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その後、光梨は英語の授業の間、悶々と悩んでいた。明確に何かを悔やんでいたというわけではない。口にした言葉がたまたまジョークになってしまったが、別に笑いなどとる気はなかった。流暢な英語で笑いをとっていたのなら、一つの理想的な知性のあり方である。だが今しがたの光梨の言動は、苦し紛れにはみ出た言葉が、たまたまそうなったに過ぎない。
意味も終りもない思考の停頓は、授業の終了を知らせる鐘の音と共に断たれた。放課だ。光梨は通学鞄を机の上に置き、机のノートや教科書を詰めはじめる。無言で詰める間、英語の授業での体たらくを思い出す。
ふいに、影が差し掛かる。光梨はどこか怯えながら面をゆっくりと上げる。上げていくうちに顔が微かに熱くなっていく。遮っている影は、その面は、目鼻立ちのくっきりした端正な顔立ち、同級生の伊集院綾音であった。こちらをわずかに見つめ、何か意味ありげに立っている。
彼女は、伊集院綾音は、光梨がこの学級に入って最初に視線を奪われた少女であった。なんとも整った、それでいて品のある顔立ち。彼女の名前の響きとともに、実にこの冥志舘に相応しいお嬢様であるように思われた。それは光梨の勝手に思い込みにすぎない。彼女の苗字は、たどれば薩摩島津家家老の家名というのに過ぎない。「院」を含む三文字の漢字が醸し出す、妙なる雰囲気に光梨は勝手な思い込みを抱くに至ったのだ。
綾音はこちらに気づいたというように視線を向けてくる。顔に自然な笑顔を浮かべ、歩を進めつつ口を開いた。
「光梨さんって冗談とか飛ばすんだね。いいんじゃないかな」
光梨は何を言われたのかわからなかった。冗談が何を示すのか解き明かす以前に、綾音が自分に話しかけているという事態そのものに理解が及ばなかった。
「ああ。うん」
光梨は反射的に、しかしとてもまどろっこしく、返した。
「いや、なんか気にかけられてる気がして、うん、また」
そう言って、綾音はどこかへと消えた。無論消えるわけがないのだが、もはや光梨にとって認知しえる世界は異様に狭く収縮した。ばれていた。自分の視線は気が付かれていた! だがそれ以上に、光梨の心を支配したことは、綾音が彼女の方から話しかけてくれたことだ! そのことが光梨の心臓を無神経なまでに打ち鳴らしていた。
乱打が少しずつ収まっていく。ホームルームを淡々と進める担任の女性教師の声が耳に届いてくる。光梨は青褪めた世界の冷水面へと浮き上がる。光梨は微かに考えていた。冷や汗をかくのは今日何度目だろうか。ワンピースの下にシャツを着ておいて正解だった。それにもうすぐ衣替えだ。制服もクリーニングに出せる。そもそもワンピースってそれは自分は憧れていたけれど、こうやって実際着てみるとやっぱり何かと不便なのは確かで、でもやっぱり敢えて不便を選び余剰を享受するからこそ階級とし
「では、今日の日課を終了します」
担任の教師がきっぱりとそう口にするのを光梨はしっかりと耳にした。すかさず椅子を引きずる音が聞こえる。
「起立」
学級委員長が号令する。光梨は起立した。
「礼」
号令に従い、生徒たちは四十五度に頭を下げる。光梨もそれに倣う。教室の空気がざわめいた。これで、放課になる。
帰宅した光梨は、二階の自室で部屋着に着替えると、iPhoneでリズムゲームを三プレイしてから夕食の支度をはじめる。家には誰もいない。光梨の母は、光梨がまだ物心ついていない頃に病気で泉下に没している。光梨にとっては写真でしか知らない存在である。食事の支度をしながら、テレビで夕方のニュースを見る。内容はさほど頭の中に入ってこない。淡々と調理に専念する。ひと通り支度を済ませると、部屋に戻り、iPhoneを確認する。父親の帰宅が遅くなるのであれば、何かしら入っているはずだ。通知は、光梨が先ほどやっていたリズムゲームのものだけだった。光梨は、軽く溜息をついてゲームを起動し、通知を確認する。画面をいじっていると、階下で硬い解錠音が聞こえた。光梨はiPhoneを机上に戻し階下へ向かう。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、父親がそう口にした。
「おかえり」
光梨は短く応えると、父の存在に介さず台所へと向かう。
「ん。麻婆豆腐か?」
匂いを嗅ぎつけたのか、光梨の父が廊下の向こうへと消えた光梨に話しかける。
「麻婆茄子」
光梨は、振り返りもせずそう答え、料理の盛り付けにかかった。
テレビの中で、芸人が笑っている。居酒屋で食事をしているらしい。それはただそれだけの番組のようであった。光梨の父、史彦は、それを漫然と横目で見つつビールの入ったグラスを傾ける。光梨もまた、テレビを何の感想もなく見ながら、箸を動かす。
「光梨」
グラスを机に置きつつ、史彦が口にした。
「何」
光梨はそれだけ応えると、白米を口に運ぶ。
「もう慣れたか?」
光梨は白米を十分咀嚼し、味噌汁を口にする。味噌汁の椀を置いて、白米と味噌汁を嚥下するまで答えを留保した後、口を開いた。
「まあまあ」
「そうか」
史彦はそう口にすると、胡瓜の浅漬けを口に運ぶ。光梨も、冷奴に箸を伸ばす。そのまま二人とも幾らか食事を口に運んでいた。史彦は手が空くとビールのグラスに手を伸ばしつつ、また尋ねた。
「友達は、できたか?」
「まあね」
光梨は史彦の方を見ようともせず、麻婆茄子を慎重に箸でつまみながら、そう応えた。
「うん、ならよかった」
史彦はそう言うとグラスに口をつける。光梨は何か反応することもなく、食事を続けた。
食事が終り、光梨は食器を洗う。居間では史彦がソファに腰掛けテレビを見ていた。いつの間にか芸人が食事をするだけの番組は終り、クイズ番組に切り替わっていた。
「光梨」
史彦はソファに腰掛け、テレビを見たまま口にした。
「今水流しているからあとにして」
光梨はそう応えた。史彦は沈黙した。
光梨は食器を水切り籠にひと通り収め、タオルで手を拭き、居間の方へと歩いて行った。
「で、何?」
「ああ。部活は、入らないのか?」
今度は、史彦は光梨に顔を向けて問うた。光梨は、軽く溜息をついて答えた。
「わかんない。まだ決めてない」
「せっかくだし、どこか入ったらいいんじゃないか。前はお茶やってただろう?」
光梨は、両腕を軽く組む。
「あの学校、茶道部ないんだって。みんな、個人的に先生の教室行っているんだって」
「そうなのか、」
史彦は、若干の驚きを面に表した。
「ま、なんかいいのがあったら入るよ」
光梨は腕を組みかえた。
「ああ、どこでも、お前の好きなところに入ったらいい、その方がいい」
史彦は頷きながら口にした。光梨は黙って頷くと、踵を返し部屋の方へと歩んでいく。実のところ光梨の脳裏では、「帰宅部」という選択肢が存在感を増していた。




