12
放課後、光梨は可知子の元へと向かい、同伴して地学部部室へと向かった。教室では冷たい目線に晒されていたが、可知子と共にいると光梨は強くなることができるし、何より喜びを感じることができた。僅か前まで光梨は零下の世界にいた。だが可知子を前にして氷はゆるんだ。世界は息を吹き込まれ、動き出した。今や全ては眩しい光に満ちている。可知子の声が光梨の奥底に風を送り、心を熾らせる。可知子の臭いが光梨を勇気づける。
午後の部室はニスで塗り固められ全てが静止していた。誰もいない。宙に舞う埃すらも止まっている。だがそれも一瞬であった。可知子は真っ先に室内に進み出るや部室の窓を開放した。温んで眠りについていた部屋の空気が目を覚ます。可知子はそのまま部屋の奥にあるPCの電源を入れると、その前に置かれていたパイプ椅子に腰掛けた。光梨は前に進んだ。このまま茫としていては可知子様の叱責を受けるであろう。
光梨は可知子の傍らに立つ。可知子は左手で椅子の一つを指さした。光梨はそれに座る。可知子は光梨に目線を送ることなくモニタを漠然と眺めている。光梨はただ可知子を待った。彼女の言葉を、視線を、待った。だから、光梨は何もしなかった。
短い電子的なメロディが流れて、PCが立ち上がる。ようやく可知子はモニタを見る。光梨もモニタを見る。可知子はマウスを動かしブラウザを起動する。幾つかタブを示すと音楽が流れる。トリスタンとイゾルデ、第一幕への前奏曲。陰鬱な旋律が静かに流れてくる。重なる和音もまた仄暗い。光梨は曲名を知らなかったが、その調べに、どこか底の知れない不安を感じた。
「ヴァーグナは」
可知子は、画面を目にしたままつぶやく。
「夜を知っていたのだわ。母達の国を」
光梨にはその言葉の意味がわからなかった。ヴァーグナというのがおそらくこの楽曲の作曲者なのであろうこと、それくらいしかわからなかった。画面を見つめる可知子の瞳には何か愁いの色が見えた。
可知子は幾らか沈黙した後、机の上の本を指さした。
「光梨。その本を取って頂戴」
可知子が指し示したのは、大判の、惑星や衛星の図像が表紙の写真集であった。光梨は手に取るとそのまま可知子に本を渡す。
「光梨。人にものを差し出すときは方向に注意なさい」
光梨は手を泳がせる。光梨が差し出した写真集はしっかりと光梨の方に正面が向いていた。光梨は慌てて口にする。
「すみません」
手に汗握りながら光梨は本を持ち直した。可知子は納得したような顔をしてそれを受け取る。可知子は机の角に立てかけて本を広げる。全くの黒い背景に、青い、半月の球体が浮かび上がっている。横には「海王星」と大きく白い明朝体で書かれている。可知子はすぐにページをめくった。やはり全くの黒い背景に、白く円弧が、大小二つ浮かんでいる。可知子は吐息する。光梨は可知子の見ているその写真に注視する。写された黒はあまりに深く、残された僅かな円弧も飲み込みそうで、その存在感が光梨には恐ろしく思えた。更に今鳴り響いている暗鬱な旋律が光梨をこの黒の深さに絡みとろうとしてくる。心の芯までその黒が染み渡るその一歩手前、可知子はページをめくる。光梨は僅かに安堵した。だがその安堵はすぐに打ち破られる。めくった先にあったのは、灰褐色の半月だった。衛星トリトン。半月の外側は全てあの黒色で塗りつぶされていて、灰褐色の月だけが半分姿を表している。それは光梨の知っている月ではない。その半分はマスクメロンのような凹凸が網目状になっている。光梨は可知子の膿んだ傷跡を連想した。ここで旋律は突如として甘くなった。それは光梨という存在を溶かして膿と傷とに癒着させる感覚をもたらした。先程の海王星の写真よりも光梨の心は不安になった。だが、それでもひどく甘かった。
