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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
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 応接室の前にたどり着くと、可知子は扉をノックするよう光梨に指示した。光梨が扉をノックすると、歳を重ねた声の女性が応答した。光梨は扉を開けた。部屋の中央に暗褐色の木製の卓があり、それに差し向かってソファに一人ずつ男女が座している。その少し後ろに、ソファを挟むように両横に一人ずつ女性が立っている。光梨は両側に立っている女性についてはすぐにわかった。右側にいるのが光梨の学級の担任である小此木聡美、左側が地学部顧問の鈴木文子。ソファに座っているのは、右側が白髪交じりの初老の女性で、左側は光梨の知らない中年の男性である。右側の女性は落ち着いた品のある身なりをしている。光梨は彼女が誰か、記憶を探り思い出す。冥志舘女子高等科科長の、佐竹先生である。男性の方は、見かけたことがあるようにも思えたが、記憶は曖昧だ。恐らく全員がこの学校の教師であろう。彼らは姿勢よく光梨と可知子を待っていた。光梨と可知子の姿を認めると、佐竹が口を開いた。

「ごきげんよう、深井さん、国分さん。取り敢えずお入りなさい」

「ごきげんよう」

「ごきげん、よう、」

 可知子は滑らかに答えたが、光梨は幾分緊張した。光梨はどうしたらいいのか、自己を失いかけたが、僅かな思考の後、卓を挟んで四人の教員の前に空けられたスペースに可知子の車椅子を押し進めた。ごく短い逡巡の後、車椅子をそのままに扉の方へと向かう。半ばは扉を閉めるためであり、半ばはそのままこの部屋を立ち去るためであった。いったい自分がこの部屋にいてよいのか、あるいはいなければならないのか、わかっていなかった。

「国分さんも同席なさい」

 科長の佐竹は柔らかな、だが強制力を持った芯のある語調で告げた。

「はい」

 光梨は応えると、扉を閉めて可知子の傍らへと戻った。光梨が戻るのを確認すると、佐竹は落ち着いた声で口にしはじめる。

「深井さん。細かいお話の方はもう既にご両親と合わせてしていますので、特にここで新しくお話することはありません。私達としても、あなたの、できるだけ長く学校生活を送りたい、という思いに可能な限り応えたいと思っています。できる限り応援したいと思っています。ただこの学校は、新築の校舎などはバリアフリー化していますが、車椅子での学校生活を前提にはしていません。ある程度不自由をかけるかとは思います。それから、」

 佐竹は視線を光梨へと移した。光梨はたじろいだ。何があるというのだろう。佐竹の視線は柔和とはいえず、光梨は妙に責められているような気がしていた。

「国分さん。深井さんのご家族とのお話の中で、あなたがボランティアとして深井さんに付き添う、と聞きました。ここで改めて聞くのも後からの話ではあるのですが、そうなのですね?」

 光梨はゆっくりと頷いた。

「はい、私がその、ボランティアとして、可知子様の、いえ、付き添いをさせて頂いています」

 光梨は「付き従う」と口にしようとしたが、それはどこか直感で正答ではないとわかっていたので、そうは答えなかった。

「そうですか。ただ、」

 佐竹は小此木に目配せした。

「小此木先生と、鈴木先生から少し聞いたのですが、国分さん。あなたの深井さんを輔けようという姿勢は立派だと思うのですが、『付き添い』などというものではなく、こういう言い方をしたくはないのですが、ほとんど『召使』に近いものがある、とも聞きました。光梨さん。光梨さんはあくまで自主的に付き添っているのですね?」

「はい、そうです。そうなんです」

 光梨は何度も頷く。

「深井さんも。決して彼女を使用人のように使うというようなことはないのですね?」

 それまで静かにしていた可知子が口を開く。

「ええ、科長先生。光梨さんはあくまで善意で私に世話をして頂いているのですわ。そう、ボランティア、そのとおりです」

 可知子は表情も平静なままそう答える。

「深井さん。実のところ小此木先生と鈴木先生から心配の声を聞いているのです。国分さんがあなたにのめりこみ過ぎて周囲との関係を絶っているのではないか、孤立しているのではないかと。一部の生徒が国分さんを誹謗しているという話も聞きます」

