16
放課後、可知子は光梨を伴って部室へと赴こうとしていた。車椅子は電動で、光梨がいない時は可知子が操作していたが、光梨がいる時はほとんど光梨に押させていた。
光梨は可知子の教室に赴くと、車椅子を押し、エレベーターへと向かう。生徒は使用禁止であるし、教員も大きな荷物を運ぶというような時以外は使わないものであったが、今や可知子にとっては必要欠くべからざる存在であった。
途中の廊下では、可知子と光梨に生徒たちの視線が交錯した。生徒たちはあれが昼礼で言われていた二人か、というような表情をしていた。竹中絵里の、そしておそらくは大林秋子からも発せられている情報がそこまで生徒たちに膾炙しているわけではない。はじめて知った、というような生徒たちもいた。そういった生徒たちからはむしろ同情のような視線が送られた。だが、可知子は無視したし、光梨も、少なくとも可知子とともにある時は、そのようなものは実に関係のないものだった。
校舎の裏手のクラブ棟へと向かう。クラブ棟は本校舎などと比べて古く、建物としての完成度も低い。そこへ通じる道もまた綺麗に整備されているわけではなかった。アスファルトで舗装されていたが、ほとんど仮設道路といったものであった。車椅子のハンドルを握る光梨の手にも道路の凹凸が振動となって伝わってくる。光梨は可知子の乗り心地が心配であったので、車椅子を押すのにも慎重になり、速度も落ちていった。数名の生徒の往来があったが、彼女らは二人を見ると挨拶をし、適度な優雅さをもって道を空けてくれた。
木々の合間を抜けて、視界にクラブ棟が現れてくる。他の施設に比べると本当に団地かなにかのようだな、と光梨は思いつつ、先に進んだ。クラブ棟がその姿をあらわすにつれ、光梨は違和感を覚えた。何か心に引っかかるものを感じる。何かがおかしい。それはいつものクラブ棟と何かが異なるというのではなく、クラブ棟の存在そのものが心に引っかかるのである。
クラブ棟のまさに入口に来て、光梨はその「引っかかり」に気づいた。可知子も気づいたらしく、僅かに息を呑んだ。クラブ棟はコンクリートの基礎が妙に高く、中に入るために二段ほどだが段差の高い階段があった。それに、考えてみればすぐに思いつくことであるはずだったが、クラブ棟にエレベーターなどない。二階の部室に行きようがないのだ。
可知子は舌打ちすると、左手に手にした杖をかざし地面を打ち据える。アスファルトに木のぶつかる乾いた音がした。光梨は驚きと恐怖を覚える。可知子の杖を握る手が震えている。近傍を歩いていた生徒たちも足を止め、息を呑み、可知子と光梨に視線を向ける。
「なんで。なんでよ?」
可知子の声は憎悪の海からのっそりとその姿を表す。それは深海から湧き上がる深い声であり、そこからは膨大な怨讐がはちきれようとしていた。可知子の左手はもはや明らかに震えていた。光梨は恐怖した。可知子の声の持つ闇に。
「なんでこんなところに段があるのよ! 何故? 誰?」
可知子の声は炸裂した。もはやその声は裏返っていた。可知子は再度杖を地面に叩きつける。
「こんなところに段が! くそっ。段が、段が! 光梨!」
「はい!」
可知子は光梨の方を振り向いた。光梨は慌てて返事をする。可知子の顔は顔の片方は憤怒していたが、もう片方は半ば麻痺していた。その差異が、歪みが、より一層その顔を、その表情を、恐るべきものにしていた。可知子のこのような表情を光梨が目にするのははじめてだった。引きつった不自由な半面には、限界までの憎悪が叩きつけられていた。それは内面にある現れることもできない瞋恚の焔に赫赫と照らしだされている。麻痺した顔面の表情の限界はむしろ内にこもることにより却ってその焔の激しさを思わせた。光梨は息を呑もうとしたが空気は焼け付いていた。光梨はもはや焔に、自分を焼き尽くそうとする焔に囲まれていた。その焔に光梨は恐怖した。だが、もはや世界は燃え上がっており、逃れられはしなかった。
