表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
腐肉の女王  作者: 資治通鑑
18/28

18

 二週間後の週末、光梨は可知子の指示により、上野にある東京国立博物館の正門前に赴いた。制服に白いソックスを着用のことと指示されていた。その日は細やかな雨が降っており、僅かに暑く、空気にはすっかり水分が溶け込んでいた。正門前にはスーツ姿の男性が二人、傘をさして立っていた。二人は東京国立博物館の館長と学芸員だという。光梨は相手の地位に無為に多く頭を下げたが、二人も可知子を待っているのだという。やがて現れたいつもの黒いセンチュリーから、津川と、もう一人見知らぬ男性が現れた。彼らは可知子を濡れないように車椅子に乗せる。可知子も制服姿であった。そして、もう一人、可知子の座っていた奥から、一人の壮年の男性が姿を表した。光梨は、その男性の顔立ちにどこか見覚えがあるのを感じた。助手席の男性から傘を受け取ったその男性は、光梨の前に立つと、自己紹介をした。深井清友。可知子の父であった。清友は光梨に深く頭を垂れ、娘についての感謝の念を述べた。それはあまりに丁重で、光梨は恐れ入るばかりであった。

 やがて津川だけが車に戻り、それ以外の面々は博物館敷地に進んでいった。助手席の男は清友の秘書だという。博物館館長に秘書を常に連れ歩く可知子の父と、光梨にとっては恐縮ばかりが頭を占めていたが、彼らはしごく柔和な表情と言葉で光梨と接してくれた。光梨はいつもの通り可知子の車椅子を押そうとしたが、それは清友に制止された。そして彼は可知子に学校でもそんな状態なのか、などと可知子をたしなめた後、光梨に再び深謝した。光梨の頭の中はもはや恐縮ではちきれそうで、会話すること自体恐ろしくなって、一行が進んでいる間顔を俯かせていた。可知子はそんな光梨がおかしいのか、少し意地の悪い笑みを光梨に見せ、光梨はそれを確認することで可知子との紐帯を感じた。

 一行のうち館長と学芸員は途中で列を離れ、残りの四人はそのまま奥の庭園へと向かった。そして六窓庵へと辿り着くと清友と秘書とで可知子を水屋へと上がらせた。可知子は光梨にも水屋に上がるよう指示した。清友と秘書とは可知子をよろしくお願いする、というようなことと、何かあったら直ぐに電話をするようにと告げると、茶室を去った。

 六窓庵は、雨曇の中、暗く翳っていた。微かに雨音がしたが、雨音はすべての音を吸い込み、それも藁葺の屋根に吸い込まれ、光梨は気が遠くなるほど静かに思えた。土壁を通して湿気は六窓庵を満たしていた。光梨は自分が雨に溺れるような感覚を抱いていた。

 可知子は水屋の柱にもたれて座っていたが、やがて光梨に指示を飛ばした。

「さて。光梨、私を茶室の方に引きずっていって頂戴」

「引きずる、」

 光梨は少し意表を突かれた。人を引きずる、という言葉が彼女の語彙になかったからだ。

「私はもう左腕と左脚しかないのよ。どうやって茶室まで行くというのよ」

 少し意地の悪いような、不機嫌なような声を可知子が出す。光梨は、可知子のこの声色が、むしろ彼女が楽しんでいるときのそれだと知るに至っていたが、それでも心が騒いだ。

 光梨は可知子の傍らにしゃがむ。可知子は左腕を光梨の肩に回すようにした。そのまま光梨も、這うようにして前に進む。可知子は上半身の体重をほとんど光梨に預けていた。光梨は可知子の熱をその身に感じる。それはとても甘い熱であった。可知子様が生きている。その熱を感じる。それに、可知子の匂いがする。肉の腐った臭いではない、可知子という少女の匂いがする。光梨の心の杯に、熱い蜜が満たされ、溢れていく。二人で、陰鬱な茶室で這いずりまわる。それはどこか虫の行進のようだと光梨には思えた。それも、蛆虫だ。だが、光梨にはそれすら微妙な空想に思えた。可知子とこうして接することができるのなら、蛆虫でも構わない。いや、可知子と一緒に入られるのなら、壺か何かの中で蠢く蛆虫のような存在でも、それは甘いことのように思えた。

「なんだか楽しいわね」

 可知子の言葉に、光梨は僅かに驚いた。

「なんだか、こうやって光梨とずるずると。虫みたい」

「そうですね」

 光梨は、可知子と自分とでこの奇妙な甘い経験を共有していることを、素直に喜んだ。それは、確かに一つの完結した世界だった。

 水屋から三畳に出て、可知子は給仕口を指し示した。そして給仕口から出た畳に座ると、光梨にその右側に座るよう指示した。そこで可知子は床の花に気づいた。床には、桂籠に薄紫の敦盛草が生けられていた。

「光梨」

 可知子は光梨を呼び止めた。光梨は可知子の方に向き直ると、その視線の先を見た。桂籠には小さな、だが籠からこぼれ落ちそうな程に生気に満ちた敦盛草が生けられている。光梨はその花の名を知らなかったが、この陰翳に沈んだ四畳の茶室の床で僅かに薄紫に輝く姿に心を吸い寄せられた。