「不気味よね」
可知子の突然の言葉に、光梨は息を呑んだ。自分の思考がすっかり読まれているのではないか、そう思い、恐ろしさに縮こまる。
「宇宙の深淵の彼方、絶対零度の闇の中。太陽の光も僅かな中にこんな星が浮いている。絶対的な孤独。絶望的な孤独。怖いわ。でも、惹かれるの。心がね。怖いのに安らぐの」
可知子は愛おしい、というように右手でトリトンの円弧をなぞる。光梨は僅かに可知子の表情を窺う。光梨は、可知子の目に憧憬の焔を見た。それは背景で鳴り響く音楽の甘さと実に合致した。
「本当、こんなものが浮いているだなんて。気持ち悪いのに、そう、ね。この深遠の向こうに行きたいと思う私がいる。そこが、なにもないそこが、懐かしい」
可知子はトリトンを眺めつつ手を組む。光梨には、その闇はただただ恐ろしく思えた。トリトンの表面は可知子の傷跡を連想させた。そう、そういう意味では。そういう意味では、このトリトンを光梨は好きになれそうな気がする。こうして眺めている今も、惹かれつつあるように思える。絶対的孤独のその存在が、可知子の姿に重なるように思えてくる。
「光梨」
光梨は可知子の言葉に驚き、軽く息を呑む。光梨の視界がぶれる。トリトンの背景の闇だけが視界にのっぺりと貼り付く。旋律はまた更に陰鬱さを伴って重なり、光梨はその闇と自分の存在とが癒着する感覚すら覚えた。
「今日はなんだか浮かない顔をしていたわ」
可知子は右腕を机に載せ、身体を引いて光梨を見据える。光梨もまた可知子の方へと向こうとする。だが、可知子の顔を見据える意気はなかった。
「そんなことは、ない、です」
「嘘仰い」
光梨の歯切れの悪いとしか形容できない口調に可知子が畳み掛ける。光梨は何か申し訳ないような気になり、視線を落とす。可知子はまっすぐ光梨を見ている。光梨には俯いていることすら責められているようにも思えた。それでも可知子の視線が恐ろしかった。光梨は言葉を探した。何か、自分の面に出ているであろう表情を正当化するのに適した言葉を探した。だが、それは語彙力以前の問題として思いつかなかった。
「何か言われた? 竹中絵里あたり?」
可知子は目を細める。
「同じクラスだそうじゃない」
光梨の頭からは何の言葉も出てこない。部屋の空気はただ流れる暗鬱な音色に塗りたくられていた。僅かに時間が過ぎ、可知子が長く吐息する。
「『全世界は私を養うためにある』という言葉があるわ」
可知子の声音が変わる。光梨はゆっくりと面を上げる。可知子の視線は、先程より幾らか穏やかになっているように思えた。
「私にこの言葉を教えてくれたのは臨済宗の坊主で、坊主なのに禅語ではなくギリシア哲学を薦めてきたのよ。テーバイのクラテスの言葉。私はそれを聞いて、思ったの。もう、私はしばらくで死ぬのだから、自分勝手に生きてやろうと。死後に世界は存在しない。私が死んだ後どうなろうか知ったことじゃないわ。だから、あなたがどうなろうと私は何の考慮もしない。だけど、私が生きている間は、あなたはこの深井可知子の従者よ。それがみっともない顔などしているものではないわ。いつでも前を向いて顔を上げていなさい」
「はい」
光梨はそう応え、続けて「すみません」と言いそうになり、口をつぐんだ。可知子はまっすぐ光梨を見ている。光梨は可知子をなるべく見ようとした。油断すると視線が振れて逃げそうになるのを、必死に戻しつつ、可知子を見つめた。
