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腐肉の女王  作者: 資治通鑑
13/28

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 その日、帰ると可知子からメールが届いた。少しの間入院すると書かれていた。今までも可知子が検査入院をしたことはあったが、いつも退院日も明記されていた。だがそのメールに記載はなかった。光梨は案じた。あの膿を吸い取る行為が不適切ではなかったのであろうかと。そして幾らかの自己嫌悪を覚えた。それは自身が最初に可知子の容態をではなく、自らの行為について案じたことに対して。光梨は無事の退院を祈るメールを返した。可知子は、病院は暇であるといってその後も頻繁にメールが送られた。

 学校では、光梨にとっての教室の温度は日々着実に下がっていった。同級生たちが光梨を見る時、その目には何かしらの困惑、疑わしさ、そして微かな嫌悪の色が浮かんでいた。合唱部のことがあってから、綾音は光梨にほぼ毎日挨拶を交わすくらいにはなったのだが、もはや綾音の挨拶に積極性はなく、どことなく避けるようにすらなっていた。絵里は光梨と可知子との関係を知って以来、「とても形式的な」挨拶しかしてこなかったが、今ではあからさまに「意思を込めて」無視するようになっていた。礼子と郁美は今までと同じように光梨と接していたが、だが言葉の端々が僅かな不自然さによって綻びをみせていた。


 可知子の入院は長引いていた。メールにはまた身体を削らないといけない、と書かれていた。光梨は熱く重い瞳でそのメールを読んだ。文字通りに胸が締め付けられる思いがした。光梨の母は光梨が幼い頃に泉下に没しているのだが、光梨にはその記憶は全くない。可知子は、どういう思いでいるのであろうか。光梨は恐ろしさを感じた。自分の身体がなくなっていく。まずその事自体の恐ろしさを感じた。可知子様は怖くはないのであろうか。光梨にはそれが見えなかった。可知子はそれを受け入れているようにも思える。その一方時折自嘲を見せたりもする。だが恐怖や悲嘆を、その僅かな表情にすら見せたことがないように、光梨には思えた。


 可知子のいない光梨の学園生活は以前にも増して貧しいものになっていた。話をするのは礼子と郁美だけ。そして光梨は彼女らとの会話に、これまで以上に積極的にならなかった。光梨にとって学校とは可知子との場所であり、そこに彼女らの存在を要求しなかった。光梨の反応は冷淡とすらいえるものに近づいていった。やがてその会話自体の頻度も漸減していった。昼食も、光梨は教室の温度の冷たさに耐えかね、可知子はいないのに可知子に割り当てられた分割教室で食べていた。

 その日も分割教室で食事を終えると、光梨は教室には帰らず、校舎を出て図書館へと向かった。教室の冷えた空気には耐え難かったからだ。とはいえ、目的もなく図書館に来てしまったので、どのような本を探したものか、しばらく迷った。

 一応地学部員であるのだし、天体に関する本でも探そうと思い、光梨は棚の迷路を彷徨った。冥志舘の図書館は、光梨の印象としては区立の図書館よりも充実しているようにみえた。光梨の通っていた中学校の図書室などは、これに比べたらコンビニエンスストアのようなものに思える。光梨は「440天文学、宇宙科学」の棚にたどり着く。時間の経過で紙自体も、それを補強するためのセロファンテープも黄ばんだ専門書から、新書サイズの本まで並んでいる。どれも一様にではないにしても古びていたし、それに光梨の好奇心を惹起するようなタイトルの本もあまりないようであった。だが、光梨の本を探す目の運動は中途で止まった。「可知子」という言葉が耳に入ったからだ。光梨は耳を澄ました。