 そう言って佐竹は光梨に視線を移す。その視線は、柔和な空気をまといながらも、鋭いものであった。

「いえ、何も、問題ないです。その、あまり他の人と喋らないのは元からですし、とにかく、大丈夫です。はい」

 光梨は半ば佐竹に責められているようにも思え、視線を床に落とし、彷徨わせる。声も、その語調は弱かった。光梨はやはりこの部屋の空気がどこか冷たく、自分の体温が奪われつつあるように思えてきた。

「科長先生。まるで私や光梨に問題があるとも聞こえるようなおっしゃいようですが、もしその一部生徒の誹謗とやらが真実であるのなら、まずはその一部生徒とやらを責めるべきではありませんか」

 可知子は澱みない語調で口にする。佐竹もこれに僅かながら鼻白んだように見えた。

「深井君。慥かに君の言いようは正論だ。だが人間関係というのは単純に悪い方を罰すればそれでよいというわけではないだろう。君と、国分君、君たちの有り様だってそれは無関係ではないだろう」

 ここにきて口を開いたのは唯一の男性である、可知子の学級担任である後藤であった。佐竹は右手を僅かに挙げ、後藤を制する。

「国分さんが深井さんの世話をする事自体に問題があるというわけではないの。ただ、深井さん。国分さんは国分さんの学校生活というものがあるべきです。あなたにはその」

「いえ! いえ、あの、大丈夫です、私は。本当に、好きでやっているだけですし、何も、何も問題なんて、ないですから」

 佐竹の言葉に思わず光梨は割り込んだ。ここで干渉を許せば、自分と可知子との世界が侵されてしまう。担任であろうが科長であろうが、自分と可知子との腐敗の花園に土足で上がられることは阻止しなければならない。

「わかりました。何も私達もあなた方の関係についてそこまで干渉したりはしません。ただ、特に国分さん。深井さんにつきっきりで、視野を狭めたりしないようにしてください。あなたの学校生活は今後三年に亘ってあなたのものですから。それを大切にしてください。深井さんも、それについて十分留意してください。一部生徒の誹謗中傷については私たちとしても何かしら措置は取ります。深井さんのことは今日の昼礼で改めてお話します」

 光梨にはそれは不満に思えた。可知子との腐敗の花園に乱入されるような、あるいは覗き見されるような、いや、もっといってしまえば破壊されるような危機を感じた。それはひどく冷たく惨めなことに思えた。竹中絵里のような敵対する存在は却って花園に堅牢な垣根を巡らせる力となるが、学校の側による温情はそれよりも残酷な形で花園を侵襲し、踏み躙るに違いない。

「とにかく国分さん。このことで視野を狭くしないでください。あなたは三年間この学校で暮らしていくのですから」

 光梨は黙って頷いた。光梨にとってこの温情の言葉は、可知子の命がその三年間に届かないという事実を却ってくっきりと浮き上がらせて、残酷なものとなった。


 その日の昼休憩の時間、早速昼礼が行われた。可知子も光梨も参加しなかった。可知子は参加を求められていたが、痛みを理由に参加を拒んだ。それは偽りであったが、教師たちも強いることはできなかった。昼礼の間二人はいつもの分割教室で食事をしていた。窓を開けていると、遠くから昼礼に集まった生徒たちの発する音が伝わってくる。右手を失った可知子は左手を不器用に使って食事をしていた。光梨は可知子に手伝いを申し出たが、この程度は自分でやると可知子は断った。

 やがて昼礼での音声が校舎のスピーカーにも流れてくる。可知子の症状のこと、それが不治の病であること。そして一人の生徒が可知子の世話をボランティアとして行っていること、このことについて生徒たちにも理解するように、との話がなされた。

 可知子は、どうせならあと数ヶ月で死にますって言えばいいのに、などと口にしたが、光梨にとってもそれは残酷な言葉であった。悄然とした光梨に、しかし可知子はむしろ笑いすら見せた。加えてこれで竹中絵里あたりがうるさく言うこともないだろう、と可知子は口にしたが、光梨にとってそれは既に心底どうでもいいことであった。


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