やがて可知子は満足したのか、納得したのか、再び身体を元に戻す。写真集を再び広げる。可知子がページをめくると、白いフォントで「冥王星」と書かれている。そこには、ハッブル天文台の成果である白黒の粒子の荒い画像や、冥王星の想像図が載っている。光梨の心は幾分落ち着いていた。
「あの時」
可知子が、本を見つめたまま口を開く。
「あの時の絵はこの本には載っていないのだけれど。あれは、本当に不気味だったわ」
「はい」
可知子の言う「あの時」とは、先日プラネタリウムに行った時のことだ。「あれ」とは探査機「ニューホライズンズ」の送ってきた冥王星の映像のことだろう。
「本当、気の遠くなるような暗黒。照らされる半球すら暗い。そしてあの色合い。赤茶けた地表。あんなものが絶対の闇に一人浮かんでいる」
光梨は可知子の言葉の意味に気づく。可知子はそこに自らの死を見ているのだ。可知子は海王星、トリトン、それに冥王星をはじめとする海王星以遠天体について好んで調べることが多かった。それらの記事や画像を眺めている時、可知子の瞳に輝きが灯るのを光梨は気づくようになっていた。それが何故なのか、光梨には今までわからなかった。だが、今ならわかる。可知子の死への憧れを。抑えめに流れる旋律は、だが今や確実に心の底から憧憬を滲み出させようとしていた。
「できるものなら、自由浮遊惑星の画像も見てみたかったわ。こちらの方は、それこそ数百年しないと見られないでしょうけれど」
「可知子様!」
光梨の口から唐突に言葉が出る。可知子は驚いた様子で光梨を見た。光梨もまた自身の声の突然さに驚きを感じていた。
「どうしたの? 大声を出して」
「あ、いえ」
光梨の脳裏はマグネシウムの光で焼き付いていた。光梨は、何も考えておらず、なおかつ何も思いつかなかった。ただ、可知子に何かを伝えたくて、可知子の名を呼んでしまった。光梨は、ゆっくり息をした。不安な旋律に光梨の心は虫ピンで宙に止められた。
「なんでも、ないです」
そう言って光梨は僅かに目を伏せた。可知子は、光梨を見ていたが、軽く嘆息すると顎に右手を添えて思案するふうな態度を取る。何か思いついたような面を見せると今度は軽く腕を組み、光梨を値踏みするように眺める。光梨の顔には熱が溜まっていく。微かに涙すら滲んできているように思えた。音楽は甘さと不安さを交互に重ねていき、光梨は自分の今こうして立っている存在に自信を持てなくなっていた。
しばらく光梨は可知子の視線に晒されていた。やがて可知子は、右手の手袋のボタンを外す。光梨は不意をつかれた。光梨は注目した。一体何が起こるのか。可知子は左手の指を手袋に差し挟むと、白手袋を脱ぐ。光梨は微かに息を漏らす。途中まで脱げた手袋は、小指と薬指の部分が錘でも入っているように垂れ下がっていた。手袋の下に見えている右手は、包帯に覆われている。光梨は脳をかき混ぜられていた。可知子の隠されていた秘密が、何の予告もなく、今眼の前で暴かれている。耳から入る旋律は甘さを増しているのに、腐敗した肉の臭いと膿の臭いは強くなっていく。手袋が外れる。それは重い小指と薬指から、椅子に座す可知子の腿に落ちた。可知子の右手の、小指と薬指があるべき部分。そこには、何もなかった。光梨は息を呑み、両の手を組む。可知子には小指と薬指がない。掌も幾らか欠落している。異形の手。三本指の手。包帯でくるまれた三本指の右手の切開面には、黄土色の染みが広がり、中央は黒ずんでいた。臭いが漂ってくる。光梨にはもう慣れつつあった臭い。だが、今や臭いは発生する元から直接伝わってくる。それは光梨の胸を満たし、瞬時に溢れ、胃を圧迫する。だというのに旋律は甘さを増し、光梨は押し寄せる空気の流れに乱打された。