「立って歩くから、光梨、私の右側を支えなさい! ほら!」
「はい!」
光梨は全身を可知子の焔に焼かれながら行動した。このようなところで逡巡などありえなかった。鞄を右手に持つと、左腕を可知子の右脇に滑り込ませた。足りない。可知子の右腕の感覚が足りない。そうだった。光梨は今更再認識した。もう、可知子の右腕は肘から切り落とされているのだ。うまく可知子の右腕を捉えられない。可知子の方も右腕に力を入れられない。
「ちゃんと持って! 立つわよ!」
もはや可知子は前しか見ていなかった。彼女を拒む数段の階を、その先のクラブ棟への入口を、燃やし尽くす勢いで凝視していた。光梨は可知子の右腕の、いや、右腕の残りの脇下を掴むと、可知子が立ち上がろうとする機会で力を入れる。だが、可知子の身体は大きく傾ぐ。可知子には右脚ももうなかった。左脚だけが立ち上がろうとしたが、右半身を支えるものは不安定にしか力の入らない光梨の腕だけだった。可知子が左脚を伸ばしたその時、光梨の掴んでいた右腕の残りの部分はずり落ちそうになり、可知子は右前方へと状態を大きく傾げる。光梨は思考より先に身体を動かし、両腕で、全身で可知子の上半身を受け止める。即座に可知子が光梨を一喝した。
「何をやっているの! ちゃんと支えなさい!」
光梨の耳元で大音声が炸裂する。
「ごめんなさい」
光梨は恐ろしさに身を焼きつくされながらそう答えた。光梨の肩越しには無機質な、まったくただの物でしかない右腕の義手が垂れ下がっている。光梨は僅かな逡巡の後可知子の上半身、胸に両手を回して彼女を支えようとする。だが、光梨に比べて上背のある可知子を、それも左脚しかない彼女を支えるのは困難なことであった。平衡を崩した可知子の身体は重力に抗えない。光梨は可知子を車椅子に再び座らせるのがやっとであった。
「ちゃんと支えなさいよ!」
可知子は叫び、杖を手にした左腕を、闇雲に光梨に打ち付ける。それは何らの秩序もない、ただ激情の発露でしかなかった。
「申し訳ありません、申し訳ありません、」
光梨は自分が全ての元凶とすら覚えつつも、必死に、だがほとんど意味もなく答える。光梨の半身が杖で打擲される。光梨はそれが可知子の体温なのか打ち据えられた痛みなのかわからなかったがとにかく熱さだけを感じていた。
「畜生、なんでなのよ、なんで! ああああッ!」
裏返った声で可知子は叫ぶ。その声は人間の限界であり、魂の発露であった。人間の精神が限界に達した時にのみ現れる絶叫であった。光梨はようやく思った。これは裸の可知子なのだと。裸になった魂なのだと。だが、絶叫もそれまでだった。続く可知子の声はもはや弱々しく、消し炭のようになっていった。
「くそ、ヴァルハラは焼け落ちろ! 全部、全部、焔に放り込め、壊してやる。……くそ、なんで、なんでなのよ、」
いつしか打擲は止んでいた。可知子の声は裏返って魂の弱さを見せつつある。可知子は杖を抱くように手にして俯いている。光梨の腕に熱い水滴が垂れ、すぐに気化して冷めていく。泪だ。光梨は知った。可知子が泣いているのを。
可知子の声が静まるのに代わって周囲からつぶやきが湧きはじめる。人の少ないクラブ棟周辺だったが、もはや可知子と光梨に、クラブ棟内外にいる生徒たちの耳目が集まりつつあった。彼女らは、各々差異があるとはいえ、皆驚きと恐れ、そして憐憫とがないまぜになった惑いを面に示していた。
「あの、大丈夫? 手伝いとか、しましょうか?」
ジャージ姿の生徒が声をかけてきた。数人連れで、ソフトボール部のバッグを肩にかけている。彼女をはじめとする一同は心底心配しているような表情で、可知子と光梨を見守っていた生徒たちの輪から一歩前に出ていた。
可知子はほとんど俯いたまま、彼女らを拒否するように杖を横薙ぎにする。それは風切る音も僅かであったが、明確な拒絶であった。彼女らは、一瞬ためらったが、だがやはり前に出、更に声をかける。