「敦盛草、」

 可知子は喉から絞るように口にすると、左脚を崩しながらも左手をついて深く頭を下げた。光梨もそれに倣い、床の花に頭を下げる。微かに嗚咽が聞こえた。光梨ははっとして頭をあげる。可知子はまだ頭を下げており、嗚咽はそれ以上聞こえなかった。

 やがて可知子も頭をあげる。光梨は可知子の左目に光るものを見たように思った。だが可知子は、すぐに正面を向き、光梨には左目を見せなかった。そして、缺落した右脚とのバランスをとるように左脚で崩しつつも正座する。可知子は何も口にしなかった。光梨もまた、何も口にしなかった。ただ、可知子が一度だけ左目を拭ったのを確認した。

 やがて水屋の方から声がかかった。先程の博物館館長の声であるようだった。

「どうぞ」

 可知子は張りのある声で応えた。遠くで引き戸の開く音が聞こえる。そのまま足音が近づいてくる。足音が止むと、僅かに間を空けて、僅かに木の擦れる音を立てながら、茶道口が開いた。そこには、膝前に褐色の木箱を置いて正座した博物館館長の姿があった。

 館長は一礼するとその場で立ち上がり、その褐色の箱を両手で抱えながら、静かに可知子の前に進むと、ゆっくりと座り、慎重に箱を可知子の眼前に置いた。もはや完全に平静な表情の可知子は、左手をつき、バランスを崩さない可能な限り深い礼をした。光梨は僅かに遅れ、深く礼をした。

「御存知の通り国宝ですから、お取り扱いにはご注意ください。本来なら、個人の方にこのような形でお見せするわけにはいかないのですが、深井清友様、可知子様のたっての願いとのことですので、取り計らわさせて頂きました。私は外でお待ちしております。何かありましたらすぐにご連絡ください」

 そこまで申し述べて、館長は頭を上げた。続いて可知子が頭を半ば上げ、口を開く。

「床の飾りに感服いたしました」

 あの「敦盛草」のことだと、光梨にもわかった。

「はい、清友様から事前にお預かりしておりました」

 可知子は一度息を呑んだ。そして、再度短く礼をした。館長も礼をし、光梨も再度頭を下げた。

「それでは、失礼致します」

 館長はそう述べると、立ち上がり、茶道口に再び座ると、一礼し、戸を閉めた。可知子はそれを目で追い、光梨もそれに倣った。可知子は館長が姿を消すと膝前の箱に視線を移す。光梨もそれに倣って褐色の箱を見る。20cm角くらいの古びた様子の箱で、「馬蝗絆」と書かれた紙が貼り付けられている。

「光梨」

 可知子は口を開いた。

「はい」

「これからこの茶碗を見るのだけれど、館長が言ったようにこれは国宝で、その存在が国一つに値するものなの。私が両手を使えるのならまだしも、今の私には左手しかないわ。だから、光梨、あなたはもし私がこの茶碗を取りこぼすようなことがあったら、必ずそれを受け止めるように。わかったわね」

「はい」

 光梨の声は微かにかすれた。光梨の脳に国宝という言葉が詰め込まれ、光梨は言葉に押しつぶされて酸欠するのではないかと感じた。光梨は、今の光梨は、可知子に付き従うのに相応しい人間でなければならない。だが、それでもやはり、いや、それだからこそ、光梨は国宝という言葉で圧死しそうであった。

 が、光梨の表情を見かねたのか、可知子は僅かに笑みを見せる。

「そんなに緊張しなくていいわよ。ただの茶碗、ただの焼き物なのだから」

「はい」

 光梨の言葉に可知子は頷いた。そしてまた真顔に戻り、箱を見つめる。可知子は左手を伸ばすと、箱の蓋に手をかけた。僅かに木の擦れる音がして蓋が開く。中には、黒い漆塗りの曲げ物が入っている。左手で中の漆塗りの曲げ物を取り出そうとして、手をとめた。

「光梨、左手だけでは取れないわ。こちらに廻って。私の代わりにこれを取り出して頂戴」

 光梨の背筋を稲妻が走った。自分の手で、この国宝であるというものを、手にしなければならない。光梨の掌に冷たい汗が浮かぶ。

「別に怖がらなくていいわよ。ただの木地曲げの箱よ。だいたい、そうそう簡単に壊れたりしないのだから安心なさい」

「はい」

 そうは答えたものの、光梨の掌には冷たい汗が滲んでいた。生唾を飲み込みながら、漆塗りの曲げ物を両手で掴む。持ち上げようとすると、曲げ物ではなく、蓋だけが持ち上がる軽い感触がする。光梨は僅かに慌てて曲げ物を底からしっかり掴む。中には何か、茶碗であろうが、重量のあるものが入っているのが感じられた。だがそれは、茶碗ということで想像したものより軽かった。