「膿が破れてしまったわ」
可知子は自分の右手を見てつぶやく。光梨もまた可知子の右手を目にしていた。三本指の手。明白なる異形。あまりに大きな存在。あまりに明らかな異常。光梨の精神は沸騰しつつあった。異様な姿と黒い染みが、光梨の目の前につきつけられていた。それは深井可知子という存在そのものであった。光梨は、自分が可知子という人間と、もはや否応にも対峙しているのだと知らしめられた。国分光梨は深井可知子と確かに相対している。自分という世界は、隔てる壁も破壊され、可知子という存在と繋がろうとしている。耳から聴こえる不安定な音楽は国分光梨という存在と深井可知子という存在を歪め、融合させようとしていた。鳴り響くティンパニは光梨の心を直接震えさせ壊そうとしていた。
可知子は光梨に構わず包帯をほどきはじめる。包帯に包まれた肌の独特の匂いが漂う。膿の臭い、腐肉の臭いに入り混る。光梨には、ひどく甘い。光梨の身体の芯は熱を帯びはじめる。腹の底から滾々と熱い何かが湧き出てくる。それは蜜のように甘い。瞳に熱が籠る。いまや可知子の右手が露わになりつつある。光梨の中にはそれを見たいという欲求、それを見ることによって世界が変革されるという熱狂と、その変革によって自己の世界が崩壊することへの惑いとが潮となって渦巻いていた。可知子の内奥。可知子の中身。可知子の真なる姿。それが暴かれる。光梨の世界を構成する壁は破壊されつつあった。
現れたのは、赤く腫れ上がった手の甲であった。薄い皮膚は内側から膨れ、つるりとした表面を晒している。小指と薬指の切開面はガーゼで覆われていた。ガーゼは、元は白色であったものが、黄土色の膿に浸されている。切開面の中央からは赤と緑と茶色の混じった、黒く濁った粘液のようなものが中から染みだしている。光梨は息を呑みかけ、臭いに胃の中身を戻しそうになる。可知子の臭いは受け入れたつもりであったが、それでも胃が暴れる。それに、この傷口。光梨は自身に糾弾されていた。これは何かの間違いではないのか。いったい自分は何に関わっているのか。何故こんなところに自分はいるのか。光梨の世界は正面から叩き割られた。ただ不安定な旋律だけが世界を歪に繋げていた。
「また、削らないといけないわね」
可知子はつぶやくと、左手でガーゼの端をつまむ。光梨は心の中で叫んだ。待って欲しいと。だが言葉に上るよりも早く、可知子の左手が動く。汚れたガーゼが重々しくめくれていく。赤、黄色、緑、黒。そこには何の調和もない。ガーゼの剥がれる先から白い皮膚がだらりと垂れ下がる。手の中央の傷、そこは皮膚が歪な丸形に穿たれ、欠けていた。その中の肉は膨れあがり、濡れて光沢を帯びている。それは皮膚の質感と明らかに異なっていた。それはまさに、肉そのものだ。白い筋、赤い肉。可知子の内奥の肉。そして肉の先、傷の先端は黒ずみ澱んでいる。それは生物の色ですらない。光梨は心の中で叫び続けた。声を上げられない分、心の中で絶叫した。声を上げたい。だが、可知子様の前でそうすべきではない。光梨は、自制心という壁の間に押し潰されていた。
しかし、可知子は光梨に構うことなく、汚れたガーゼをゴミ箱に捨てた。そして鞄を目で探そうとし、光梨の存在を思い出す。
「光梨」
光梨は可知子の声が、もはや存在そのものが恐ろしく、だが声を無視するわけにも行かず、恐怖で圧倒され萎縮した目を、重いものを引きずるかのようにして可知子に向ける。
「なんて顔しているの」
