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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 空気はもはや太平洋高気圧の運んできたそれに取って代わり、銀色に燃え上がる晴れ空と銀鼠の曇天の下での夕立とが交互に訪れるようになってきた。

 地学部では、地学部の分割教室で実務的な集まりが繁く行われるようになっていた。夏合宿の打ち合わせである。地学部では、例年清里高原にある冥志舘の宿舎で夏合宿を行っていた。分割教室での打ち合わせには、空調という「実利」もあるからか、秋子と絵里の参加率も高かった。合宿という行事の重要性から、顧問の文子もしばしば加わった。

 今回の夏合宿は一つの問題点を抱えていた。それは可知子の参加である。可知子は、一日だけでもいいから参加したい、と願っていた。これが文字通りの「最後の合宿」であることを考えれば、秋子や絵里といえどもそれを感情的な理由で拒否することはできなかった。しかし可知子の症状の悪化は明確に進んでいた。暑さと湿気もあって、ほとんど恒に彼女は疼痛に苛まれていた。疼痛は可知子の精神力で抑えられていたが、傷からは血と膿が染み出し、二日に一回は、は保健室で包帯を換えているありさまであった。彼女の白い制服も、半袖の右の裾やスカートの右の袂は褐色に汚れつつあった。

 痛みも可知子の精神力で抑えられていたとはいえ、時には強く走り、苦悶を顔に浮かべることが増えていった。そんな時は雪子や涼子、文子のみならず、秋子や絵里も心配の声をかけることがしばしばだった。

 結局、直接深井家から顧問の文子に連絡が入り、協議が行われ、その案を元に部内で話し合われて合宿の日程が決まった。可知子は合宿の最初の二日間のみ参加し、二日目の午前には帰ることになった。雪子としては、光梨はその後も継続して合宿に参加するつもりで考えていた。しかし、光梨は可知子がそのまま入院することを知らされており、それに付き添おうと考えていた。可知子も光梨も同じような意思を持っていたため、光梨も二日目で可知子とともに引き上げることになった。

 清里までの行程では深井家が特別に観光バスを手配することになった。それに加え、二人の看護師が目立たない形で同行することになった。看護師の同行という予定は、可知子の病状の悪化を思わせ、地学部員たちの心胆を冷やした。だが可知子本人は明るく振舞っていた。それは光梨の目からしても、可知子の明るさは目立つものであった。しかしそれは虚勢などではなく本心からの楽しみなのだと、光梨にはわかるようになっていた。


 光梨は僅かな問題を抱えていた。それは可知子の入院についてであった。光梨は可知子に付き添って身の回りの世話をするつもりでいた。だがそれを、父に話していなかった。しかしそれをいつまでも口にしないわけにもいかず、ある夜、夕食後に切り出した。

「父さん」

「ん? なんだ?」

 ソファで寛いでいた史彦は、娘に話しかけられ、僅かに瞠目した。娘から積極的に話題を振ってくることが、それほど多くなかったからだ。だが娘の表情からして、その内容が深刻であろうことが推測できた。

「あのね、前話した、部活の深井先輩のことなんだけど」

「ああ、色々話をするようになったんだってな」

 光梨も、やはり可知子の情報を共有しようという思いの強さに、父に可知子の話をすることもあった。だが、重要な事は、何も話してはこなかった。

「その深井先輩なんだけれど、夏休みに入院することになってて、」

「ああ」

 光梨は話していて、熱が放散し、自分が冷えていくのを感じていた。史彦の方も、その娘の面持ちに、明らかな翳を見て取った。そして、既に一つの答えを推測していた。それは、かつて自分の伴侶を覆った翳と同じであろうことを、推測していた。

