあ、私が泣かない分、あなたが泣けばいいわ。それでバランスが取れる」

「はい、あ、」

 光梨が間の抜けた返事をすると、可知子はまた違う、どちらかというと光梨にとって馴染みのある笑みを見せた。そのどこか権高な笑みに、光梨はむしろ安堵を覚えた。それこそが、光梨の知る可知子であったからだ。

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