「本当らしいわよ。その子、可知子さんの傷を舐めていたとか」

「あの傷に?! あれって、あの、腐っているって」

「私が聞いたのだと、その子、あの傷に恍惚な表情でキスしていたって」

 会話をしている生徒たちが僅かに響動く。無論図書館であったから微かに声をあげただけなのだが、図書館の静謐の中でそれは幾らか目立った。彼女らは更に声を潜めて会話を続けている。音量が下がり光梨にはもはや聞き取れない。それに光梨にとってその続きなど聞きたくもないことであった。見られて、いたのであろうか。いや、そうなのだろう。光梨の身体の表面に、冷たい異物めいた汗が流れる。自分が立っている場所は瞬時にして底のない暗黒の泥濘の只中と化す。冷たい水が臓物に溜まり、重石となって光梨をその泥濘に引きずりこもうとする。いや、だからどうしたというのか。光梨の心の中に闇が滲む。違う。そうだ。もう、ここは、遠く離れた場所なのだ。海王星軌道のその更に遠く。無限の闇の中、自分と可知子様だけがいる。冥王星と、その伴星カロンのように。自分は可知子様にお仕えできてそれだけで幸福なのだ。自分と可知子様、それだけが世界の構成物なのだ。他の世界などいらない。いらないのだ。あの永遠の闇の中で私達は踊っている。どこまでも、どこまでも暗くても。ようやく二人になれたのだ。


 光梨は図書館を出ると怠惰な歩調で歩き出した。僅かな風は湿気を孕んでいる。初夏の太陽は幾らか凶暴で、その銀色の光線は光梨の観念を侵襲する。光梨は苛立った。光梨の意識の中に、微かに、陽光への、昼への憎悪が萌芽しつつあった。光梨は芝地に花の咲いているのを見つけた。黄色い、小さな、名前もわからない花だ。雑草なのであろう。光梨は20cmばかり茎の伸びているのを掴み、ちぎった。花びらを全部かきむしり、最後に残った萼と茎を親指の爪で摘むと、ちぎった。草いきれがする。光梨は裁断した花の屑を肩越しに捨てた。草いきれにまた苛立った。


 花を蹂躙し青臭くなった手を洗って、光梨は教室へと向かった。あと少しで教室のドア、というところで教室から響動めきが上がった。驚嘆でもなく、歓喜でもなく、悲嘆でもない。困惑、であろうか。続けて聞こえてくる言葉には、困惑に加えて何かを貶下するような色が表れていた。

「本当なの?」

 教室の中にいる誰かが訊いた。

「ほんとだって。うちの副部長がドアの窓から見たんだって。あの光梨さんが可知子様の傷口に、腐った部分にキスしていたんだって。なんか、もう表情がイッちゃってたって言ってたよ。あれはヤバイって」

「絵里さん、ちょっと言い過ぎではない?」

 別の誰かが口にした。

「ああ、うん、でもほんと、そうなんだって。ちょっとなんていうか、考えられないじゃん。私も驚いちゃって」

 他の生徒達はなおも何かしら口にし、嘆じている。それらは互いの声を打ち消し合って光梨にはぼんやりとしか聞こえない。光梨は脳天から冷水を零されていた。雨の中傘もなく惨めに立っている自分を感じた。だけれど。光梨の奥底に再び闇が滲む。関係ない。彼女らなど関係ない。ここは、この世界は、私と可知子様だけのための世界なのだ。光梨は歩を進める。最初の一歩はやや機械的に。だが続く歩は歩むたびに軽くなるように思える。光梨は教室へと入った。絵里を囲んでいた生徒たちが響動めく。視線を光梨に向ける。だが光梨を真に見ようとした生徒は一人もいなかった。

 光梨は生徒たちの、同級生たちの中に幾らか慣れ親しんだ顔を見つけた。綾音だ。瞬間、綾音は目をそらした。俯いて床を見つめている。馬鹿馬鹿しい。光梨は思った。

 もう、世界は書き換わったのだ。私は勝った。光梨は自分の席へと歩み、座った。


 可知子の入院が長引くここ数日を、光梨は暗い影となって過ごしていた。光梨の世界に色彩はなく、世界は白と黒のみで構成されていた。やがて梅雨入りが発表され、暗鬱な曇天の日も多くなった。光梨の世界は灰色と黒のみで構成されるようになっていった。

 教室で光梨に挨拶をするのは礼子と郁美だけになっていた。それ以外の生徒は、光梨に対して疑わしい眼差しを遠巻きに向けるか、不自然に視線をそらすか、だった。もう一人例外はいた。絵里は今までと違い、侮蔑の意思をその眼差しに込めて、敢えて光梨に目を向けた。光梨はそれに気づくとできるだけ自分のほうから視線をそらせた。自分のほうから目をそらすことが意思の表れにもなる。