「その、その深井先輩と実は結構仲良くしてもらってて、」

 光梨は自分の言葉のみすぼらしさをわかってはいたが、だが「外の世界」に可知子のことを説明するのに、他に美辞を持てなかった。

「私も。私も、入院するのに付き添うことに、その、なった。の」

「そうか。そうなの、か」

 史彦は、自分に言い聞かせるように口にした。

「期間は、退院の見通しとかは?」

「多分、ない、」

 光梨は、ひどくしぼんだ声で口にし、首を横に振った。

「そうか」

 史彦は、深く息をつき、光梨を見つめていた。光梨は、視線を落としていた。父の視線を疑いはしなかったが、自分の心に自信を持てなかった。

「光梨。大切な人を喪うことは、辛いことだ、」

 光梨は、母のことを話しているのだろうと、理解した。

「だけど、大切な人を遺して旅立たねばならないのは、きっともっと辛いことなのだと思う。光梨。それだけ深井さんに大切に思われているのなら、彼女の傍にいて、彼女を支えてあげたらいい。それだけ、深井さんに思われているのなら」

 父の言葉に、光梨ははじめて思い至った。可知子が光梨を、あるいは自分の家族を遺して旅立つことを、どう思うのか。慥かに可知子は「全世界は私を養うためにある」などと口にはしている。だが、光梨はともかく、家族に対して、一人先に旅立つことをどう考えているのか。光梨の思考は圧縮される。自分は好んで可知子に「仕えて」きたし、可知子もそれを是としている。しかし、可知子の心中の、本当の声は、どのようなものであるのか。光梨には有効な回答を見いだせる自信がなかった。


 それから終業式の日までは僅かな間であった。痛みのために可知子はほとんど常に険しい表情をしていた。毎日昼休みには保健室で包帯を換えなければならなくなっていた。それでも出血によって可知子の白い夏服の汚れは面積を広げていった。その中で一つ可知子が全校に存在感を示したのが、期末考査であった。可知子はそれまでも概ね首席であったが、「最後の」期末考査でも首席であった。痛みに耐えての首席は、ほとんどの生徒に敬意を抱かせるのに十二分であったし、光梨にとってもそれは非常に誇らしいことであった。

 この頃には可知子とそれに付き従う光梨に対して悪感情を示す生徒はいなくなっていた。それどころか可知子との「記念撮影」を望む生徒が現れはじめた。そういった場合、可知子は極めて不機嫌な顔をしつつも、その不機嫌な顔に生徒たちが怖気づかない限り、撮影に応じた。光梨にもその手の「敬意」を示す生徒が増えてきた。しかし、光梨はこのことにさほどの喜びを覚えなかった。そのようなことよりも可知子との「残り時間」の方が光梨にとって深刻なことであったからであった。ただ、礼子や郁美との関係は修好した。綾音との間の溝も元に戻りつつあった。

 終業式の日、光梨が可知子を彼女の教室に送ると、二人は可知子の同級生たちに取り囲まれ、記念撮影を望まれた。光梨は固辞したかったが、可知子が一緒に映るよう言ったので、光梨も可知子の同級生たちと写真に収まった。ここ数日の、この手の撮影にいい顔をしなかった可知子であったが、この時の可知子の顔は穏やかなものに光梨には映った。可知子が同級生たちと交わす会話も和やかであったが、涙を見せる生徒が現れはじめると、感染したかのように多くの生徒が泣きだした。可知子は始終穏やかな表情をしていた。そして朝のホームルームが近くなると、光梨に教室に戻るよう命じた。光梨は可知子と共にいた時は可知子に合わせるように穏やかな顔を保っていたが、可知子の教室を出て階段の陰翳を踏むと涙が滲んだ。嗚咽を漏らすと涙は堰を切り、光梨はそのままうずくまった。通りかかった教員の一人が光梨を保健室に送り、光梨は一日分の涙を保健室で流した。

 終業式では、可知子が「最後の挨拶」をすることになっていた。光梨も保健室から復帰し、当然のように可知子の車椅子を押した。可知子の挨拶は、非常に簡潔なものであった。「約束された死」という事実を客観的に、琅琅とした声で述べ、簡素な謝辞と永訣の言葉で締めた。生徒たちの間からは歔欷きが多く漏れたが、可知子は言葉を終えても吐息を一つついただけだった。光梨も、保健室で涙を流しきったので、泣きはしなかった。それに、泣くことを可知子が許さないだろうと予想したので、泣かなかった。

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