可知子は軽く息をつく。光梨はようやく気がついたが、可知子は柔和な顔をしていた。穏やかで、温かい顔を見せていた。もう背後で鳴っている音楽に先程までの激しさはない。光梨の顔は火照って重くなる。可知子様に対して自分はなんという顔をしていたのであろうか。光梨は自分を憎みたく思った。その一方で、可知子の傷、ぬらりとした肉塊の像が頭の中に浮かんでくる。光梨は「真摯な献身」を顔に表そうとした。だが、肉の図像が表情を引きつらせる。光梨の顔は緊張する。
可知子は薄っすら目を細めた。僅かに、柔和さとは異なる笑顔を浮かべる。
「光梨、鞄の中から小さな白いケースを取り出して頂戴」
「はい」
可知子の命令に光梨は従う。光梨にとってその命令の明確さは救いであった。明確な命令こそが安心するに足るものであった。それは可知子相手に限らず、光梨の人生にとって恒にそうであった。他者の明確な命令は光梨の心に安寧と自由を与えてきた。光梨には、先程の可知子の柔和な顔の方が恐ろしかった。
光梨は可知子の鞄を開ける。可知子の鞄を覗き見するようで光梨の心は微かに熱くなったが、この行為が可知子の指示であるということが、それが義務であるということが、光梨の心を楽にさせた。光梨は白い樹脂製のケースを見つける。やや重さがある。光梨はそれを取り出すと机に置き、鞄を元に戻す。可知子はその間光梨に注目していた。鞄をもとに戻した光梨が、ケースを手にして可知子の方を向くと、可知子は頷いた。
「開けて頂戴」
光梨は僅かに不意を突かれたが、ケースを手元にすると、命令を遂行した。蓋を開けると、薬品の臭いが少し漂う。見ると、中には包帯やガーゼ、緑の十字が描かれた消毒液が入っているとおぼしき白い樹脂製の瓶などが入っている。
「ガーゼを取り替えたいのよ。いつもは保健室でやってもらっているのだけれど、今こうしてガーゼは捨ててすまったわけだし」
可知子の言葉に光梨は振り向くと緊張した面持ちでその言葉を聞き、自らの意見を口にした。
「でも、私、保健委員とかやったことないですし、消毒とか包帯の巻き方とか、」
「構わないわよ、仮にやってくれたらで。家に帰ったら巻き直させるわ」
光梨はそれでもためらい、唾を飲んだ。
「や、やはり保健の先生に見てもらったほうが、消毒とか、そのそういう医療行為っていうか、そういうのは、」
「私にこの傷を晒して歩けというの?」
可知子は目を細める。それは光梨を責める故ではなく、愉悦の故であった。だが光梨には余裕もなく、ただうろたえ、返答すべき言葉を失うばかりであった。音楽は静まり、光梨を突き動かす力にならなかった。
「だから仮に巻いておいてくれたらいいのよ。消毒なんて、そもそも期待なんかしていないわ。病気の進行が止まるわけではないもの。だけれど私はこの傷を晒すなどということを選択したくはないわ」
可知子の瞳には先ほどと替わってむしろ絶対的な決断の色が表れていた。光梨もそれを確認し、観念した。ここで可知子様の意を受けないことは侮辱的ですらあると。
「わかり、ました、やります」
光梨は弱い言葉で返答した。それを聞いた可知子の瞳の色がまた変わる。再び先ほどの愉悦の光が表れる。
「そう。結構よ。ただ、ね、光梨」
光梨は可知子の言い回しに、顔に疑問の表情を浮かべる。見ると可知子は傷を見つめて憂い顔をしている。だが、彼女の目には微かな笑みが湛えられているようにも見えた。光梨は惑った。静まっていた音楽が、ここにきて新たな旋律を迎えて奏でられはじめた。その旋律はもはや確実に甘かった。
「傷のここ、見て」