「でも、本当、手伝いますよ」
可知子は杖を軽く地面に叩きつける。もはや彼女の精神はそのような形でしか発露されなかった。光梨はようやく気づいた。可知子をこのままにしてはいけないと。もはや可知子の魂は外界に露わにされている。可知子を裸で衆目の下に置く。それは危険であり、おそらくは可知子にとって屈辱につながる。
「皆さんすみません」
光梨は当惑と謝意と謝罪とがそれぞれ半ば中途半端に混ざった表情で周囲に言葉した。ソフトボール部の生徒たちも、わかったように頷くと、一歩下がった。
「可知子様、動きます」
可知子は俯いたまま僅かに頭を下げた。光梨は、車椅子を押し始めた。可知子の状態がよくわからないので最初はゆっくり動き始めた。だが、いずれ、この場からとにかくも逃避せねばならぬとわかっていた。このような可知子を徒に曝露させるわけにはいかない。車椅子を押す速度が上がっていく。光梨の心臓の鼓動も、狼狽のようなものを覚えて上がりはじめた。半ば駆けるようにクラブ棟の裏に回った。非常階段の影にたどり着く。光梨は確認した。周囲に生徒はおらず、クラブ棟もこの壁に面しているのは非常階段の扉だけだ。だが、クラブ棟の入口の方は、先程にも増してざわめきが増しているようだった。
「可知子様」
可知子は杖を抱くようにして俯きながら、微かに頷いた。その背中は柔らかな貝の中身だった。いつもは不羈の精神という殻に守られているのが、今では剥き出しになっている。微かな空気の動きすらその柔らかな背中を傷めるのではないかと思えた。可知子は時折、僅かに背中を震わせた。だがその震えも、呼吸による収縮にとって変わっていった。
光梨は足音に気がついた。光梨は足あとのする方を向く。そこには地学部の雪子と涼子が立っている。その角の向こう、奥の方には、先程より静まったとはいえ、生徒たちの声がかすかに聴こえる。
雪子と涼子が一歩踏み出し、大丈夫か、と聞くように手を僅かに挙げた。光梨は首を横に振る。雪子と涼子は顔を見合わせると、光梨の方を再度向いて、軽く頷いた。光梨もそれに応える。二人は、歩き始めるとクラブ棟の角の向こうへと消えた。僅かだが、生徒たちが一段ざわめく。雪子と涼子の、「すみません」というような言葉がわずかに聞こえてくる。やがて生徒たちのざわめきは漣のように引いていった。
遠くでどこかの運動部のかけ声が聞こえる。涼やかな風が一陣吹き抜け、辺りの木々を揺らしていく。すぐ隣のクラブ棟からは、窓を開け放しているのか、生徒たちの声が直に聞こえる。だがその声量は小さく、話の内容も聞き取れない。
可知子は俯いたままであった。もう震えはなく、呼吸で上下するのみだった。光梨はその傍らにあってただ可知子の柔らかい背中を見つめていた。何かすべきなのだろう。だが、この場合何が適切なのであろうか。はじめて可知子の裸の魂に接した光梨は惑っていた。いや、このようなことは光梨にとって未知の体験であった。他者の裸の魂。柔らかな内奥。それを今、目の前にしている。光梨はここでナイフでも突き立てれば容易に彼女を殺せる。あるいは、放置して逃げ去ることも可能なのだ。どちらにせよ生殺与奪を握っている。自分が! 無論、そのような否定的な意思は実験的なものとしてしか浮かび上がらなかった。それに、それ以前に、光梨はこの可知子の露呈した魂にどう接するべきか、惑っていた。
「可知子様」
光梨は、ようやくそれだけ絞り出して、つぶやくように口にした。可知子は何の反応も見せなかった。ただ呼吸で背中を上下させるだけである。光梨は可知子の肩に手を置くという試みを思い立った。光梨の体の芯が発熱する。それは甘さ故などではない、純粋に緊張によるものだった。自分は今まで可知子の意に沿うことのみをしてきた。自分の行動は可知子の意思の具現であるはずだった。だが、指示を発すべき可知子は沈黙している。光梨が可知子に、光梨から自分の意思を示すのは、光梨が可知子の元に赴き、彼女に忠誠を誓ったあの時以来であった。