「そう、ではそれを私の右に置いて」

 可知子は左手で自身の右膝前を指す。光梨はそれに従ってゆっくりと容器を置いた。

「そのまま蓋を開けて。蓋は奥において頂戴」

 光梨は曲げ物の蓋を、ゆっくりと開く。気圧で蓋の吸い付く感覚を覚える。気圧はすぐに均一になり、蓋は空いた。光梨が蓋をずらすと、そこには、鮮やかな、それでいて落ち着きのある、青磁の茶碗が鎮座していた。光梨は息を呑んだ。その輝きは冷たそうでもあるが、あくまでも控え目なものであった。茶碗は縁に向かって釉が薄く、白くなっており、その様は六つの口縁の切り込みと合わせて可憐な花びらを思わせるが、しかしそこに儚さはない。茶碗の縁はあくまでも柔らかな線を描き、薄く、それでいて柔弱さとは無縁であった。茶碗の内側は粉青色の釉薬が、雲のように濃淡を描いてかかり、その微妙な様はまさに幽遠な雲が天界に棚引く様であった。底には罅が走り、だがそれすらもこの茶碗の完璧さに価値を与えているかのようであった。

 見ると、可知子も同じように息を呑んで感嘆している様であった。このような「弱さ」を可知子が見せることは光梨には稀に思えた。だが可知子の微妙な表情は、光梨と同じくこの茶碗に圧倒されているが故に思えた。

 可知子は古袱紗を取り出し畳に広げる。金糸も鮮やかな高台寺金襴であったが、光梨は金襴すら見るのがはじめてであった。

 可知子は左手をそっと差し出すと、中の茶碗を掴んだ。そしてゆっくりと茶碗を膝前に置く。そして左肘を左膝につくと、左手で茶碗の角度を変えつつ、茶碗を検分しはじめた。

「光梨、あなたもご覧なさい。その木地曲げは脇によけて」

 光梨は、言われたとおり、漆塗りの曲げ物を置き直すと、膝行して可知子の真横から茶碗を見る。再び光梨は息を呑む。茶碗は可知子の左手によって、様々な角度をとる。それはあたかも茶碗が中空で舞っているかのようでもあった。

 間近で見ると、茶碗の魅力が厳然と立ち現れる。茶碗の肌は、焼成された澄明な釉によって、玻璃のような冷たい硬質な輝きと、微かに湿り気を帯びた人肌の柔らかさ、温もりとの両方を示している。微妙な艶やかさは、茶道具に通じているわけでもない光梨の心にすらエロティシズムとネクロフィリアの焔を灯させた。そこには人間の肌を吸い寄せる、いや、一つの存在が他の存在を惹きつけずにはやまない存在=体=存在の宥和力と、確固とした不羈たる、他者への諂いや阿りを峻絶した気品とに満ちていた。触れたいと思わずにはいられない魅力と、斯くも高貴なものを触れるということへの畏れとが光梨を包んだ。

 色合いもまた光梨の心を掴んだ。それは水色と空色が入り混り、その濃淡はこの茶碗の持つ世界に深みを与えていた。世界。そう、この茶碗はまさに一つの世界を構成しているかのようであった。その全体は白に近いのに、釉の与える色の深さは無限の奥行きを思わせた。薄手の茶碗に過ぎないはずなのに、その茶碗に湛えられた色はもはやただの色ではなく、無窮の天界の映し身であった。

 茶碗は罅割れ、その表面には半ば錆びたような鎹が打たれている。罅は鎹の錆なのか、僅かに褐色に染みている。だが、そのような不完全性すらこの茶碗に完全性を与えているようであった。この罅と鎹がなかったならば、この茶碗は完璧にはならなかった。これがまったくの完全な茶碗であったのなら、もはやこの茶碗を見た後では物足りなさを感じることであろう。

 可知子はしばらく茶碗を様々な角度から眺めていたが、やがて茶碗を古袱紗に置いた。なおも茶碗に目を落としていたが、ややあって視線をそのままに、口を開いた。

「この世に聖杯というものがあるとしたらこの茶碗こそが相応しい。グラール。この茶碗はまさに『母たちの国』そのものだわ」

 光梨は可知子の語るのをただ聞いた。「聖杯」や「母たちの国」というのを、可知子が口にしたことがあるのは覚えているが、その意味を理解できてはいなかった。可知子も光梨の言葉を求めていないようであった。

「この茶碗は命と等価。もし私が、深井家の長女などではなかったら、私は展示されたこの茶碗を、硝子ケースを破ってでも手に入れたかもしれない。そしてその瞬間に死んでもいい。それだけの価値があるのよ。言ってしまえばね。この茶碗を手にしたのなら死んでもいいのよ。この茶碗と一つの命は等しい価値を持つの」

 そこまで語って、可知子は一息ついた。

「だからね、光梨。これが世界よ」

 可知子は茶碗を見つめ続けていた。光梨は「世界」の意味に圧倒されていた。

「はい」

 光梨は完全に肯定した。そして思った。この世には人の命以上に価値があるものが、存在するのであろうと。そして、可知子の精神は、もはやそれに等しいものであるのだと。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