 地学部の方はまだよい状態であった。雪子は文句の余地がないほど公正で誠実であったし、涼子は光梨にも積極的に声をかけてくれた。絵里と秋子は光梨に対して明らかに敬意を払っていなかったが、しかし雪子と涼子との協調の下、少なくとも表面上は宥和的な態度で光梨に接していた。光梨は、雪子と涼子に対しては自然と親近感を覚えていた。部活以外の時間でも、校舎ですれ違えば挨拶をしてくれたし、部活外でも時折メールをくれた。それに地学部は可知子の場所でもあるという意識もあったので、光梨は地学部自体には好意的な感情を抱いていた。教室を喪失した光梨には、自分の寄る辺と思えていた。

 可知子とのメールは、他愛もないものが多かった。病院生活での不満が多かった。しかし時として芸術論や哲学的な話題が挟まれることがあった。光梨は入院前にもそのようなメールを受け取ったことがある。その時は理解してもいないのに同意したような曖昧な返答を送り、可知子を怒らせた。可知子によれば、そのような知ったかぶりは相手に対しての知的な誠意を欠いたものだという。爾来、光梨は出てきた言葉であれ内容であれ、わからないことのある内容のメールには、その旨を記するようになった。可知子は時に呆れたというような文言もつけてきたが、概ね丁寧にその説明をしてくれた。だが、可知子は、病状それ自体について、一度もメールに記したことがなかった。光梨は奇妙に思う以前に、その事自体が当然のことであるように認識してしまった。

 だが、こうして可知子とメールのやり取りをしていても、光梨は何か奇妙な物足りなさを感じていた。それが何なのか、光梨の意識に出てきそうで出てこなかった。それは身体に丸く空いた虚無の空間となり、光梨にしてみればなにか釈然としなかった。やがて光梨は気づいた。臭いだと。もう、しばらく可知子様の臭いと共にしていない。光梨は、自分の身体に空いたがらんどうの穴に、冷たい水が零れ落ち、そのまま消えていくのを感じた。


 時間は昼休みも後半で、教室には学級の半分程度の生徒たちがいた。雨が降っていた。硝子窓はもはや雨粒に無抵抗で、次々と振りかかる雨粒は硝子面に無秩序に散りかかっていた。雨音は教室の硝子窓を隔ててくぐもった響きをしている。その響きは僅かに深く、光梨はどこか精神を蚕食されるように感じた。生徒たちは何人かで集まり歓談しているものもいれば、光梨と同じく一人机の上の本や書面に目を通しているものもいる。歓談している生徒たちからは、時折笑いや好奇が泡となってはじけていた。だがそれらは光梨に向けられたものではない。光梨に注目するものは誰もいない。光梨は普通の一生徒らしく振舞おうと、机から次の授業の教材を取り出してそれを広げる。……こうしてヘイスティングスの戦いに勝利したノルマンディー公ギョーム2世は、イングランド王ウィリアム1世として即位した。即位後ウィリアムは旧支配層のサクソン人貴族を追放し、ノルマン人を領主の座につけた。彼は征服したイングランドの土地を把握するために土地台帳である「ドゥームズデイ・ブック」を作成させた。ウィリアムはあくまでノルマンディー公ギョームとしてイングランドという海外領土を得

「光梨さん」

 礼子の声がした。光梨は二人の人間が間近にいるのを察知した。ゆっくり、心情としてゆっくり、頭を上げる。いつもの二人か。光梨は心の中で溜息をついた。一体何の用があるというのだ。この二人は。少なくとも自分にはこの二人に用はない。光梨は二人の言葉を待った。

「あの、地学部のこと、なのだけれど」

 郁美は慎重に口にした。だがその慎重さは却って光梨の心にささくれとなる。

「なんだというの」

 光梨の言葉には明らかな刺があった。それは光梨も自覚していた。一方で光梨は、内心で今の自分の言葉が可知子の口調に似ている、などと楽しさを覚えてもいた。

「噂、噂になっているじゃない、あなたと、可知子様のこと」

 郁美は悄然とした面持ちで口にする。礼子も似たような表情である。二人の陰気な顔を見ていると、光梨の心に黴が生えてくる。

「事実かどうかは問わないわ。でも、光梨さん、」

 礼子は顔に真剣さを増し、多分に深刻さも加えて、一度息をついた。光梨は少し残念な気分になった。自分と可知子との秘儀のことを訊かれないのか、と。光梨はその希望が叶えられない段になって、どれだけその希望が大きいのかを自覚した。あの特別な時間を誰かに自慢したいということを。光梨は自分のその希望にうんざりもしたが、納得もした。