可知子の肩に手を落とすのは、実に簡単な事だった。光梨はほんの五センチ手を重力に任せただけだった。手に可知子の熱を感じる。可知子は僅かに身体を震わせた。光梨は驚き手を宙に離す。だが、このまま離すことは道義に外れることのように思えた。光梨は再び可知子の肩に手を載せる。可知子はそのままであった。少しして、可知子は深く呼吸した。光梨は可知子の肩から手を離さなかった。呼吸による肩の上下が自分の手と密着していることに、光梨はほんの少し喜びを覚えた。
可知子は俯いたまま左手で顔を拭うと、抱くように持っていた杖を持ち直し、僅かに上体を起こした。そして咳払いを一つすると口を開いた。
「無様な姿を見せたわ」
可知子の声は僅かにかすれ、弱々しかった。だが、完全に力を失ってもいなかった。光梨は可知子の顔を見ようとする。可知子は再び左手で目頭を拭う。左目はやや赤らんでいた。
「本当、情けない」
「可知子様」
可知子は光梨に反応を示すこともなく、そのまま上体を起こす。光梨は手を肩から放した。可知子はそのまま遠くを見ていた。光梨は可知子の顔を見ていた。可知子の顔には先程のような苛立ちも憎悪も消え、その表情はただ澄んでいるように光梨には見えた。
そのまま、しばらく、可知子は遠くを、クラブ棟を囲む林の向こうを、漠然と見ていた。光梨も可知子と視線を同じくして、林の向こうを見た。林の先は開かれ、運動場になっている。皓く眩しい陽光の中、陸上部だろうか、走りこみや高飛びをしている。それはまさに生命を謳歌して、その輝きに満ちていた。
ややあって、可知子はおもむろに口を開く。視線は林の向こうに向けられたままだった。
「達磨が面壁して座禅をしていた。雪の降りしきる中、弟子の慧可が自分の肘を切り落として言った」
可知子は、光梨に向けてでもなく、淡々と語る。光梨は可知子の唐突な話に、僅かに戸惑ったが、可知子が光梨に向けるでもなくこうして話をすることは今までもあったことであった。
「『私の心は不安なので、安心させて欲しい』。達磨はこう言った。『心をここに持ってくるがいい。お前を安心させてやろう』。慧可は言った。『心を探し求めたが、どうしても掴めません』。達磨はこう答えた。『ほら、お前のためにもう安心させてしまったぞ』」
可知子は話を終え、また沈黙した。光梨には、可知子の話が何なのか、わからなかった。 しばらく沈黙した後、可知子は制服のポケットから電話を取り出す。そのまま左手で操ると電話をかけた。可知子が「津川」と呼んでいたので、恐らく通話先は運転手の津川氏なのだろうと光梨にも容易に推測できた。短い通話を終えると、可知子は電話をしまい、光梨の方を向いた。その表情は、目の腫れが目立ちはしたが、穏やかなものだった。
「津川を呼んだわ。十数分で来るそうよ。もう今日は帰るわ」
「はい、可知子様」
光梨の応えに可知子は満足したような表情を浮かべる。そして再び遠くの運動場に視線を戻す。光梨もまた、可知子に倣って運動場へと視線を見つめる。運動場の皓い輝きは、木陰に佇む自分たちと、ひどく遠い世界のことのように思えた。光梨は可知子の言葉を待ったが、可知子は何も口にしなかった。風が吹き、木々の枝葉がそよぐ。六月とはいえまだ夏にはなっていなかった。木漏れ日は穏やかで、銀色に燃え上がる夏のそれには至っていない。そこは平和な世界であった。可知子様は充足しているのであろうか? 光梨は思った。あれだけ冷たく昏い、遠い星々に思いを馳せる可知子と、今こうして緑溢れる光景に溶け込んでいる可知子と、どちらがより可知子の本質なのであろうか。肘を切り落とした可知子はいったい安心したのであろうか。光梨はぼんやりと思ったが、特別考える気にもならなかった。
十数分後、可知子に津川から電話が入った。光梨は可知子の指示に従って車椅子を押し、学校のロータリーへと向かった。
 