可知子は光梨の目の先に傷口を突き出す。赤く濡れた肉塊が光梨の視界を占拠する。それはまさしく肉そのものであり、人間にあってはその皮膚の下に隠されるべき内奥であった。臭いは既にこの世界の絶対的構成要素の一つであったし、光梨の心はもはやそれを拒絶したりはしないが、視覚でなお完全に受け入れるまでにはなっていない。だが光梨の葛藤などを省みることなく、可知子は傷の皮膚の剥けた一端を左手の指で指し示す。
「薄皮の下に膿が溜まっているのよ。破れそうなのだけれど、破れたらまた気持ち悪いわ」
光梨は目の前の傷の、指し示された一点に焦点を合わせる。そこには確かに黄土色のものが薄い皮の下に、今にもはちきれそうに詰まっていた。
「だからね、光梨」
光梨には可知子の次の言葉が容易に予想できるように思えた。
「膿を吸って欲しいの」
光梨の頭を可知子の言葉が矢のように貫いた。それはもう遥か以前から定まっていたことのように思えた。光梨の脳内は純粋な、あまりに純粋な、であるが故に純粋な白にも等しい、黒い闇で飽和していた。答えはそれもまた遥か昔に存在していた。光梨の身体は体内から放射する闇に染まっていた。光梨の心は打ち震えていた。肉には予兆がみなぎっていた。奏でられている旋律がそれに熱を与えていた。
「はい、可知子様」
何も考えずとも言葉が出た。光梨は手にしたケースを机の上に置くと、傷と対峙した。光梨は両の手を可知子の右手に差し伸ばした。可知子の異形の手は確かな熱を持っていた。光梨の身体の、深淵の闇の奥底が熾りはじめ、零れはしないものの涙が滲み始めた。可知子の手の持つ熱は光梨にとって悦ばしく甘美に思えた。光梨は傷口に口を寄せるため腰を浮かせた。光梨は宙を泳ぐ心持ちがした。光梨の口の先にはすべてがある。光梨の口には唾液が湧き、熱すら持っている。もはや空気は膿と血の臭いで占められていた。他に何もないから、光梨は何も求めはしなかった。
唇の薄い皮が傷口に触れる。熱く、湿って、ひどく臭った。味蕾と鼻腔は血と膿、そして腐敗した肉の臭いで満ち満ちた。口の奥からじわりと熱い唾液が湧く。光梨は唇の薄い皮を通じて可知子を知る。熱い。唇の触れた面が熱く、それとは別に光梨の内奥もまた熱くなっていた。味覚は甘くないのに、身体の内奥が甘い。それは外で奏でられている甘い旋律と調和し高められていった。
光梨は皮を破るため僅かに前歯を可知子の皮に突き立てた。歯を通じて皮の破れる確かな感触がした。その本当に僅かな動きと感触が全身に響く。味蕾と鼻腔は膿の臭いで満ちた。それは最初本当に異質な臭いであり、味であった。光梨は漠然と思った。ついに可知子の内面に侵入したのだと。光梨の、脳も脳髄も身体の芯も闇で塗りつぶされ、熱くなっていた。膿の臭いと味が急速に愛しくなっていった。光梨は身体の内奥からあの甘く熱い蜜がこれまで以上に溢れ出るのを感じていた。鳴り響く管弦楽の音色が光梨の精神を闇の憧憬に溶け込ませていく。
口に可知子の内面から溢れる膿の汁を感じる。吸い出さなければならない。光梨は舌を可知子の肌に押し付け、傷を吸った。その臭いと味は明らかに異質なのに、光梨という存在を、その精神を、心を、突破しつつあった。光梨の舌に膿の粘液と傷の粘膜と、まだ侵されていない可知子の皮膚との感覚が直接感じられた。もはや唇の薄い皮すら邪魔をしない。光梨と可知子の間にはもはや何者も介在しない。光梨は滲み出る膿を吸い取りながら、可知子と一体の存在になっていることを感じた。光梨は膿を飲み下した。光梨の身体に異物が入っていく。それは重く、心の底に確実な、可知子という存在となって、溜め込まれた。光梨の精神は崇高で純粋な光と深く豊潤な闇で満ちていく。それは心の奥底からとめどなく湧いてきた。光梨は自身が憧憬を伴ってその闇に深く一体化していくのを感じた。
 