「光梨さん、可知子様と、あの方とどこまで付きあおうというの? それは、あの方は、あの方の不羈は私達が知っている限りでも尊敬できるものだと思うわ。だけれど、あなたは可知子様の従者というわけではないのよ? 一人の生徒として付き合うのなら」

 光梨は机に広げられていた世界史の教科書を叩きつけて閉じた。その音は教室全体を震わせた。教室は一瞬で静まった。そしてすべての視線は光梨へと収束した。光梨の頭の中は白い光で焼き付いていた。光梨は今や舞台の上にいた。光梨は、自分が国分光梨を演じる女優であるという予感を持った。瞬間、光梨の中に言葉が湧いてきた。光梨は脳髄が光に包まれ、痺れるのを感じた。

「だからなんだというの。あなた達には関係ないでしょ」

 光梨は瞋恚をもって二人を見つめた。礼子は半ば口を開いて呆けた表情をしていた。郁美は驚愕を面に示し僅かに後ずさった。光梨は大きく、だが浅く、息をついた。教室にいる全ての生徒も二人と同じような表情をしている。光梨にとってそれはどうでもよいことであった。彼女らは観客にすぎない。

「光梨さん、私は、その、心配で、」

 態勢を立て直しつつあった礼子は、なんとか言葉をひねり出そうとしていた。それも今の光梨にとって適切な、怒りに触れないような言葉を選びつつの綱渡りであった。

「光梨さん、私達は、何も、可知子様との付き合いをやめろ、だなんて言うつもりはないのよ、だけど、その付き合い方っていう」

「あなた達に私達の何がわかるというのよ!」

 光梨は両掌を机に叩きつけ、腰を浮かせた。今度は教室に波が走った。既に光梨に注目していた同級生たちの驚愕は、光梨の言葉によって確実なものとなった。そこには暴力があるのだと。光梨はもはや楽しくなっていた。自分がこうして国分光梨を演じているのも、学級の中で最後に残された自分の人間関係を自分で微塵に破壊するのも楽しい。何故こんなに楽しいのわからなかったが、破壊という行為は楽しいことだった。

「光梨さん、」

「落ち着いて頂戴」

 二人は両手を軽く挙げる。興奮した人間、いやむしろ動物をなだめようとする時の動きだ。そうか、私は狂犬か何かか。光梨の中にそんな自嘲が浮かんだ。

「とにかくもう構わないで」

 光梨は冷たく口にした。二人は何か言おうと口を動かし互いに目配せした。光梨は腰を下ろして二人に構わず座ると、両肘を抱え込んで腕を机の上に組む。そして視線を深く斜め下に落とし、緘黙した。二人はなおも何かしら言葉を探して視線を交わした。だが光梨のあまりに頑なな姿勢に、静かに光梨の席から離れた。教室にいた生徒たちも、再びそれ以前と同じよう、雑談なり読書なりに戻りつつあった。もちろん光梨たち三人の事件は彼女らの記憶に刻まれているだろうし、今この瞬間も雑談の種になっているのかもしれない。だが光梨はそれに対して目も耳も閉ざすことにした。自分にとって世界とは自分と可知子様とだけで構成されていればいい。光梨は可知子の言っていた「全世界は私を養うためにある」という言葉を思い出し、その認識を強化した。ただ、礼子と郁美が再度光梨に何も問いかけてくれなかったことが、光梨の心の中にひっかかっていた。そして、その考えに、自己嫌悪をも覚えた。自分は「あの」礼子と郁美に構ってもらいたかったのであろうか? それはそう思うにせよ欲するにせよ光梨にとっては惨めなことと思えた。

 それから光梨にとって、教室は冷たく黴臭い爬虫類か何かの飼育箱になった。

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