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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 地学部の合宿は、夏季休暇がはじまってすぐに行われる。光梨を含めた部員たちと顧問の文子は地学部部室で集合した。光梨は、他の部員たちの私服姿を見るのがはじめてであったので、新鮮であった。合宿の打ち合わせを通して秋子や絵里との関係も若干は良くなっていたので、互いの私服姿について言葉をかわしたりもした。

 光梨たちは分担して鏡筒や赤道儀を運ぶことになった。光梨は赤道儀を持たされたが、それはまさに金属の塊としての重さがあるものであった。他の部員たちもその重さにぼやきを上げていた。秋子の「今年は車があるから楽だ」という発言には誰もが賛同の声を上げた。光梨も、今回車での移動であるのは可知子がいるからだ、という前提があるにしても、これだけ重いものを持って、電車などで旅行するとなると大変だろうと、思わずにはいられなかった。

 一行は可知子のバスを待つため正門のロータリーに移動した。赤道儀を背負った光梨の肩は、その僅かな移動だけでも悲鳴を上げた。

 やがてバスが到着した。運転しているのは光梨にはもう馴染みになっていた津川であった。津川と、男女一人づつで二名の看護師が紹介されると、部員たちの間に緊張が走った。しかしそれも瞬刻で、津川が赤道儀を楽々とバスのトランクに収める様を見て一同はちょっとした響動きの声を上げ、笑いあった。

 バスの内装は後部がサロンタイプになっており、可知子はサロンのソファに腰掛けて鷹揚に一行を出迎えた。光梨をはじめ部員たちは豪華なサロンタイプの内装に感嘆の声をあげていたが、可知子は悪趣味と切り捨てた。

 顧問の文子は看護師との打ち合わせもあるため前方の座席についた。部員たちはめいめいサロンのソファに腰掛ける。バスが走りだすと、部員たちの気分も高揚した。最初はサロン中央のテーブルに菓子や飲み物を広げ、バスが首都高速道路に乗る頃にはカードゲームが開始された。可知子は左手しか使えないので、光梨が可知子のカードを管理することになった。トリックテイキングゲームにおいて、可知子の戦術は実に適切だった。だが光梨が引いたカードをすぐに表情に出してしまうため可知子の戦績は芳しくなかった。


 何度目かのゲームがはじまった。バスは長い御坂トンネルを抜け、広々とした甲府盆地の南辺を滑るように走っている。空調が効いており、暑さや湿気がないのはもちろんだが、可知子の傷の腐敗臭もそれほどしていなかった。カードが配布され、各々が手札を確認する。光梨も可知子にだけ見えるように手札を広げる。この番の手札はこれといったカードがスペードのジャックとキングくらいしかなく、スートの偏りもない。

「じゃあ、時計回りに。宣言する人は? 私はパスね」

 カードを配った秋子が競りの開始を告げる。

「ハート12で」

 秋子の横に座る絵里が宣言する。

「では、私はスペード12」

 可知子の右隣に座る涼子が競りに乗った。可知子は左隣の光梨の持ち札を確認する。

「私はパスで」

「あら、弱気なのね」

 雪子が含み笑いをしながら口にする。

「私だっていつも危ない橋を渡るわけではありませんわ。名将は引き際が肝心ですもの」

 可知子は余裕を持った笑みを浮かべて答えた。

「それもそうね。私もそのひそみに倣って、パス。絵里さん、どうする?」

 雪子は、今度は笑いながら口にした。絵里は眉間にしわを寄せて持ち札を睨む。

「ではハート13」

「スペード13」

 即答した涼子に一同が軽く響動く。

「余裕って感じね」

 秋子が多少の驚きを持って感想を漏らす。絵里は手札を睨んでいたが、やがてがくりとうなだれる。

「パスします」

 一同が僅かに声を漏らし、手札を再度眺める。

「では、副官はスペードのジャックね」

 涼子が宣言をする。思わず光梨は目を見開いた。光梨としては僅かなもののはずであった。だがそれを雪子が見逃さない。

「あら、副官は可知子のペアね。マイティは多分涼子。これは全力で潰さないと」

 雪子のやや過激な発言に涼子は微かに溜息をし、秋子と絵里は哄笑した。

「光梨、まったく、あなたは。どうしてそう、思ったことをすぐに表情に出してしまうのかしら。学習能力がないというか、まったく」

「すみません、」

 可知子の叱責の言葉に、光梨は思わず萎縮する。他の一同からは笑いが起こる。その笑い声に、可知子も半ば混ざる。光梨は、萎縮もすぐに解け、この笑いの輪に加われたことを心の中で喜んだ。

「そうはいっても、あなたがプレイヤーだった頃は光梨さんを鴨にしていたのではなくって?」

 雪子が笑いながらそう問うた。

「それは、そうですけれど、でも今は光梨は私の代理人として、その責務を、を、れ、」

 可知子の声が急にもつれた。

「え、私は、て、」

 力強かった可知子の声は、不自然に途切れ、舌から滑り落ちそうになる。異常だ。光梨は即座に可知子の方を振り向く。可知子は額に脂汗を滲ませ、顔は雪子の方を向いているというのに、瞳の焦点も合っていない。顔色も青褪めていた。

「可知子!」

 雪子がすぐに可知子の異変に気づく。真横に座していたが故に可知子の異変に気づけなかった自分の無能さに微かな苛立ちを覚える。だが、それも瞬時のことであった。

「可知子様!」

 光梨はカードを抛つと可知子の左肩を掴む。その感触は、どこか冷たく堅い。光梨は驚愕に眼を見開く。可知子は何か言おうと口を開き、左手を僅かに上げる。だがそのまま、瞼が下がり、瞳が閉ざされる。

「可知子様!」

「可知子!」

 光梨も、他の部員も悲痛な声を上げる。光梨の左手の裡にある可知子の肩から一切の力が失われる。可知子の身体はそのままソファに崩れかかる。光梨の心に冷たい水が注されていく。その冷たさはそのまま一つの言葉となって光梨の中に満ちていく。死。光梨は可知子の死を予感し、恐れた。光梨の全身に冷たい汗が滲む。光梨は、それでも、ソファに沈んでいく可知子の身体を受け止めようと、両手で可知子の身体を掴む。微かに温かい。可知子の身体は、熱を持っている。注意を凝らして見ると、僅かに胸が上下している。生きている。可知子様は生きている。光梨の目に熱いものが滲んだ。可知子様は死んだりなどしていない。だが、可知子は目を開けない。顔は青褪めている。両手で掴んだ可知子の身体は力なくソファに沈んだ。光梨の胸を冷たく乾いた風が吹き抜けた。

「可知子様!」

 光梨は再度叫んだ。可知子の瞼は僅かにも動かなかった。


 後部座席の騒ぎを聞きつけ、すぐに前方で待機していた看護師二人と、顧問の文子が駆けつけた。看護師二人は可知子の身体をソファに横たえると、彼女の衣服を緩める。そして点滴などの措置を行い、可知子に付き添った。可知子の右半身の包帯には、血が滲んでいた。措置の間緊張していた部員たちであったが、その措置もある程度落ち着くと、可知子と逆の側のソファに集まった。無論、カードゲームは中断され、部員たちは沈痛さに支配されることとなった。

 バスは甲府盆地を過ぎ、中央自動車道路の長い上り坂を、慎重さを保った速度で進んでいた。バスの行く手には八ヶ岳の裾野が広がっていたが、その眺めを楽しむ部員は誰もいなかった。

 バスが長坂インターチェンジを降りたところで、絵里がぽつりと口を開いた。

「やっぱり無理だったんだ。あんな状態の可知子様を連れて合宿なんて」

 誰に向けてのものでもなかった。だが、その言葉は光梨を含めて、その場にいた誰しもの心に冷たく沁み込んだ。光梨にとっては、その言葉が、特別自分を責めているかのようにすら感じていた。

「絵里さん、それは言わないことにしようって、決めたじゃないの」

 雪子は、決然とした言葉で述べたが、その語調はひどく弱かった。

「でも気絶するなんて、そんな、聞いてないですよ」

「絵里さん!」

 絵里の言葉に対しての雪子の言葉は、雪子自身が僅かに驚くほどに強いものになった。空気は、冷たく、重かった。

「みんな、ごめんね」

 口を開いたのは顧問の文子だった。部員たちの視線は文子に集まる。

「可知子さんの容態がぎりぎりのものだったというのは、本当は知らされていたの。でも、これは、可知子さんの最後の願いなの。どうしても、最後の合宿にみんなと行きたいって、そして星が見たいって。だからね。お願いとしか言えないけれど、明日の朝まで。受け入れて欲しいの」

 文子の言葉に誰も明確な返答を口にはしなかった。ただ、部員たちは沈黙したまま、それぞれが小さく頷いた。

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